堕ちた偉才
扇の偉才は逆襲する
改稿版
茜色に染まる週末の河川敷に乾いた破裂音が響く。
全身を防具で装った少女、二木球は、ホームベースの上で男と対峙して立ち尽くしていた。
これが彼女の初めてだった。中学二年生の夏、彼女は初めて……初めて十年来の幼馴染にビンタされた。
「もういいっ!! ……もういいから……頼むから、もうやめてくれ!」
幼馴染のまさかな行動に少しの間だけ呆気に取られていたが、自分にビンタを食らわせてきた男、古橋敦也から出てきた言葉に彼女の頭へ急激に血が昇っていく。
「はあ⁉ 何言ってんの? この程度の要求についてこれないで、何が甲子園に行くよ。何がプロになるよ! このままじゃ推薦をもらえるかどうかさえ怪しいじゃない、あなた達。何のために土日潰してまで野球してんのよ! 何のために監督やコーチが身を粉にしてまでチームの運営をしてくれてると思ってるのよ!」
球は右手のボールを思い切り握りしめると、高く振り上げてから地面に叩きつけた。
「それもこれも強豪校から、名門校から推薦を貰って甲子園に行くためでしょ⁉ そんなことも分からないで……口先だけで実践しないやつに辞めろって言って何が悪いのよ! ふざけるなっ! こっちは死ぬ気でやってんのよっ!」
静寂がグラウンドを支配する。幼馴染の敦也も含めて、球と同じ練馬第一シニアのチームメイトは初めて彼女の怒りに触れた。
その静まった水面に一石、チームメイトの一人が皮肉たっぷりの嘲笑を浮かべながら呟いた。
「女のくせに本気で甲子園に行けると思ってんの?」
「はあ⁉」
その言葉に理性の全てをふっ飛ばした球がその男に飛び掛かるが、寸でのところで敦也がそれを阻止して、彼女は砂埃の舞う地面にいとも簡単に組み伏せられてしまう。
「確かにお前はすげえよ。偉才と呼ばれてるだけはあるよ。でもな……いくら甲子園の女人禁制が解除されたからって、そんなの形だけだろ? お前、高校野球で女子選手が試合に出ているとこ見たことあるか? ベンチに入ってるのを見たことあるか? ねえだろ? それが現実だよ。高校野球は女がやるもんじゃねえんだよ!」
男の苛立ちに呼応して球のボルテージが最高潮に達する。彼女の崩れた表情は最早、性別を忘れさせるほどの迫力を感じさせる。
「そんなこと関係ねえんだよ! 私についてこれないやつは野垂れ死ねっ! 私はお前たちの、男の手なんか借りなくても甲子園に立ってやる!」
すると男は笑った。その笑いが球への恐怖から出たものなのか、何なのかは見当つかないが、彼女からしたら自分の夢を、物心ついた時から一心不乱に追い求め、切に願ったそれを笑われたようにしか思えなかった。
刹那、再度沸点に達した。一瞬だった。ゼロから一だ。敦也の拘束を振りほどき、その男に飛び掛かる。
しかし無情にも、いや、幸運にも球の拳が届く前に敦也に組み伏せられてしまい、この場は何とか収まったのだった。
この事件の一週間後、球は練馬第一シニアを退団し、表舞台から姿を消した。
かつて偉才と呼ばれ、その馳せた彼女の名は次第に誰の頭からも忘れ去られたのだった。