悪いのはあなたじゃない。私は天才だから
深夜零時手前。球は桜花の部屋を訪ねた。
ノックをして少し経ってから扉が開く。
「何よ、こんな時間に。もう寝たいのだけど」
明日も四時起きなのよ、と眠気を漂わせた顔で付け加えた。
「分かってるよ、今一人?」
「ええ、そうだけど」
「じゃあ上がらせてもらうよ。廊下で話すことじゃないし」
球は桜花を強引に押しのけて入る。
「ちょっ、いきなりなんなのよ」
球は立ったまま話を切り出した。
「桜花、誉に謝ろうよ。さすがに言い過ぎだって、誉は仲間だよ?」
球の言葉を聞いた刹那、桜花から眠気は消え去り鋭い眼光から圧を発する。
「私はただ事実を述べただけよ。それに私はここに仲良しごっこをしに来たわけじゃないの。あなただってそうでしょ?」
「たしかに馴れ合いをしに来たわけじゃないけど、でもさ、野球はチームスポーツでしょ? チームメイトへの最低限のリスペクトも、あれじゃあないよ」
「あのねぇ、そもそもあの子にチームメイトとして戦う意思がないじゃない。そんな人をチームメイトとは呼べないし、思えないわ――だからもう一度言うわ、あと四人集めるのよ……私は本気なの」
「誉も本気だと私は思うけどな」
「私の本気とあの子の本気を一緒にしないで!」
「……違いなんてない、一緒だよ」
「あのね、あの子も、あなたも、高校が終わってから先も野球ができるかもしれないけど、私は……私にとっては高校野球が全てなのよ! 決められた大学、決められた会社、決められた人生! 私の人生は高校野球までなの!」
桜花は悲痛に叫び、球の胸倉を両手で掴んでから顔を触れる寸前まで近づけた。
「それが終わったら、私は一生、家の奴隷なのよ……甲子園は私の人生最後の夢、それがなされないのなら私の人生は無価値に終わるの……あなたなら分かってくれると思ってた。かつて偉才と呼ばれながら、理不尽に堕ちていったあなたなら、私の気持ちを分かってくれると思ってた」
胸倉を掴んだ手からゆっくりと力が抜けていく。
「私には桜花の覚悟も、気持ちの大きさも分からないよ。だってそれは桜花だけのものだから……でも、理不尽に身を置く辛さなら分かる。それは誉だって同じだよ。あの子だって必死でもがいて、勇気を振り絞ってここまで来たんだ。でも……桜花はそんな誉を否定した。それってさ、私たちを否定するのと何が違うの?」
「分からない! 私の眼にはあの子が何を思って、何を信念にしているのか分からない! ただこの理不尽に屈しているようにしか見えないのよ!」
「だったら知ろうよ。もっと誉のことを……私が教えるから。あの子だって理不尽の中で一緒にもがいてる仲間だ。桜花はまだ知らないだけなんだ。知ったら、受け入れることだってできるよ」
球の両肩を掴み、顔を下に向けて静かに涙を落としている桜花は力なく言った。
「……分かったわ」
「ほら、見てよ」
球と桜花は林の中を進んで例の、三人で整備した練習場にいた。そこにはすでに先客がおり、月明かりの下でジャージに身を包み、利き手に持ったタオルを懸命に振っている。一度振るたびに嬌声と嗚咽が混じる。彼女は泣きながらシャドーピッチングをしているのだ。
本来、正しいピッチングフォームを固める練習だが、それは成されていない。意思表示をしたくてもできない、皆のためになりたいけどなれない、そんな弱い自分が嫌で嫌でどうしようもないのだ。彼女は何の意思もない訳ではない。自分が意思表示をすることで誰かを傷つけて、自分も傷ついてしまうことが怖いだけなのだ。
ただ、球や桜花たち同様に人一倍負けず嫌いな彼女はこうしてどうしようもない、行き場のない感情を一人で発散するしかなかったのだ。
強くなりたい、その気持ちに変わりはないから、球にいくら早く帰ってこいと言われても、そうはいかなかった。たとえ睡眠時間が三時間しかなかろうと、一歩でも前へ進まないと彼女の気が済まなかったのだ。もっと強く、皆のためになれるように。
「ね、誉だって同じでしょ? あの子は表現が苦手なだけなんだって。何でも直球勝負の桜花とは正反対なんだって――でもさ、やっぱり気持ちは同じだよ。一緒の方を向いた仲間だって。だからほら、謝ろうよ」
球が手を引こうとするも、桜花は指で目尻を押さえながら拒否した。
「……やだ、私はここでいい」
腫れた瞼を誉に見られたくなかったのだろう。断固として動こうとしない桜花の様子に、しょうがない、と球は諦めをつけて一人で誉に声をかけた。
「誉、遅いよ」
「あ! 球ちゃん……」
誉は球の顔を見ると、急いで汗を拭うふりをして目から溢れる涙を隠した。一人で泣いたなんて思われたくなかったのだ。実際には以前から様子を見にきていた球は、彼女が毎晩のように泣きながら練習していることを知っているため、その行為に意味はないのだが、球はあえてスルーをして話を続けた。
