沈まった水底
しばらく執筆時間少な目と思われるので、病み上がりのスランプ打破も兼ねて短めの作品に挑戦。
タイトルは「沈む」と「静まった」を掛けて「しずまった水底」と読みます。
敢えてキャラクターの個人名を出さないタイプの、行きずりのホラーを目指しています。
ポカポカした日差し差し込む庭先で、鼻歌を歌いながら、この家の主婦がホースで水を撒いている。爽やかな水しぶきで庭の植物、そして自身に涼をもたらすのが、この主婦の楽しみのようだ。家の掃除を終えたばかりで日柄もよく、この趣味を存分に満喫していた。何気なく踏み出そうとした彼女の足の先に、突然蟻が飛び出す。驚いて足を引っ込めると、踏み直した地面は水が溜まってぬかるんでいた。ぬかるみに足を取られて、転んでしまう。尻もちをついたので痛みは大したことなかったが、服には泥が飛び散ってしまった。
「っ痛~い。こんなところに蟻がいるなんて…」
せっかく涼んでいた気分と服を台無しにされて、主婦は庭にはびこっていた蟻に矛先を向ける。ホースの先端についたシャワーヘッドを地面の蟻に向けて、そのまま放水して蟻を追い立てる。勢いよく噴射される水に巻き込まれないように、蟻は一目散に逃げる。蟻は庭の隅にいつの間にかできていた巣穴に逃げ込む。
「やだ、蟻の巣?ったく、この際徹底的にやっちゃおうかしら」
さっきの蟻が何百匹と巣穴にひしめいているのを想像して、ますます気味悪そうに表情を曇らせると、蟻の巣に向かってシャワーヘッドを向けようとする主婦。
「いけませんねえ。水責めなんて、あんまりにも可哀想な殺し方じゃありませんか」
塀の外から急に声をかけられて、主婦の手が止まる。「水責め」や「可哀想な殺し方」と強調され、まずい所を見られたかもしれないと思ったのだ。そうっと振り向くと、そこには見慣れない男がいた。
ダークグレーのスーツに黒いジャケットを旅行マント風に羽織り、山高帽と紳士服で固めた服装。目を糸のように細め、顔中に笑い皺を浮かべて微笑んでいる。皺の寄った顔に比べて眉と髪は黒々としており、若いのか老いているのかわかりにくい人相だ。
「あのう、どちらさまですか?」
「失礼、私、しがない語り部テラーと呼ばれております。ただ、老婆心で口を挟んだだけのことで」
「テーラー?」
オーダーメイド並みに仕立ての上等な服を着ているから、確かに仕立て屋らしい人物ではあるが…。にこやかな声の主がよくうわさ話に興じるご近所さんよりは上品な相手らしく、主婦は一安心する。すると、知らない誰かがお節介で止めたのだろうか。そう思い至ると、今度は人の庭に口を出す相手に腹が立ってきた。
「通りすがりで人の庭を覗いて、口を出すなんて失礼じゃないですか?」
「いえ、ねえ。先ほどのあなたの苛立ちは、庭の手入れの範疇を超えている感じたものですから、念のため。目障りに思えた相手でも、度を越えた仕打ちをすれば、思わぬしっぺ返しを受ける物ですよ」
顔のしわを伸び縮みさせる微笑みがどうにも意味深で、主婦は煽られた気分になってくる。
「何が言いたいんですか?虫を殺すなんて、どこの家でもやってることでしょう?」
「ええ、私も殺すなとは申しません。ただ、溺死させようとする自覚はお持ちでしょうか?その辺りの配慮を欠いた人の話を一つ知っておりましてね…」
主婦が食いつくのを待っていたかのようにほくそ笑み、テラーと自称する男は、ある昔話を騙り出した。
まだ一般の家庭に、それぞれ井戸があった頃の話でございます。ある家で、洗濯して干してあった着物が風に飛ばされて、井戸に落ちてしまいました。井戸に堕ちたのは、その家の奥方が代々受け継いでいる、それはそれは綺麗な衣装でしてねえ。ご近所にも二つとない、特別にあつらえた一品だったそうです。
普通ならだれかを井戸の底に降ろして取りにやらせたいところですが、その家にあるのは普通の井戸じゃございません。もう使われていない古井戸でした。
何でもその井戸、その家で働いていた下女が身を投げたいわくつきでして。そのご近所の噂じゃ、家の主人に手籠めにされたとか、家の財産がなくなった時に疑いをかけられたとか、色々言われておりました。まあ、こんなうわさが立つくらいには、その下女と家人の仲は悪かったということでしょう。下女が居なくなった日に、水もらいに来たお隣さんが、井戸端にきちんと揃えられた下女の靴を見つけて、騒ぎになったのでございます。その家の人々は、「下女は暇をやって郷里に返した」と言い張り、井戸の底から死体を上げようともしませんでした。その日を境に井戸の使用を禁じたため、下女が井戸で死んだであろうことは、その辺りでは暗黙の了解になっておりましたがね。下女を使っているからにはそれなりに村でも顔の利く家でしたし、その下女は身寄りもなかった故、誰もそれ以上口出しできなかったのでございます。
