やっぱり雑用 睡眠の重要性
球と桜花が栄司に宣戦布告をした翌日、彼女らは早朝から雑用をしていた。あの後、配布されたスマートフォン端末にはしっかりと雑用のスケジュールが送られてきた。つまりはそういうことだ。下位三十名、これが彼女たちの現在地である。性別で差別されたわけでなく、単に過去の実績を考慮した評価だ。三人とも心持ちの違いはあれ、その事実はしっかりと受け入れて、用具室で座り込んでボール磨きに励んでいた。
「これ終わったから、チェックお願い」
桜花がボール一杯に詰まった箱を誉に手渡す。
「あ!」
「ちょ、まったく、ちゃんと持ちなさいよね。汚れたらまた拭き直しなのよ」
「……う、うん」
球と桜花がボールの汚れをとり、それらを誉がチェックをする流れ。用具係の先輩が後で厳しく確認するため、顕著な汚れが残っていようものなら面倒なことになる。それを避けるための対策だ。
「それにしても、六人野球ね……あと四人どうしようかしら」
「あと三人じゃないの?」
「え? あなたもしかして、この子を頭数に入れてるのかしら?」
「もちろん入れてるよ。だって戦力になるし」
「はあ……あのね。ただ頭数を揃えればいいってもんじゃないのよ。大体、この勝負に負けたら私たちの高校野球は終わるのよ? そんな大事な勝負のピッチャーをこんな意思の弱い子に任せたくないわ」
「誉の意思が弱い? 私にはそうは見えないけど」
「節穴ね。自分の意思表示すらまともにできないし、目の前でここまで言われてるのに言い返そうともしないじゃない」
誉が居心地の悪そうに目を逸らす。
「同意しかねるよ桜花。言い返さないからって意思が弱いとは限らない。桜花みたいにその強さが全面にでる人もいれば、そうじゃない人だっている」
「それこそ同意できないわね。少なくとも行動には出るはずよ。でもその子はそんな素振りすらない」
「それは桜花がちゃんと見てないだけじゃないかなあ」
「何ですって?」
桜花が球へ圧力をかけるも彼女は意に返さずボール磨きを続ける。
そんな二人の様子を見て誉が声を上げた。
「あ、あの私は……」
そう言いかけてから、背後に立つ用具係の先輩に気づく。背丈は百九十を越えた大男で、立っているだけで圧がかかる。
「……おい。これまだ汚れてるじゃねえか。てめえらクソみてえな仕事しやがって」
声音こそ大きくはないが、その静かな口調からはピリピリとした怒りが伝わってくる。瞬く間に用具室の空気が重くなった。
「誰だ、この箱の担当は?」
球は一瞬、桜花の方を見そうになったが慌てて目を逸らす。
あの箱を担当したのは桜花だ。しかし彼女はどうしても名乗りたくなかった。それは先輩が手に持つボールを見てみるとそんなに汚れてないように見えるからだ。そもそも桜花の性格上、全てをきっちりとするため磨き残しは考えられないし、そんな指摘する汚れが残っていたのなら誉が気づくはず。
そう、これは先輩のいちゃもんだ。
それを分かっているから彼女は名乗りたくないのだ。
「あ? 名乗らねえのか? だったら三人とも連帯責任で」
「私ですっ!!」
誉の声が狭い用具室に響く。
全身を震わせながら右手を突き上げている。
「クソチビてめえか……」
そう言ってから胸倉を掴み、そのまま自分の顔の高さまで誉を上げる。
「ちょっと、先輩」
球が止めようとするが、頭が怒りでいっぱいのようで耳に入らない。
「いいか? お前らの不始末は俺らの責任になるんだよ。あ? 分かってんのか? 俺にてめらのケツをふけってえのか?」
誉の胸倉を更に締め上げる。
「っ!! いっ、いいえっ……そんなつもりじゃ」
何があったかは知らないが明らかに冷静ではない先輩。この時代にまさか暴力なんて思いもしなかった球はその鍛え上げられ筋肉の隆起した腕を掴み慌てて止める。
「先輩、やめてください」
球は誉から引き剥がそうとするも、それは叶わない。当たり前だ。腕力の差がありすぎる。
「くっ!!」
「何やってんだ⁉ やめろ!」
たまたま通りかかったのだろう。寺園が慌ててそれを止める。
「お前、自分が何やってるのか分かってるのか⁉ 八つ当たりすんなよ!」
「俺らがあいつにやられたことを考えりゃ、こんなの何ともねえだろ?」
「気持ちは分かるけど、この子たちに当たって良い理由なんてないだろ? 次やったら上に報告するからな、いいな?」
寺園が強く言いながら用具係の先輩を無理矢理外へと連れ出した。
「大丈夫? ごめん、助けられなくて」
誉が座り込んで喉を押さえながら咳き込む。
「う、うん。大丈夫……ちょっと苦しかっただけだから」
そう言って少し苦しげな笑顔を浮かべた。
ちょっとなはずはない。かなり締め上がっていた。見栄を張ったのだ。
球は誉の首を触って異常がないことを確認すると胸を撫で下ろした。
