雑用洗濯雑用
あれから約一年半が経った。三月下旬。球は名門中の名門、常勝軍団、清流高校野球部に一般入試経由で入部した。彼女は中学三年生であり厳密には、書類上では入部していないのだが、清流野球部は全寮制であり一日でも早く生活に慣れてもらうため、入部予定者は伝統的にこの時期に入寮するのだ。
入寮から一週間、学校および野球部の設備やシステムの研修を受けて現在に至る。
そして八日目の朝、最下級生である彼女たちの朝は早い。時刻は四時半。
こんな朝早くに何をするか――雑用である。研修の一環で入部した約百名の新一年生は三人一組で、初日からずっと雑用をこなしている。特待生でも、推薦生でも、一般生でも、皆平等に与えられた仕事だ。
「あっ! ……冷たっ……いぃ……」
球より十センチほど小さい、可愛らしい幼さと自信の無さが共存した少女、三野誉は洗い場のシンクから思わず手を引っ込めた。あまりにも水道水が冷たかったのだ。洗い場は女子寮と男子寮の中間にあり、トタン屋根はあるものの外である事実に変わりはなく、特にこの時間の手洗い作業はかなり骨が折れる。
洗い場には大量の縦型洗濯機が並んでいるが、ひどい泥汚れなどは手洗いでないと落ちないのである。故に彼女はそれに耐えながら洗濯板を使って、先輩のユニフォームに付着した泥汚れを水と洗剤で擦り落とす。
「大丈夫? とりあえず洗濯機で回せるやつは全部終わったから手伝おうか?」
球は洗い場にある洗濯機のほとんどを稼働させてから、誉の側の水に浸けてあったユニフォームを一着手に取る。
「う……うん。ごめんね」
「はは、謝らなくて良いよ。明日からは私が手洗いするから、誉は洗濯機担当ね。量は多いけど今の手洗いよりはましだと思うから」
「いや、そんなの球ちゃんに悪いよ! じゃんけんで決めたことだし、それに……桜花ちゃんにバレたら」
「そんなこと気にしなくて良いって。それにずっと右手で泥汚れ擦ってるよね? この時間の水温はかなり低いし、そろそろ指先の感覚に支障をきたす可能性もあるからやめた方が良いよ」
「でも……まだ」
「ピッチャーの管理はキャッチャーの務めだから。おとなしく納得してもらえると嬉しいな。とりあえず今日の分は一緒にやる。これ以上は引く気ないから」
球は笑顔で威圧する。彼女は寮の同部屋である誉が主張を非常に苦手としていて、押しに弱いことを知っている。こう言えば丸め込める。
「わっ……分かったよ球ちゃん。でも……その笑顔は怖いからやめて」
「誉がごねなければしないよ。それと今日から練習できるみたいだから、部屋帰ったら朝ご飯の前に指先温めて、爪もチェックしてね」
誉は顔に少し喜びを通わせて強く頷く。
「あ、これ……終わってないやつ。お願いします」
一杯になった洗濯カゴの一つを誉は球に礼儀正しく差し出す。
「はは、何で敬語なの?」
「い、いや……何となく……それより早くやらないと桜花ちゃんが」
「分かってるよ。さて……って! 冷たぁぁあ!」
球は思わず水から手を引き抜く。冷たいことは重々承知していたが、蛇口を捻って出てきた水の冷たさが想像以上だった。
隣の誉は突然の叫びに思わず腰を抜かして、洗濯済みのカゴをひっくり返して水たまりにぶちまけてしまう。
「ああああああああああああぁぁぁぁあああっ!!! ちょっと何やってるのよっ!!」
その惨状を隣接した乾燥室から出てきた少女、桜木桜花が目撃すると、非常に整った顔を歪ませ、肩まで伸ばした漆黒で艶やかな髪を靡かせながら二人へ駆け寄ってくる。
怒っていても絵になるくらい美しい、桜花はそんな少女だ。
「い、いやっ……これはその……」
「いいからっ! 早く拾いなさいよ!」
「ご、ごめんなさい……」
「謝るくらいだったら気を付けなさい。それに何回も言ってるけど私、謝られるの大嫌いなのよ。お願いだからやめてちょうだい」
「ご……」
桜花の注意に誉は反射的にいつもの言葉が出る。何でも良いから謝れば悪い状況が好転すると身体で覚えてしまっているのだ。
「はぁ……」
「まあまあ、落ち着いてよ桜花。今のは私が大声を出してびっくりさせちゃったから、そんなに怒らないであげて」
「そんなことはどうでも良いのよ。そもそもただでさえ時間がないのに、この子がちんたらしているのが問題でしょ? 今日から練習できるっていうのに、こんなんじゃ他の一年に場所取られちゃうわよ」
「ご……」
ご、という音を聞き取った球は、即座に誉の背後から両手で彼女の口を塞ぐ。
「誉は一生懸命にやってるって。でも、進行自体が遅れてるっていう桜花の指摘は最もだから、明日から手洗いは私がやるよ。そもそもじゃんけんで決めたのが間違いだったんだ」
雑用の分担を決める際に誉はじゃんけんで全負けして、一番厄介な、手際の良さが求められる仕事を担当することになった。
そもそも誉は驚くほどに不器用なのだ。仕方がない。
洗濯以外の雑用も考えなきゃね、と球は付け加えた。
「まあ、それなら良いけど」
「それに遅れてるって言っても、そもそもこの洗濯を昨日の夜のうちにできれば大した影響はないんだけどねえ」
夜のうちに洗濯を済ませ、そのまま乾燥機を回して朝にものを回収する。これが一番効率的だ。
ただ、そんなことを誰が考えても分かることで、雑用を早く終わらせたいという考えは彼女らも他の一年も同じだ。皆同じことをする。その結果、夜に一年男子が洗い場を占拠してしまい、彼女らは仕方なく起床時間よりも二時間前のこんな朝にしなくてはならないのだ。
「ああ……思い出したら腹立ってきたわ。私に、女の癖にとか言ってきた奴ら後で絶対にしばいてやるわ」
「はは、まあ野球で……ね? 一応、野球部としては実力主義を掲げてるんだから、実力があれば男も女も関係ないんじゃない? 知らないけど」
誉の頬をこねくり回しながら言う。
「あぁめぇてぇ……」
「何やってるのよ、あなた」
「はは、つい。弾力が凄くて柔らかいものだから、ごめんって」
「まったく……さっさと片付けるわよ」