春季大会開幕 その2
十分ほど前に遡る。
グラウンド脇のブルペンには今日の先発バッテリーがいる。一人は呆れ顔、もう一人は難しそうな顔をしている。
ブルペンーーグラウンドの脇などにあるピッチャーが投球練習をする場所。
「ちょっと貴方。いくらなんでも力み過ぎよ。ボールに勢いもないし」
マウンドに歩き寄った球は右手でボールを弄り、頭にキャチャーミットを被っていた。
「んなもん分かったんだよ! ボール寄越せ!」
切れ気味に龍一が差し出したグラブにボールを収めると、球は両手を両肩の付け根に当て、そのまま前回り後ろ回りと肩を回し始める。
「大丈夫よ。今日はどうせ打撃戦になるのだから、貴方に誰も期待してはいないわ」
先程の記者とはまったく反対の試合展開を予測する。
打撃戦ーーお互いに点数を大量に取り合う試合のこと。
「あ、ああ……」
気の無い返事。龍一の目線は肩を回すたびに強調される球の胸に釘付けだった。
「聞いてるの?」
「あ、聞いてるって!」
「今日の私たちの仕事はわかってるわよね?」
「あ、ああ……」
一旦気にしだすと止まらないのだろう。視線を向けては逸らして、向けては逸らしての繰り返し。
「まったく……点を取られるのはしょうがないけど、無駄なフォアボールだけはダメなんだからね」
「そ、そんなもんわかってるっつーの!」
口ではそう言っているものの完全に分かっていない。
龍一は思わずグラブから手を抜き、中の匂いを嗅いで昂ぶる気持ちと性剣を鎮める。
「何やってるの? ……貴方のグラブ、そんなに香ばしい匂いなのかしら?」
スーハースーハーと深くグラブの匂いを堪能する龍一にかなり引いている球。
「……嗅ぐか?」
龍一はグラブと球を交互に見てからそう言った。
「貴方のグラブを? ……嗅いでみようかしら」
差し出されるグラブを見てそうするかどうか少し迷ったが、どうも興味が湧いたようで嗅ぐことにした。
「……うっ! なによこれ! 信じられないっ!!」
球の鼻はかつてないほどのダメージを受けていた。グラブの素材である革独特の匂いと、長い時間蓄積されてきた汗の匂いがブレンドされたそれは、もはや化学兵器といっても違いない。
「ば、バカっ! そんな鼻近づけたらやべえに決まってんだろ! こんくらい離して嗅ぐんだよ」
そう言って実際にやって見せる。
「こ、こうかしら?」
球もそれに習う。しかしーー
「今度はあまり匂いしないわね」
先程のダメージが相当あったのか、どうも球の鼻は上手く機能していなかった。
「そういう時はこうだ」
薬品の匂いを嗅ぐ時のように、手をうちわ代わりにする。
「あ! たしかになんというか落ち着く匂いだわ。貴方、緊張したらこうすればいいじゃない」
「いや、なんというかその……」
「? 男がもじもじしても気持ち悪いわよ」
「いや、そうじゃねえんだ。そのよ……俺、聞きたいことが……」
まるで告白寸前のような態度をとる龍一が何かを聞こうとすると、ベンチの方から玲が駆け寄ってくる。
「おーい! そろそろ始まるぞー!」
まるで遠足にきた子供のようにパワフルな玲の頭を球は撫で、ありがとうございますとお礼を言う。
すると玲はぷくっと頬を膨らませた。
「子供扱いすんなー! これでもセンパイなんだぞ!!」
自分でこれでもと言ってしまうあたり少しは子供っぽい自覚はあるらしい。
「そんな、子供扱いなんて。玲先輩にはすっごく期待してるんです。今日は三連発ですね」
「ふっふっふー、そんなの当たり前だ! 私が点を取らずして一体誰が取るというのだ!」
ーーいや、誰でもいいのだけど。
「もちろん! 玲先輩しかいませんね! 三連発したら帰りにターデンアッツ10個買ってあげます 」
「ほ、ほほほんとか?!」
「ええ、もちろんです。期間限定フレーバーでも何でも選び放題ですよ」
「フォォォォオオオ! それはやばい! よっしゃぁぁああ! やってやんよぉ!! 行くぞ球!」
「はい!」
ーー仕込みは上々、玲先輩が爆発するかで攻撃力が倍々に違ってくる。是非大爆発してもらいたいけど。問題はこっちね……。
玲の後に続いてベンチに向かう球はちらっと背後の龍一を見る。
やはりどこか上の空というか、何かを考えている様子。こんな試合直前に一体何を考えているのか、球にはまったく想像もつかなかった。