あれ? 別のピッチャーを探すんじゃなかったの?
「おっはよー!!」
玲は桜花と唯の部屋の扉を勢いよく開けて入ると唯はすでに起きており、窓際の椅子に座って外を眺めていた。朝日に照らされた美麗な顔を玲の方へと向ける。
「お、玲と球じゃん。おは」
「んん、何よこんな時間に……」
桜花はベッドの中で伸びをしながらスマホで時刻を確認する。
「まったく……まだ五時じゃない。玲、あなたは雑用から脱したようだけど、私たちはまだなのよ。少しは気を遣ってちょうだい。昨日も疲れたのよ」
そう言ってから桜花は再び布団の中へ吸い込まれる。
「あー! ダメー! 起きてよー!」
「ひぃっ!! ちょっと! 玲! 止めなさいって! 怖い! 怖いわよっ!!」
玲は布団の中から桜花を担ぎ上げると、そのままその馬鹿力で振り回した。
「起きるー? 起きるなら降ろすー」
「起きてるわよ! こんなことされたら覚めるに決まってるじゃない!」
「ははは、桜花。めっちゃ回ってるじゃん。初めて人が回ってるの見た」
「笑ってないで止めなさいよ唯!」
空中で桜花が暴れたため、玲は彼女を受け止めて丁寧に降ろした。
「はぁ……で、何の用よ。勝負は明日でしょ?」
能代との勝負から二日が経ち、球たちは退部を懸かった栄司との勝負が明日にまで迫っていた。
「見せたいものがあるんだ」
球は小さく笑って言った。
「何よそれ」
「良いからほら、外に行くよ」
「まったく……分かったわ。行くから、歯くらい磨かせてちょうだい」
「で、これは何?」
桜花は球から差し出されたキャッチャー防具一式とミットを怪訝そうに見る。そして、二十メートルほど離れたところでこじんまりと居心地の悪そうにしている誉を軽く睨んだ。
二人の間に重々しい空気が流れる。
三人で整備した林の練習場にはすでに紬が自主練習をしており、六人全員が集合していた。
「受けてよ、誉のボール」
「は? 何で私が……」
「良いから、ね? はい、着けようね」
「やめなさいって! いらないってば、ミッドだけで十分よ」
「いや本当に、着けた方が良いと思うよ」
「あの子のボールでしょ? たしかに女子にしては速いけど、それだけじゃない。変化球もたいしたもの持ってないでしょ」
「うーん。桜花がそう言うなら、危ないと思ったらちゃんと避けなよ」
「危ない? ふざけないでちょうだい。そもそも硬球を扱うこのスポーツで危ないなんて当たり前よ。それにそんな下手はしないわ」
「はいはい。分かったから、さっさと座って構えなって」
球は桜花の肩を両手で掴むと無理矢理に彼女の腰を降ろす。
「ちょっと!」
「誉ーいいよ。まずはストレートからいこう」
「う、うん!」
誉は自身なさげに胸の前に構えたボールを握った右手とクラブをはめた左手を頭頂部まで振り上げてから、身体を直角に反転させて左足を上げる。足と腕を連動させながら流れるように左足を桜花へと踏み込むと、異様にしなった腕が後方から飛び出てくる。――来る! 桜花は誉から放られるだろうボールの行方を探す。しかし見つからない。
どこ⁉ そう思った刹那、それはいきなり現れた。虚をつかれた桜花だったが辛うじて捕球を成功させた。
「何よこれ……」
「どう? 驚いた? 急に出てきたでしょ?」
「え、ええ……あれ、あなたが? ううん、違う、どうやってあんなボールを」
「誉は身体がめちゃめちゃ柔らかいからね。それも軟体動物かってくらい。だからフォームが崩れない程度にちょっと工夫したんだ。身体の連動よりボールが異様に遅れてくるようにね」
「へえ、ちょっとびっくりしたわ」
「へぇ、って、笑わせないでよ桜花」
呆気にとられた桜花の様子に球は腹を抱える。
「な、何よ! ちょっと驚いただけよ。それにスピードも上がってない?」
「そう思うのも無理はないけど、前とほとんど変わってないんだ。平均で百二十後半、最高でも百三十ちょっと、女子にしては十分速いけどね」
「いや、でも明らかに速く」
「それはボールの回転だね。今のフォームに変えてからボールの回転数が増えたことと、軸のブレない綺麗な回転だから初速と終速の差がほとんどないんだ。普通は初速から段々と遅くなっていくんだけど、誉のはそれがほとんどない。前々からストレートの質には拘っていたみたいだけど、今回の改良でようやく武器になるレベルに昇華されたね。まあまだ安定はしてないから課題は山積みなんだけど」
「正直、私に全部は理解できないけれど、よくもまああなた、この数日でここまで仕上げたわね」
「私はほとんど何もやってないよ。誉の練習と体調管理、それから少しアドバイスをしただけ」
「それは十分やってるって言うのよ」
「それでもほとんどはあの子の努力と執念が成したこと。じゃなければこんな短期間でここまでできないって。桜花だってもう分かってるでしょ? あの子の本気を」
「……ええ」
桜花は球から視線を逸らしながら小さく返してから、立ち上がった。
「あ、ちょっと待って」
「ちょ何よ! 人がせっかく……」
「まだあるの」
「え?」
「ふふっ、だからまだあるんだって。ふふ……っ! そんな間の抜けた顔しないでよ」
