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扇の偉才は逆襲する  作者: one reon
清流高校野球部編
42/68

VS. 打つとは一言も言ってませんよ?

「で、どうだった?」

 球はヘルメットを被りバットを手に持った三人に向かって問う。

「どうだったじゃないですよ。三人とも一回も振らずに三振、球ちゃんの言う通りに!」

 紬が呆れた態度で強く言った。無理もない。

 マウンドに立つ能代との勝負が始まり、初めの一巡目、球は三人にバットを振らないで、と指示を出したのだ。

「チャンスは三回しかないのに、こんな一回丸々無駄にするなんて……」

「大丈夫だって。だいたい予定通りだし、これで確実に勝てるようになってる。ただ予想外だったのは……」

 球はホームベースの後ろに座る全身プロテクター姿の敦也を見る。盲点だった。能代と勝負をするならキャッチャーは敦也がやることは容易に想像がつく。二人ともシニア一と呼ばれたピッチャーとキャッチャーだ。二人が組むことは自然な流れだ。

「考えを読まれないと良いのだけど」

 球は敦也に対してキャッチャーとしての技術や試合に勝つ方法論、野球のいろはを叩き込んでいる。つまり彼は球の手の内を知っているということだ。

 折角の作戦も裏をかかれてしまえば破綻する。一つのミスが命取りになる。紬には確実に勝てるとは言ったものの、球の内心は穏やかではなかった。

 しかもここに来てもう一つ不安な要素が増える。

「私、信じられないです。玲ちゃんも、唯ちゃんもあなたを信用しているようですけど、私にはそこまで信用できる要素がありません!」

「つー、やめなって。球は私たちのために一生懸命やってくれてるのに。何でそんなこと言うの?」

「逆に二人がそこまで信用していることが信じられないです。偉才って呼ばれてたかは知らないですけど、そんなの遠い昔のことじゃないですか。ここは高校野球なんです。負けたら後がないんですよ⁉」

「だったら尚更信用しなきゃ駄目だよ。つーお願い」

「いくら玲ちゃんのお願いでもできないです! 大丈夫、勝てるって根拠もなしに言われたって信用できるわけないですよ。私何か間違ったこと言ってますか?」

「あーあのさぁ、だったらもうやめちゃいなよ。時間の無駄だからさ」

 唯の言葉に紬が目を見開く。

「何を言ってるんですか唯ちゃん⁉ 今更引けるわけないじゃないですか!」

「あーうん。だったらさぁ、さっさと進むしかないじゃん。勝つ可能性が高い方にかけてさ。球の作戦に従った方が勝つ可能性が高いことくらい分かってるでしょ?」

「そ、それは……」

「それにさぁ……さっきから失礼じゃない?」

「え?」

「私は玲と紬を勝たせてあげたいから手伝ってほしいって球からそう言われて、お願いされた。私にしかできないからって、怪我明けの私を信用してくれた――二人のことも同じだと思う。球は二人を信じて一生懸命に作戦を立てたはず。それなのに紬は根拠がないだとか、過去がどうだとか、そんなこと言ってる。だから、えーっと、何て言おうとしたんだっけ? 長く喋り過ぎた。まぁ、だから……」

「分かりました、唯ちゃんの言いたいことは理解しました。従いますから」

 紬はまだ完全に納得していなかった。玲と唯の言い分は理解できるし、納得もできるがやっぱり球の作戦を、というより球自身を信用することができないのだ。そこに関しては自分の言い分が正しいと思っている。

「ありがとう――その……次の作戦、言いにくいんだけど」

「何ですか? もういいですって、今更です」

「分かったよ。じゃあその、怒らないでね?」

 球は二巡目の作戦を三人に伝えた。




「ぐぬぬぬっ!」

 二巡目の攻撃、一番バッターである紬は今にも怒りを爆発させそうな様子でベンチへと帰ってきた。顔を真っ赤にして歯を噛み締める。納得はしていないが一度受け入れてしまった手前、それをひっくり返す訳にはいかないが、やっぱり少し漏れてしまう。

「何ですか……セーフティをしてアウトになれって……っ!」

 紬に対して球はセーフティバントをしてわざとアウトになれという指示を出した。

セーフティバントは打球を内野へ意図的に緩く転がして、足の速さを活かしてヒットを狙うものだ。だが球はあえてアウトになれと言った。それに足の速さは紬の長所であり、野球を続ける中で必死に磨いてきた武器で、走ることに並々ならぬプライドを持っている。