「……どういうつもり?」
二人が桜花の方へ視線を移すと彼女の顔は怒りに染まっていた。
誉は慌てて取り繕う。
「わ、私は……いつも迷惑かけてるから、ただ……」
「ただ何⁉ 私を庇ったつもり⁉ 余計なことしないでちょうだいっ!」
考えられないかもしれないが、自尊心の塊である桜花にとって、あれだけ否定していた誉に助けられたことは許されないことなのだ。加えて自分が名乗らなかったために他人が傷ついたことも彼女にとっては許し難い。自らの未熟さが許せないのだ。
それでも……。
「それはあんまりじゃない?」
桜花の気持ちは分かるが、誉が彼女を庇った事実に変わりはない。それを差し置いて言う言葉ではないと、球は訴える。
桜花は球を睨みつけてから、何かを言いたそうな顔をするが、そのまま黙って用具室を去ってしまった。彼女も理解しているのだ。けれど、それを受け入れることができない。
「はぁ……何で私っていつもこうなんだろ」
悲壮感溢れる声が誉の小さな口からポロリと漏れた。
桜花がどこかへ行ってしまったため、二人で用具室での雑用を続けていると寺園が入口から顔を出す。
「すまないな、えっと、三野だっけ」
誉に対して深々と頭を下げる。
「い、いいえ! 大丈夫です。それに、寺園先輩がしたわけではないですし……」
「いや、監督が留守の間を任されている身として配慮が足りなかった。本当に申し訳ない――それで本当に大丈夫なのか? 何なら病院にでも」
「そ、そんな! 心配していただけるのはありがたいですけど……大丈夫です」
遠慮気味な性格の誉では根拠が足りなかったのだろう、寺園は球へ視線を送った。
「本当に大丈夫ですよ。筋肉の張りもありませんし、もちろん骨への影響も」
「そっか、それなら良かった」
寺園がほっと胸を撫で下ろしてから、言いづらそうに続けた。
「そのさ、こんなこと本当は言いたくないんだけど――やっぱり、栄司との勝負はなかったことにしてくれないか」
「どういうことですか?」
「栄司に謝って勝負を取り下げてもらうんだ。両者の合意があればできる。もちろん俺も一緒に謝りに行くから」
球は寺園をじっと見つめる。どうやらふざけて言っているわけではないらしい。それどころか球たちを心配しての言葉ということは、その様子から十分伝わってくる。
それでも球は簡単に合意などできない。
「何か、私たちが謝る要素ってありますか? 部が定めたルールに則っていると思いますし、そもそも栄司先輩が侮辱してきたことが原因なのですから、謝られる所以はあっても謝る理由なんてありませんよ」
「たしかに君の言う通りだ。でも、世の中悪くなくても謝った方が良いことなんてたくさんある。そんなこと分かってるだろ?」
「……理不尽ですね」
「ああ、理不尽だ。でも仕方ないだろ? 強いやつには逆らうなって動物ならみんな知ってる。人間も含めてな」
「そうですね。でも、もう理不尽はウンザリなんですよ、人間なので。女だから、弱いからだとか……それに、野球は必ずしも強いやつが勝つ訳ではありませんよ」
「それは力の差が小さい時に限るだろ。君たち一年、それに俺ら居残り組の二年と比較しても栄司は別格だ。君らが勝つのはほとんど不可能だと俺は思う。対等に渡り合えるのはベンチメンバーか一年の古橋敦也だけだろう」
「そうですか、でももう引き返せないんですよ。私はもう覚悟を決めてますし、私を説得できたとしても桜花は絶対に謝まらないと思いますよ」
「そうか……」
寺園は少し考えてから続けた。
「それなら丁度良い。今の時間帯ならまだ真面目に練習してるだろ。桜花って言ったっけ、あの子を上位専用グラウンドに呼び出してくれ。あいつの実力を実際に見てもらった方が早いからな」
「す、凄いね……本当に高校の設備なの?」
誉は初めて遊園地に来た子供のように目を輝かせ、高校野球では考えられないほど豪華な設備に圧倒されていた。
ここはポイントの上位層、つまり試合に出る権限のある選手が使っている練習場だ。最新の練習器具だけでなく、選手たちを支えるスタッフやマッサージ室まである。ここで練習ができると考えただけで目を輝かせてしまっても無理はない。
「そうだね、まあ私たちは使えないんだけど」
そう言って球はグラウンドでバッティング練習をしている栄司にビデオカメラを向ける。
「あ、あの球ちゃん。そのカメラ自分の?」
「そうだよ。あの先輩の情報もってなかったからね。この際だから徹底的に集めなきゃ、後で違う角度から、それからピッチャーをやるみたいだからそれも撮らないと……」
「す、凄いね。そこまでするものなの?」
「強いところは何処もチーム単位でやってるよ。トーナメントで敗者復活戦もない、負けたらそこで終わりだからね。勝ちを確実にするために相手の情報は少しでも多い方が良い」