「前にも言ったよね? 睡眠時間はしっかり取らないと、闇雲に練習をしても身体を壊すだけだよ」
誉は球の笑顔に気圧されるが、それでも食い下がる。
「で、でも! 私は下手だから……皆の役に立てるようにならないと、だから……」
「だったら尚更だって、必要とされた時に身体を壊してたらどうするの?」
「ち、違うの! そもそも私には力が、才能がないから! だから! 一分でも、一秒でも長く練習して、もっと上手に! もっと皆を……私は助けられてばかりだから、もっと皆を助けられるようなピッチャーになりたいのっ! だから……だから! 休んでる暇なんて私にはないの!」
誉は明確に、大量の悔し涙を流しながらそう叫んだ。球の意見を否定することになったとしても、これだけは伝えなければならない、自分の中では曲げられないと思ったからだ。
そんな彼女の言葉に球は驚いた。初めて彼女の意思を耳にしたからだ。入寮初日からずっと言葉にはしないものの、彼女が強い意思を持っていたことは行動から分かっていた。
けれどここまで、言葉にしてまでその意思を突き通すとは頭になかったのだ。自分が軽く方向修正をしてやれば良い、それで済むと思っていたがそうはいかなかった。誉の意思が想像以上に固く、性格が思っていたより頑固だった。
それならば、と球は即座にアプローチを変えた。このまま主張をぶつけても生産性がないし、下手をすれば過去の失敗を繰り返すだけだと判断した。
「ねえ、誉――誉は自分のこと才能がないとか下手だとかって言うけど、何でそう思うの?」
「だって……今まで私が投げて一回も勝ったことないし……そんなんだからいつの間にか試合にも出れないし、それで皆からいじめられるし……」
溢れ止まらない涙を拭い続けながら嗚咽交じりに辛うじて答える。
「うん。だから自分が下手だって、そう思い込んでるんだ。でもね、私はそう思わない。誉が勝てなかったのは誉に才能がないからでも、下手だからでもない――周りが悪かったの。誉の潜在能力、長所を活かせなかった監督やキャッチャーがクソ下手だったのよ」
「い、いや……そんなこと」
「そんなことあるよ――これ、見て」
球はタブレット端末を差し出した。画面にはいつ撮影したのだろうか、大量に誉のプレー動画やデータが表示されている。様々な角度からの投球フォームや球種ごとのボールの軌道や回転数のデータまで、中には清流野球部に入部する以前の動画まである。
「え……す、すごい。どうやってこんなに……」
「それだけじゃないよ。入寮してからずっと一緒に生活してたからね、身体のサイズや柔軟性、動きの癖まで誉のことなら全部頭に入ってる。今までの監督とキャッチャーはここまでしてた? ううん、絶対してない。してたら、もっとちゃんと誉のことを知って向き合ってたら、誉にそんな思いをさせてないはずだから……」
球の言葉に誉の眼から零れる涙の勢いが増す。
「たしかに今の誉じゃ、あの先輩に勝つことは難しい。ストレートは速いけど、コントロールは大雑把だし、ピンチになるとすぐ弱気になるし、それに一番は長所であるストレートを活かす変化球がない。あんなロクに曲がりもしないカーブとか、ただすっぽ抜けるだけのフォークはお世辞にも、嘘だとしても到底変化球とは言えないよ」
意地悪な笑みを浮かべながら言う球に、図星を突かれまくった誉は、ビクッと身体を震わす。
「でも、それは誉が下手だからとか、才能がないとか、決してそういう理由じゃない……断言するよ――今までの周りが悪いっ! 私だったら、もう誉にそんな思いはさせないっ!!」
球は深呼吸をして、柔和な笑顔を浮かべながら続けた。
「だからさ、誉……誉の全部、私に預けてくれないかな? もうあなたにそんな思いはさせないし、負け投手にする気なんて微塵もない」
「で、でも……私……びっくりするくらいダメだよ?」
「はは、そんなこと知ってるって。どれだけ誉のこと調べたと思ってるの? それでもあなたにはこの高校野球で、こんなクソみたいな理不尽な世界の中で勝てる力を持ってる。その力を私なら存分に発揮させることができる」
「でも……」
「そんなに自分を信じられないなら、私を信じてよ。堕ちた偉才なんて呼ばれて、今ではそれすら忘れ去られたような私だけど。それでも誉を勝たせる自信はある――それに誉だってわざわざこんな理不尽な世界に飛び込んで、負けに来たわけじゃないでしょ?」
「私は……うん……勝ちたい。勝って皆の役に立ちたいし、今まで馬鹿にしてきた人たちを驚かせてやりたい」
誉は目尻に残った涙を拭いさった。
「じゃあ、ほら。一緒に行こう」
「うん……まだ自分のことは信じられないけど、球ちゃんのことなら」
誉はそう言って差し出された球の手を強く握りしめた。