 だから、彼女にとって球の作戦は理解できない上に、プライドすら捨てろと言われているようなものだった。

「よーしよーし」

 玲は怒り心頭である紬を後ろから抱きしめて、ヘルメット越しに頭を撫でると紬は少しばかり冷静さを取り戻した。

「まさか、二巡目も無駄にする気なんですか?」

「無駄にする気なんて微塵もないよ」

「だったら何でわざとアウトになれって。せめて作戦を教えてください。じゃないとやっぱり納得できません」

「それはできないよ。相手が相手だからね、こっちの考えを気取られたら終わり。隙を見せる訳にはいかない」

「だったら尚更共有して……」

「ダメダメ、そんなことしたら唯は大丈夫かもだけど、玲と紬は脚色が入るから。二人ともそんなに器用じゃないでしょ?」

「それは、そうですけど……」

「そもそも一点さえ取ればこっちの勝ちだから、二巡目まではその布石。三巡目に一点、確実に取るためにね――それに見て」

 球は守備につく能代側の助っ人を指した。

「分かる? 足は動かしてないし、声かけもない。完全に打球が飛んでこないって油断してる。完全に私たちのことを見下して、もう勝った気になってる。この隙を突くんだよ」

「そんなに上手くいくんですかね」

「うん、もちろん。紬の足を、唯の執念を、玲のバッティングセンスを私は信じている。それに私は私のために三人を絶対に勝たせる。勝てない私に価値はないから」




「ファール!」

 主審の声がグラウンドに響く。これで八回目のコール。唯はツーストライクと追い込まれてから八球連続でバットに軽くボールを当ててファールにし続けている。

「それで、唯ちゃんには何て指示をしたんですか? 粘ってフォアボール狙いとか?」

「いや、できる限り粘ってから適当なところで三振してきてって言ってある」

「何ですかそれ、意味が分からないです」

「大丈夫、本人は理解してるから」

 唯は能代が放ったボールを振らずに見送る。

「ボールッ! スリーボール、ツーストライク」

 審判がフルカウントを宣言すると、唯は相変わらずの惚けた表情で球へと視線を送り、球は頷いて返す。

 能代が大きく振りかぶって投げる。明らかに力んだフォーム、ボールの軌道は唯のストライクゾーンの上だ。振らなければボール、フォアボールで出塁できる。得点をするチャンスだ。

 けれど唯は何も考えずにバットを思い切り振り抜いて空振る。

「な⁉」

 紬にとっては驚くべきことだが唯にとってはそうじゃない。当たり前だ。球の指示に従い、己を捨て、気持ちを捨て、ただ勝つために。頭で理解していてもなかなか出来ることではない。全てを割り切って勝ちに徹する。これが彼女の強さだ。

「お疲れ」

「あーまあ普通に打とうと思っても打てないしね。やっぱ痛感するね、力の差を。ピッチャーとしても」

「そんなものだよ。大丈夫、私が勝たせるから」

「あーうん。分かってるよ」

 唯はヘルメットを脱いでベンチに思い切り座った。

 球はネクストサークルから打席へ向かう玲を呼び止める。

「思いっ切り振ってきて!」

「おーう! 任せてぇっ!」




「ごめぇん。ダメだったぁ……」

 見事なまでの三球三振だった。すべて強振、文字通りフルスイングで、三回ともボールに擦りもしなかった。

「大丈夫、次は絶対に打てるから」

 球はあからさまに落ち込んでいる様子の玲の肩に手を置いて慰める。

「よしっ! 下拵えは終わり。点取りに行くよ」

「はあ、それで、私は何をすれば良いですか?」

「紬はまたセーフティして」

「で、次もアウトになれって言うんですか?」

「はは、まさか。紬が一周して帰ってきて私たちの勝ちなんだ。もちろん本気で走ってよ。紬の足を信じてるって言ったじゃん」

「わ、分かりました。言っておきますけど、私はまだあなたのことを信用した訳じゃありませんから!」

「うん。それでも今、全力を出してくれれば良いよ。後、塁に出たら好きにして構わないから。唯が良い感じに合わせるから」

「何ですかそれ……本当にこんなので勝てるんですかね」

 呆れてそう言いながら紬はバッターボックスへと向かい、審判に一礼をしてから左打席へと入る。

「おい、チビ」

 そんな彼女に能代は声をかけた。

「……何ですか?」

 紬は怪訝そうな表情を浮かべる。

「もう諦めようぜ、これ以上やっても時間の無駄だろ。降参してくんね? ダリィわ」

「おい、傳。勝負の最中だ。無駄口を叩くのはやめろ」

 敦也はマスクを被ったまま言った。

「あ? 余計なこと言ってんじゃねえよ。大人しくミット構えてろって、リードなんていらねえ。こんな女共に負ける訳ねぇからな」

「それはできん。やるからには全力を出すのが礼儀だ。お前もそうだが、守備陣全員油断しすぎだ。少しは足を動かせ」

「おいおい、あいつらを責めるなって。仕方ないだろボール飛んでこねぇんだから。責めるならそこの女連中だろ。まったく女のくせにしゃしゃりでやがって。勝負になんねぇって」

「おい、その辺に……」

「早く投げてくれませんか?」

 敦也の静止を遮ったのは紬だった。

「は?」

「だから、そんなこと心底どうでもいいんですよ。ここはグラウンドです。男がどうとか女がどうとか関係ないです。それにまだ勝負は決していません」

「おいおい、こっちはお前らがそれ以上惨めな思いをしないようにって配慮したんだぜ! それをよくもまあ、そんなこと言えたな! もっと惨めな思いをさせてやるよ!」

「惨めな思い? 生憎ですが今までに十分惨めな思いはしたので、もう結構です。私はここに勝ちに来たので」

「残念ながらもっと味合わせてやるよ。あーあ、高校野球なんて諦めて普通の学校に行ってれば、こんな思いもせずに済んだのになぁ、人並みの青春でも送れたんだろうになぁ、本当に残念な女共だよ」

