カッコ良いキャッチャーになりたい!
小学校六年生の春。練馬第一シニアの下部チームにあたる練馬第一リトルの練習を終えた球がチームメイトと別れを告げて一人で居残り練習をしていると、川沿いにチームメイトの一人であった男の子が体育座りをして泣いていた。
どうしたのだろう、と気になった彼女はしばらく様子を伺っていると彼は川に向かって手に持ったグラブを思い切り投げ込んだ。
その瞬間、球は駆ける。流されていくグラブに向かって全速力で走り、躊躇なく川へと飛び込んだ。流れが緩やかで、小学生でも足の着く深さだったことが幸いで球はグラブを手にすると容易に岸まで辿り着いた。
「だ、大丈夫⁉」
そんな彼女の様子を見た男の子は慌てて駆け寄って、水に浸かった彼女へ手を差し伸べる。
その手を取って川から脱した球は笑顔で言った。
「敦也くんだよね? ほら、これ。落としたよ」
球は嘘をついた。誰がどう見ても捨てたようにしか見えなかった。だからこそ、そう言った。
「いや、いいよ。そんなもの」
「やめちゃうの? 野球……」
「うん。僕は君みたいに上手な訳じゃないし、それに野球なんてやってても面白くないんだ。家でゲームしてた方が楽しいし」
「面白くないなんて嘘だよ」
「嘘じゃないよ。だって一年生からずっと試合出たことないし、皆からは馬鹿にされていじめられるから……こんなこと言っても君には理解できないと思うけど」
球はすでにチームの正捕手として全国制覇を成し遂げ、偉才と称されていたが、敦也は万年補欠だ。試合に出られず、チームの輪からも外れた彼の気持ちを球が理解することはできないだろう。
それでも彼女は手を差し伸べた。
「じゃあ、上手くなろうよ!」
「そんなの無理だよ、だって僕なんかが……」
「君なら大丈夫、だってほら」
球はグラブを差し出す。
「君の、こんなにも手入れされてるんだもん。こんなに野球に誠実なんだから上手くなれないはずがないって――それに私、人を上手にするのがめちゃくちゃ得意なんだ!」
「……僕にもできるかな」
「うん! もちろん! 私がいるんだもんっ!」
あまりにも真っ直ぐで純粋な彼女の眼は、こんな自分でも上手くなれるのでは、と敦也に思わせるほどだった。
「どうして二木さんは……」
「球で良いよ」
「球は何でこんな僕なんかにそこまでしてくれるの?」
「何で? うーん……私ね、もう死んじゃったんだけど、おばあちゃんが大好きだったの」
「う、うん」
「そのおばあちゃんがよく、人のためになることをしなさい、って言ってたの。それでこのチームに入ってから、私は運動神経が良いわけじゃないし、身体だって大きいわけじゃない、男の子みたいに速いボールを投げたり、ホームランを打てるわけでもない――そんな私が皆の、チームのためにできることって何だろうって考えてたら――皆を強くしようって思ったの! それで皆を勝利に導ける。そんな監督みたいなキャッチャーになろうって、そう決めたんだ! だから、敦也くんみたいに上手に出来なくて悩んでる子がいたら放っておけないんだ……お節介かもしれないけどね」
球は優しい笑顔を浮かべた。
「それにさ、悔しかったんだ。君に野球を面白くないって、ゲームの方が楽しいって言われたこと、野球なんてって言われたこと。だから君にも知ってほしいんだ、野球の楽しさを、勝つことの面白さを!」
敦也は少し考えてから決めた。
「分かった。お願いするよ」
敦也は少し間を空けてから続けた。
「じゃあ僕を君みたいな日本一のキャッチャーにしてよ!」
「え⁉ 出来ればその……違うポジションにした方が……だってこんなこと言っちゃあれだけど、私がいるから試合出れないことが多いと思うし、ピッチャーの方がカッコ良くない? キャッチャーなんて汚れ仕事だよ」
「嫌だ! 僕は君みたいなカッコ良いキャッチャーになりたい! じゃなかったら野球なんてやめてやる!」
そんなめちゃくちゃなわがままに球は大笑いをして承諾した。
「あ、そうだ! こっち来て」
敦也の手を球は引っ張り、困惑する彼を気にもせずに荷物のあるベンチへと一心不乱に向かう。何をするのかと思えば、今度はごそごそとチーム名の刺繍が入ったエナメルバックを漁り始め、すぐに目的のものを取り出した。
「はいこれっ!」
差し出されたのは随分と使い古されたキャッチャーミットだった。
「え、いいの?」
「もちろん! 私は新しいの持ってるから! それに嬉しいんだ。君が私と同じキャッチャーをやるって言ってくれて……皆やりたがらないから」
「うん! いつか球を追い抜かしてやるから!」
「いいね! じゃあ約束してよ! いつか私を追い抜かしてスタメンになる。それくらい上手になるって」
「分かった! 約束、僕、頑張って練習する! だから色々教えて!」
これが球と敦也の出会いだった。