唖然としていた桜花は顔を一気に赤くした。
「ちょっとやめてくれる⁉ そんなことはどうでもいいのよ!」
「あはは、分かったって。誉、次はソードカッターお願い」
「うん!」
誉はそう言ってから投球モーションに入る。
「ソードカッター?」
「ちゃんと集中してないと、次は本当に怪我するよ」
誉が放ったボールはストレートと同じくらいのスピードで桜花のミットへと向かっていく。彼女はただのストレートじゃない、と落胆するも、次の瞬間に度肝を抜かれた。彼女がミットでそのボールを捕える寸前、ボールが鋭く剣のように横方向へと曲がったのだ。
桜花はその急激な変化に対応しきれず、ボールを後ろに逸らしてしまう。
「どう? もっと驚いたでしょ?」
「ええ、カットボールね、これ。取れなかったわ……」
「はは、無理ないって。初見じゃ無理だよ。キャッチャーの私ですらギリギリだったんだから、気にしなくて良いよ。それよりすごいでしょ? このキレ! 曲がりが鋭過ぎだよね!」
カットボールはストレートとほとんど変わらない速さであり打者の手元で小さく横方向へ曲がることで打ち損じを狙う変化球なのだが、誉が投げたそれは通常のカットボールより大きく、そして鋭い曲がり方をした。それも打ち損じではなく、空振りを狙えるほどの。
「そうだけど。そのソードカッターってネーミングあなたがしたの?」
「そう。剣みたいに鋭い曲がりのカットボールだからソードカッター」
「小学生男子みたいなノリね。それにしてもこんな決め球まで……あんなに変化球苦手だったのに」
桜花が驚くのも無理ない。誉は手先が信じられないほどに不器用で、カーブやスライダーなどの変化球を投げようとしても曲がらない、単に緩いボールになってしまう。そんな彼女がいきなり決め球となる変化球を投げたのだ。
「そうだね。これでストレートが数段上の武器になる。今までの誉とはもう比較にならないよ」
「他には試したの?」
「一応、色々と試したんだけどストレートに近い投げ方の変化球しか投げれなかったかな。あと使い物になるのはツーシームだけだったかな」
「それでも十分通用するわよ。これで勝ちに一気に近づいたわね」
桜花は嬉々として言った。
「あれ? 別のピッチャーを探すんじゃなかったの?」
球は意地悪に返す。
「あっ……いや、それはその……」
「はは、ごめん。冗談だよ。本当に素直じゃないんだからさ。さっさと謝れば良いのに、本当は悪いことしたと思ってるんでしょ? ……ああ、そっか、謝られるの嫌いなんだよね。そりゃあんなこと言った手前ね、簡単には謝れないよね?」
桜花は下に向けた顔をキャッチャーミットで覆う。隙間から見える肌と隠しきれていない耳は血のように赤い。
「……やめて」
桜花は小さい声で言った。
「ごめんって、からかい過ぎたって。まあでも、早くいつも通りに素直に言いなよ。言いにくい気持ちは分かるけど、言わないと伝わらないよ。本当はもうちゃんと認めてるって、誉の本気は伝わったって」
桜花はキャッチャーミットの中で一回深呼吸してから立ち上がった。
「あなたに言われなくても、そうさせてもらうわ」
まだ少し赤みがかった顔を引き締める。
「誉、話があるの。その……」
「まっ、待ってっ! そ、その……ごめんなさいっ!」
誉は上半身をほとんど百八十度折った。
「私! 謝ればそれで済むと思ってた! 謝ってその人の気が済むならそれで良いんだって、私の意思なんてどうでも良いんだって……でも、そうだよね。心の内はどんな形でも見せないと伝わらないよね。私、二人がいなくなっちゃうのが怖いって言ったけど、自分が打たれるのも怖かったし、それで責められるのも怖かった。だから桜花ちゃんの言う通りだった。図星だった――でも! 私、決めたの! 強くなるって! 今はまだ弱っちいままだし、多分またすぐに弱気になっちゃうこともあるかもしれない……けど……」
誉は垂れてきた鼻を啜り、溢れ出した涙を拭ってから続けた。
「私は皆と一緒に甲子園に行きたい! だから! だから……わ、私と一緒に戦ってくれませんか? こんなすぐに泣き出すような私だけど、い……一緒に、野球をしてくれませんか?」
そう言い切ると誉はボロボロと泣き出してしまう。
「まったく……何なのよ」
桜花は目尻を熱くさせて続けた。
「ごめんなさい、誉。私、あなたの気持も知らず、知ろうともせず、分かろうともしなかった。それにあなたを心無い言葉で踏み躙り続けた。あなたがどれだけ本気で、どれだけ必死に理不尽と戦ってきたのか私は理解しようとしなかった。球に言われた通り。私の眼が節穴だったわ。それに、その……私、あなたに助けてもらったお礼も言ってない。だから、ごめんなさい。そして助けてくれてありがとう」
桜花の頬を一本の涙が伝う。
「私の方こそ、誉に手伝ってほしい。私の、ううん。私たちの夢を叶えるために誉の力を貸してほしいの」
桜花が誉を抱きしめると、彼女は嗚咽にまみれながら答えた。
「う、うんっ!」
これでやっと六人揃った、と球はそっと胸を撫で下ろした。