そんな井戸ですので、家人たちは着物を取りにやらせるのを嫌がりました。家の名前を守るために、伝家の宝ともいえる着物も諦めてしまおうかと、誰が言わずとも決まりかけておりました。ところが、家の幼い一人娘が駄々をこね始めましてねえ。ゆくゆくはあの着物を譲り受けて、着飾った姿を夢見ていたんでしょうに、急に諦めろと言われても、無理という物でございましょう。
「みんなみんな、私に着物を着せてお嫁さんにしたくないの?だからあんな井戸を言い訳にしたの?」
そう泣きじゃくって大騒ぎするものですから、家人もとうとう根負けしました。このまま辺り一帯に聞こえるほどに娘を泣かせていては、やっぱり家の恥でしょう。かと言って、人を井戸の底に取りにやらせるわけではございませんでした。井戸の中に水を注ぎ、水に着物を浮かせて回収することにしたのです。死体を水底に隠しながら、着物を取り戻す方法と言えば、これしかありません。
早速ご近所さんから桶一杯の水を次々に運んでもらい、井戸を満たし始めました。ご近所さんたちは、娘のために井戸の周りに人を呼んだ家人を見直したのか、あるいは真偽を確かめる好機と思ったのか、快く協力して下さいました。暗い水底に微かに垣間見えるほど沈んでいた着物が、少しずつ浮き上がってきて、近くで見守っていた娘さんにも笑顔が戻ってまいりました。
そうして井戸の水かさは上がり、着物は井戸端からも手が届くまでに浮いてきました。娘さんが「早くとって、取って」とはしゃぎます。家人もほっと一安心です。水に沈んだ死体が浮くか沈むかは腐敗の進み具合で決まるそうなので、運が悪ければ着物と一緒に浮いてきたかもしれなかったのです。しかし浮いてきたのは着物だけ。手伝わされたご近所さんからも、すっかり疑いと好奇の目がなくなり、ほほえましく見守ってくれています。家人は着物を取ってやろうと、井戸に手を伸ばします。
その時、静かに浮かんでいた着物が、鎌首をもたげるように持ち上がったのでございます。家人も驚きのあまり、伸ばしかけた手をひっこめてしまいます。着物が水面下の何かに持ち上げられていくにつれて、先ほどまでの皆の暖かい喜びが、井戸の底に落とされたように冷え切っていくようでした。そして、その様子を固唾を飲んで見ていた娘が、耐えきれなくなったように絶叫しました。持ち上がった着物の下の隙間から、白濁した目が見つめ返しているのに、その場の皆が気づき、戦慄しました。続いて着物の下から晒された顔は、灰色に腐った肌に、崩れ落ちた鼻、ひび割れた口元、まぎれもない腐乱した水死体の物でございました。そして皆が愕然とする中で、ガラガラと濁ったようなしゃがれ声で訴えかけたのです。
「どうして…冷たくするの…どうしてだぁぁぁ……」
そこまで語ると、男は一息つく。主婦からは先ほどまでの暖かい陽気がどこかに去り、冷や汗をかきながら怪談に聞き入っていた。相手がおどかすために会談を結び付けようとしてるのだろうと頭では分かっていた。しかし、落ち着いた服装と丁寧な口調でありながら、皺だらけの読みにくい表情と味のある語り口で聞かせる相手に、そこのしれぬ恐ろしさを感じてしまったのだ。
「そ、それが、何の関係があるっていうんですか?」
主婦の訪ねる声が思わず震える。
「そこで話が、水責めに戻るわけでございます。水を流し込む方は軽い作業のつもりでいても、相手にとっては背筋の凍る苦しみでございましょう。井戸から戻った彼女もそう言いたかったのだと、そうは思いませんか?」
男が言うには、冷たいのは決して井戸水だけのせいではない。沈んだ死体を引き揚げもせず、さらに水を注いで追い打ちをかける、その薄情さこそが死骸になっても耐えきれない人の冷たさであったと。
「先ほどの蟻も、そのまま巣穴に水を流し込まれると、自らのねぐらで一族そろって溺れ死ぬのですから、間違いなく水で追い立てたあなたを恨むでしょうな」
「そんな趣味の悪い話聞かせて…殺すなって説教したいんですか?」
「いえいえ、そうは申しません。ここはあなたの庭でもあるわけですから、人間の私から見ても、殺されてもやむなしです。ただ、恨みを買うのにはご用心を。最近では蟻退治にも、疑似餌に見せた薬があるそうでしてね。一寸の虫にも安楽死を用意したのは、現代の仏心と言えるのではないでしょうか」
「ばかばかしい…もう疲れたから今日はやめます。明日そういう殺虫剤とか見に行ってみます。これでいいですか?」
「ええ、どうぞ明日まで留意なさっていただければ、結構でございます。またの機会があれば、お会いしましょう」
