サボりの女
球は男子寮の裏側にある小さい丘に来ていた。ここには一つだけベンチがあり、日向ぼっこをするには最適な場所だ。目的の人物である、松本唯はそのベンチに腰をかけて、呆けた表情で男子寮を見つめていた。
男女共に人気のあるその非常に整った造形の顔で、首元までの短い黒髪を靡かせている姿は、彼女のミステリアスな雰囲気と相まって少し近寄りがたい。
「こんなとこにいたんだ、唯。探したよ、メッセしても反応ないから」
球が後ろからそう声をかけると、彼女は首を真後ろに折って頭だけ球へと向けた。
「あー球。久しぶり……何か随分と会ってなかった気がする――ちょっと老けた?」
「入寮してからは一回も会えてなかったね。部屋には行ったんだけど、唯いなかったから」
「あーそう、桜花に会いに来たんでしょ? 最近やたら、なんだろ……そのーピリピリ? してたから、あまり部屋にいたくなかったんだ」
「話くらい聞いてあげればよかったのに」
「ははは、ダメだよ。そんなことしちゃ。私が話を聞いても怒らせちゃうだけだって、桜花は難しいことばっか考えてるから。それに、そういうのは球の役割でしょ? 私はその……そう、そういうの向いてないから」
「はは、たしかにね」
球はそう言ってから唯の隣に座った。
「で、雑用サボってこんな所で何してるの?」
「あー何て言えば良いんだろ……その、気分転換? かな。ここ、癒されるんだ」
「まあたしかに良いね。日当たりも良くてこの時間なら尚更、すごく気持ち良いよ」
球は目を細めて上を向くと手足を目一杯に伸ばした。
「え?」
「え? 何か違うの?」
「えーっと、うん。たしかにそうなんだけど、そうじゃなくて……あそこ」
唯はそう言って男子寮の窓の一つを指した。それは寮部屋の開放的な大窓とは違う、各階に一つずつある小窓だった。
何なのだろうと球は注視する。
「ただの窓じゃない? 何も癒される要素がないんだけど」
「うーん。今はね、何もないよ。そろそろだと思うんだけど……」
状況が動いたのは数分後だった。
「あ……ほら、来たよ」
「来たよって……」
その小窓から見えたのは敦也の横顔だった。
「ほら、あの妙に脱力した表情、癒されるでしょ? 人が気持ち良さそうにしてるの見ると、こっちも気持ち良くなるよね、ふふ」
「うーん。まあ、そうだね」
敦也の、あの絶賛仲違い中である幼馴染の顔ではなかったら、そうかもと球は思った。
三十秒もしないうちに小窓から敦也は去った。
「で、あれは何なの?」
「え? あーうん。あそこ、男子トイレ」
「は?」
「だから、男子トイレだって」
球は両手で顔を覆うと大きな溜息を吐いた。
「唯……あなた、何てもの見せてくれたのよ……」
「え? ダメだった」
唯は心底不思議といった顔で返す。
「ダメっていうか、これただの覗きじゃない。犯罪だし、逆の立場だったらどう? 自分がされたら嫌じゃない?」
「え? 私は別にトイレを覗かれても構わないけど、球は嫌なの?」
「……普通、嫌だと思うよ」
「へぇ、そうなんだ。それならやめなきゃだね――割と楽しみだったんだけどなぁ」
「もしかしてこんなこと前からやってるの?」
「あーうん。そう、入寮した日に見つけたんだ、この場所」
「そう、良かったわ。バレて問題になる前で」
「あーね。本当に問題にならなくて良かったよ……何人かはこっちを見てから恥ずかしそうな顔をして、すぐに顔を逸らしてたから」
「思いっきりバレてるじゃない! 今すぐやめなさい!」
「あ、待って、今ちょうど来たから、最後に一人だけ……」
「もういいって! 早く、行くよ!」
「はぁ、まったく……」
もう一年以上の付き合いになるというのに球はいつも唯に振り回されている。慣れとかは関係ない。唯の行動は常に球の想像の斜め上を行く。
球は寮の自室の扉を開く。
「おー、結構片付いてるじゃん。実家の部屋もそうだったけど几帳面だよね、球って」
「まあね、誉もかなりマメだから散らかる要素がないね」
「あーうん。あの子ね。今朝見かけたけど、なんか雰囲気変わった?」
「うん。吹っ切れたというか、闘志が燃え盛ってる感じ?」
「ふふ、いいね。好きだな、そういうの」
「てか、そろそろ本題に入っていい? 随分と遠回りした気がするし」
「そう? いつもこんな感じじゃない? ――うん。で、どうしたの?」
「実はさ……」
球は唯に玲たちと一緒に能代と勝負をしてほしいこと、その経緯と勝負方法、それから球自身はその勝負に参加できないことを話した。
「どう? ポイントがマイナスになるリスクはないしやってみない? 私、どうしてもあの子たちを勝たせたいんだ」
「あー」
唯は無表情のまま少し考える。
「うん。やるのはいいんだけど、それさ、絶対私じゃない方が良いと思う」
知ってると思うけど、と唯は続ける。
「怪我明けだしさ……それに私、ピッチャーしかしてこなかったから打つのはあまり得意じゃないよ」
唯は一年前に利き肘の故障を患い、通っていた病院で球と出会った。それから今まで球の指示に従いながらずっと彼女と一緒にリハビリをしていたのだ。
「肘はほぼ完治してるし、練習もしてるからピッチャーとして復帰しても良いと思うけど……まあその話は追々にして。もちろん唯のバッティングセンスのなさは分かってるよ」
「あー、自分で言っておいてなんだけど、面と向かって断言されると少しくるね。まあでも、その通りだよ。だから私じゃ無い方が良いって」
「そんなことどうでも良いの。打てないことなんて百も承知で唯にお願いしてるんだって」
「え? あー……ただの人数合わせ的な感じ?」
「そんな訳ないじゃん。らしくないこと言わないでよ。まさか、ピッチャーとして投げれない自分に価値がないとでも思ってるの?」
「あーまあ、うん。事実だし」
「なら、その認識を改めて。唯がそれだけの選手だったら私はわざわざ一年間もあなたのリハビリに付き合ったりなんてしない」
「でも、投げること以外に長所なんて」
「あるよ――唯の勝つことに対して異常なまでに貪欲なところだよ」
「え、異常って……」
「褒め言葉だって。どんなに理不尽で圧倒的に不利な状況であっても絶対に諦めないし、自分の気持ちとか信念を捨てなきゃならない場面なら平気で捨てる。本当は危ないからやめてほしいんだけど、目の前の一個のアウトを取るためならどんなことでもする――そんなプレーをする唯だから私は一緒にリハビリをしたし、今だってあなたを必要としてる」
球は大きく息継ぎをしてから続けた。
「打つ方は玲たちに任せて大丈夫だから、唯にはあの二人を繋いでほしい――これは唯だからできる。私がどんな決断をしても、必ず勝ちに徹してついてきてくれる唯だからこそできることだよ。良かったらあの二人を私と一緒に手伝ってあげてほしい」
球は左手を差し出す。
「……あーうん」
口を半開きにして天井を見上げる。それから球の顔を見つめてから続けた。
「分かった。やるよ、私。球にそこまで言われたらやらないわけにはいかない……私にできることがあるなら」
唯は少し口角を上げて小さく笑って、その手を取った。