「た、たしかに……」
「それに私はキャッチャーだから、司令塔として色々知っておかなきゃいけないし、それに……チームを勝ちに導けないキャッチャーに価値はないの。だから私は自分の価値を証明するために勝ち続ける」
「わ……私も……」
誉はそう言いかけてから口を噤む。何を言いかけたのかは定かではないが、球はあえて続きを聞かなかった。
「それにしてもあの人……寺園先輩があそこまで言うわけが分かったよ。たしかにあれは別格だね」
周りにも何人かの二年生が同様に練習しているも明らかな差がある。
「う、うん。私でも分かる」
「甲子園でもなかなか見ないんじゃないかな。パワーだけじゃない、反射神経も高いしボディバランスも良い。それに何よりセンスがある。何でこの人がベンチ外なのかが分からないよ」
「それはあの人が問題を起こしたからよ」
「桜花、ビックリした。いるなら言ってよ。もしかしてタイミング見計らってた?」
「な訳ないでしょ、今来たところよ」
そう言って桜花は誉をチラッと見てから、ばつが悪そうに続けた。
「……謝らないから」
「う……うん」
二人の間に重たい空気が流れる。あそこまで言ってしまった以上、桜花はもう引くに引けないのだ。
「それで問題って、何をやらかしたの?」
「練習試合中に暴力事件を起こしたらしいわ」
「え、それって相当な案件じゃない? 何で退部にならなかったんだろ」
「暴力を振るった相手がうちの部員だったのよ。その人が問題にしなかったから退部にはならなかったけど、他校の監督や生徒も見てたらしいから、謹慎処分に加えてベンチから外されざるを得なかったのよ」
「なるほど、それがなかったらあの人は今、甲子園に行ってていなかったんだ――私たちラッキーだね」
「え……な、なんで?」
普通、入学早々にあんな先輩に絡まれてアンラッキーじゃないの? 誉はそう言いたいのだろう。でも球たちの考えは違った。
栄司の暴力事件はチームにとっては良くない出来事だったが、球たちにとっては千載一遇の好機なのだ。
「だって、あの人がいなかったらあの人と勝負できないでしょ?」
「そ、そうだけど」
「もしかして誉、ルールブック見てない? ポイント差が大きければ大きいほど勝った時にもらえるポイントが多いんだよ。計算してみたけど私たちとあの先輩のポイント差だと、あの人が持ってるポイントほぼもらえるだって。どう考えてもチャンスでしょ?」
もちろん負ければポイント全損で退部だ。だから誉には球の考えが理解できなかった。
「でも! 負けたら退部になっちゃうよ……それにあの人に勝つなんて……」
規格外だった栄司の実力に誉はすっかり尻込みしてしまう。
「もちろん分かってる。正直あの先輩がここまでだとは知らなかったし、百パーセント勝てる保証もない。それに不安だってあるよ、私だって馬鹿じゃないんだから――でも、それでも、これは私たちが一気に這い上がるチャンスだよ」
桜花が深く頷く。
「それに誉はそこまで心配しなくて大丈夫だって、負けてもポイントを失うのは私と桜花だけなんだし。それに今回の六人野球は協力者にもポイントの一部が分配されるから、誉はリスクなしでポイントを増やせる。誉にとってもチャンスだって」
球は誉の両肩を掴んで笑いかけた。
「わ、私のことはどうでも良いの――二人がいなくなっちゃうのが嫌なだけ! 私なんかが投げて打たれちゃったら二人がやめなきゃいけない……」
ああ、そういうことか、と球はやっと理解して納得した。しかし桜花はやっぱり理解できなかった。
「何それ……ポイントを失う本人たちが良いって言ってるのだから良いじゃない。別にあなたに心配される謂れはないわ。それにどうしても心配ならやめれば良いじゃない。そもそもあなたを流れで今回の勝負に引き込んだのは球だし、私は別にあなたがいなくても困らない。別の人を探すだけ」
「おい、桜花! そんな言い方ないよ。良い加減にしなって」
「あのね、そもそも、あなたが……」
「や、やめて!」
ヒートアップしかけたところで誉が遮った。
「私は、二人の助けになりたいけど……私が投げたら絶対に打たれる。私は下手だから……そうしたら二人が……」
「もう良いわ。あなたは私たちが心配だとか言いながら、結局は怖いだけでしょ? 自分が打たれて負けたら、あなたのせいだって責められるのが怖いだけ。あなたの保身のために私の邪魔をしないでくれるかしら?」
そう言ってから桜花はこの場を去った。
「気にしなくて良いよ。誉は頑張ってる。私は分かってるから」
球がそう言うも誉は項垂れて意気消沈していた。
「わ、私は……」
「急がなくて大丈夫だから。あ、それと、今日は遅くならないようにね。最近あまり寝てないでしょ? 今日も遅かったら怒るからね」