主婦は疲れた声で話を打ちきり、ホースを片付けて家の中に戻っていった。それを見届けたテラーも、どこへともなく去って行った。
その夜、主婦は一人での夕食を終えて、流しで洗い物を片付けていた。夫が帰ってくるまでには片付く予定だ。ふと、流しの排水口を見ると、数本の長い髪の毛が絡みついている。排水口に流れる水に揺られて、生きた海藻のように、ウネウネとたなびいている。
「何これ、この間掃除したばっかりなのに…」
自分で落とした覚えもないのに、ゴミとして溜まりこんだ髪の毛は、排水も邪魔しているのか、詰まりのあるような不快な音まで立てている。
「あ~、やだやだ。引っかかってないで流れちゃえばいいのに」
水道の蛇口を排水口の真上まで動かして、水で洗い流そうとする。その刹那、昼間に出会った奇妙な男の顔を思い出す。
「……あんなの関係ない。蟻じゃなくてゴミだもの」
わざわざヌメりのたまったパイプ掃除をしたばかりなのに、数本の髪の毛で台無しにされたくない。毎日溜まるものだとしたら、こちらも毎日水で押し流すのが一番手っ取り早い。流しのシンクに貼りついて流されまいとする髪の毛を、更に蛇口をひねって勢いを増した水で排水口に押し込もうとする。当然水は全て排水溝に流れ込み、詰まり気味の排水口から溢れるほどだ。
溢れ返った水に推されたのか、髪の毛が排水口から外へと引きずり出されていく。橋の方が排水溝の淵に絡みつき、もう少しで排水溝から出てきそうだ。
「そうね、これなら…」
主婦は髪の毛を指でつまんで排水口から引っ張り出そうとする。主婦にとっては、この程度のゴミ拾いなら許容範囲だったのだ。
だが、主婦の指はそれ以上の力で髪の毛から引っ張り返された。
「えっ…何?」
指に思わぬ力がかかった不気味さから、髪の毛を放そうとするが離れない。数本の髪の毛なのに、強い力で指に巻きついている。もう片方の手で引きはがそうとするも、濡れて絡みついた髪のはが簡単につかめる物ではない。焦っている内に、髪の毛が引っ張る力はさらに強くなる。指を引っ張り、手を引きずり込み、体が逃げることも許さないような力に。強靭な力でピンと張りつめた髪の毛が指を道連れにする先は、水があふれる排水口。
「冷たっ!」
髪の毛に引きずり込まれた指は、ヌメヌメした排水口へどっぷりと浸かりこんでいく。とめどなく流れ込む水の冷たさと、排水口に素で指を突っ込んだ生理的嫌悪感で、主婦の背には悪寒が走る。主婦はこの瞬間、あの怪談で感じた恐怖の意味がようやく分かった気がした。
しかし指が付け根まで浸かってからも、排水口の中へと引っ張る力は緩むことがない。指から先の手は排水口に引っ掛かり、それ以上入るわけもないのに、無理やり引っ張られる。狭いパイプの中で締め付けられる指は締め付けられる圧迫感に襲われ、指の付け根に激痛が走る。
「やめて…痛いっ!やめて…」
そして主婦は、限界を迎えた指の付け根から先が、ブチィッと断裂して持っていかれるのを感じた。その喪失感と同時に、先ほどの比ではない肉、骨、神経すべてが悲鳴を上げるような苦痛が襲いかかる。
「ああああああっ!!」
またの日の昼下がり、その家の庭を見に来た男だが、暖かい陽気にもかかわらず、庭先に主婦の姿はない。最も、その事情を彼は察している。知っているからこそ、眉間にしわを寄せた独特の表情を作る。
「おやおや、せっかくの忠告だったのですが、間に合わなかったようですね」
地方紙によれば、主婦は指を一本失った憔悴状態で帰宅した夫に発見されて、そのまま入院生活が続いている。新聞には出ていないが、恐水症を発症して水場に近づくことができず、主婦業に戻れる見込みはない。
テラーは主婦をそんな目に合わせた怪異の存在をどこまで知っていたのだろうか?別の怪談に準えて主婦のわずかな性格の暗部を語ったのは、より恐怖させるためか、あるいは警告のためか。いずれにせよ、彼がこれからすることは一つ。
「また一つ、私の語る怪談が増えてしまいましたね」
ふさわしい聞き手に恐怖を語りに行くこと。男は新たな会談の舞台を見届けると、その場を去って行った。水を撒く者のいない庭では、巣穴から出てきた蟻たちが、一筋の髪の毛に見える長い列をなして、庭を悠然と歩きまわっていた。
今回3人称の呼び方に限定していた通り、怪談を語る男「テラー」が語り手を担当し、それぞれの話でゲストが登場するのが、この話の仕組みです。テラーの名前は、恐怖を意味するterrorと、語り手を意味するtellorのダブルミーニング。紳士服を着こなしているからと言って、決してテーラーではない。
前後に影響ない作品なので、気ままに連載します。