「人並みの青春なんて、そんなの私はいらない。どんなに苦しくても、どんなに惨めな思いをしても、どんなに理不尽でも私はここで皆と勝ちたい。勝って皆と甲子園に行きたい。これが私の欲しいもの。他には何もいらないんです」

「へぇ、皆と勝ちに来たねえ」

 能代はベンチに座る球へ視線を向けて、笑みを浮かべながら指した。

「まさかあいつがいれば、あの女に従ってれば勝てるとでも思ってんの? そりゃまったく残念な奴らだ。あいつがシニア時代にやったこと、お前も同世代なら知ってるだろ? あんな堕ちたやつと組んでもどうしようもねえ。ここに勝ちに来た? だったらもっとマシなやつと組むんだな! まあ、おめえら女共にはなから勝ち目なんてねえんだよ」

「……ます」

「あぁ?」

「そんなこと知ってます」

「だったら」

「だったら何ですか! たしかに私は球ちゃんのやり方を信用していませんし、あの子の考えも理解なんて到底できません。聞いても良く分からないことを言って話してくれませんし……でも、球ちゃんが本気で私たちを勝たせようとしてくれることは理解できます! だから、そこだけは分かりあえているから私は今ここに立っている。あなたたちが球ちゃんのことを何と言おうと、私たちのことをなんて言おうと、これから私が為すことに変わりはありません!」

 紬は左打席からマウンドの能代に向かって片手でバットを突き出す。宣戦布告である。

 馬鹿にしている、完全に見下している相手からのそれに彼は怒りを露わにした。

「へぇ……! こっちは配慮してやってんのに。女相手に全力じゃあ悪いと思ったのによ……いいぜ。打てるもんなら打ってみろよ。クソカス共がっ!」

 紬が打席の一番前に立って打ち気満々でバットを構えると、能代は腕を胸から後頭部にかけて大きく振りかぶり投球モーションへ入った。清らかで透き通る川の流れのように雑念や余計な力みのない緩やかな動きから、その柔らかいモーションとは正反対に白球は凶悪なまでに暴れ唸りを上げて、時速百四十を超える速度で紬へと迫る。先ほどとは比較にならないボールの質に紬は成す術なく、抵抗する余地なく見逃すしかなかった。

 そしてそれが敦也のミットに吸い込まれ、乾いた破裂音がグラウンドに響くと、審判のストライクのコールが後に続いた。

 彼女はそのボールが能代へと返球されて、彼の不敵な笑みを見てから自分たちが手加減されていたことを理解した。

「どうだ? 怖気づいたか? やっと分かったか? これが性別の、身体能力の差だ。今更やめるって言っても遅せぇから。やめたくなるまで徹底的に心を折ってやるよ」

 紬はその堂々とした態度とは裏腹に内心は悔しさに染まっていた。今のたった一球のストレートで自分のちっぽけさを自覚してしまった。対峙する能代と自分の圧倒的な能力の差を認識して、彼の放るボールに恐怖してしまったのだ。

 ああ、打てない。頭にそう過った。逃げ出してしまいたいほど惨めな気持ちにもなった。

 しかし、彼女は逃げない。ベンチにいる三人を少しだけ目に入れる。自分の役割を、為すべきことを再確認して堂々とバットを構えると、能代が放った二球目に必死に食らいつく。恐怖はあった。でも彼女にとってそんなもの負けの悔しさに比べたら大したことなかった。顔面近くに向かってくるその硬球を彼女はサード手前にバントで弱いゴロを転がす。

 そう。彼女の役割はあくまで出塁することであり、何もヒットを打つ必要はない。どんな形であれ塁に出る。それが彼女の為すべきことだ。

「おいおい、またセーフティかよ。たいして足も速くねえくせに」

 能代は呆れながら弱々しく転がったボールを捕球する。

「バカっ! 速くしろっ!」

 その様子を見て敦也は叫んだ。

「あんま急かすんじゃ……って! なんだそりゃ……っ!」

 能代がボールを捕球するころには紬はすでに一塁ベース手前、慌てて彼は一塁へと送球するも彼女は悠々とベースを駆け抜けており、審判のセーフというジャッジが彼女の出塁を宣言した。

 彼は二打席目で紬の足の速さを勘違いさせられていたのだ。女にしては速い、そんな認識だったのだが、実際に紬の塁間到達タイムは三コンマ九である。入学した一年生の中では最速である、この足の速さこそ彼女が今まで必死に磨いてきた武器だ。それを球は理解していたからこそ紬を信頼し、確実に出塁できるよう二打席目で彼女に道化を演じてもらったのだ。

「ちっ! クソがっ!」

 能代がマウンドの砂を蹴り上げて一塁ベースの上で誇らしげに立っている紬を睨む。

「打つとは一言も言ってませんよ?」

 先ほどまでの余裕は彼の表情からさっぱりと消え去っていた。

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