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殺したいほど愛しているのは

作者: 未礼




 会いたい人を待つこの時間は、なぜこんなにも長く感じるのだろうか。

 その時間すら楽しめるようになるには、どれだけ大人になればいいのだろう。

 アデルハイトはもう何度見たか分からない時計をまた見上げて、ようやく針が約束の時間の五分前を指したことに安堵した。

 セオが連絡もなく時間に遅れたことはない。

 束ねていた黒髪を解き、汚れたエプロンを外して工房の椅子にかけると、部屋に戻ってやかんを火にかけた。ゆらゆら揺れる火を見つめながら、ぼんやりとセオの事を思う。

 ずっとずっと、好きだった。確か二年前、初めて会った時からだ。

 都会から来た、背の高い魔法使いの将校さん。

 多くの娘が彼に憧れた。自分もその中のひとりにすぎない。きっと、彼にとっても。

 そしてそろそろこの秘めた恋心を、終わらせなければならない時が来た。

 ニコルズから聞いたセオの縁談の話が本当ならば。それを、彼が前向きに考えているのならば。

 店の扉を開く鈴の音が聞こえて、アデルハイトは顔を上げた。

 部屋の扉を開けたまま出て、工房を通りすぎて店に出ると、セオは店の入り口で肩に積もった雪を払っているところだった。

「いらっしゃいませ、レッドフォード少佐。お寒かったでしょう」

 その声に顔を上げた彼は、いつものようにその金髪の下の端正な顔を緩めアデルハイトに笑いかけた。

「こんにちは、アデルハイト。また吹雪いてきて、もう前が見えないくらいですよ」

「どうぞ暖炉の」

 近付いてセオの顔を見上げて、アデルハイトは言葉を切る。

 彼は額に包帯を巻いていた。

「どうなさったんですか?」

 驚いて声を上げたアデルハイトに、セオは少し困ったように包帯に触れた。

「いつもの精霊の仕業です。馬の足を焼かれて落馬して、この様です」

「まぁ……」

 アデルハイトは眉をひそめながら、セオが脱いだコートを受け取った。

「今までも度が過ぎた悪戯はありましたけど……それは悪戯と呼ぶには悪質過ぎますね」

「そうなんです」

 ため息混じりに呟いて、セオは暖炉のそばのソファに腰を下ろした。コートに残っている雪を払ってハンガーにかけてから、アデルハイトは彼に渡す品物を取りにカウンターの中に入る。

「最近悪戯が過激になってきて、ひやりとすることが増えました。昨日の落馬はうまく受け身が取れたのでこの程度で済みましたが、一歩間違えば馬に踏まれて死んでいた。精霊に魔法は効かないし、私には姿も見えない。対策を練ろうにも、どうにも」

 魔法を使う手助けをしてくれる精霊は、時に人間に小さな悪戯を仕掛けることがある。帽子を吹き飛ばしたりスカートをめくったり、ほとんどはその程度だ。彼らは無邪気だが頭はいい。人間に害を与えることはない。害を与えてはいけないという決まりの、はずなのに。

「さすがに困り果てて、先程教会と話し合ってきましたよ。どうやら精霊界でも問題児のようで、明日捕まえてあちらに帰して、きつく叱ってもらうことになりました。もう人間界には来られないでしょう」

「それなら、ひと安心ですね」

「そうですね。私になんの恨みがあるのかは分かりませんが、規則を破ったのはあちらなのですから、仕方がない」

 頷いて、カウンターから出る。

「でも本当に、大事にならなくてよかった」

 想像しただけでぞっとする。この人がこの世からいなくなってしまうだなんて。

「痛みますか?」

「いいえ、本当に大したことはないんです。包帯も大袈裟すぎるくらいだ」

「それでも、どうかお大事になさってください」

 笑って頷いた彼のそばに膝をついて、長方形の盆をソファの前のローテーブルに置いた。盆の上に乗っている三十センチ程の杖を手に取って、セオはそれを目線の高さまで掲げた。

「ああ、相変わらず惚れ惚れする出来だ」

「ありがとうございます」

「この美しい杖を何度あの精霊に折られたことか」

 セオは白い手袋を外して、長い指で杖をなぞる。

「本当に、こんなに腕のいい杖師は見たことがない」

 うっとりとした声に、アデルハイトは赤くなったであろう顔を見られないよう頭を下げてもう一度礼を言った。

 そっと、彼に気付かれないよう外を見る。いつもセオが来店している時は、彼を一目見ようと町娘が店のショーウィンドウから中を覗いていることが多い。しかし今日はこの吹雪だ。人影はなかった。

 これはチャンスだと立ち上がる。

「少佐、もしよろしければお茶でも飲んでいかれませんか?」

 アデルハイトが言うのと同時にやかんが沸く音が聞こえて、セオは声を上げて笑った。

「では、お言葉に甘えて」

 セオの返事に「お待ち下さい」と声をかけて奥の部屋へと駆けていく。火を切って、大きく息をついた。うまく誘うことができた。

 茶葉を用意しながら、うっとりとしたセオの声を思い出す。相変わらず彼の誉め殺しには慣れることはなかった。

 彼の杖に初めて触ったのは、店を継いですぐの頃だった。

 杖師の仕事は、杖を一から作り上げたり修理をしたりすることだ。ナイフで木を切り出したり、精霊に頼んで杖を成長させたり、様々なことをする。

 確かあの時は、少しくすんだ取っ手の布を張り替えて適当に整えて欲しいと言う依頼だった。

 この街に越してきたばかりの彼は相性の合う杖師を探していたようで、腕を見るためだったのだろうか。それとも、実績も何もない小娘を冷やかしに来ただけだったのかもしれない。

 言われた通り布を張り替えて、どうしても彼の大きな手と魔法の体質にあっていないと思える箇所を作り変え、二時間後に再び店に訪れたセオに杖を差し出すと、彼は目を真ん丸にしながら随分と長い間杖を暖炉の明かりにかざして眺めていたことを覚えている。

 それから彼はアデルハイトの店に通うようになった。それだけではない。良い噂を広めてくれたらしく、セオの紹介でと来店する客が増えた。今、食べ物や薪に困らずに暮らせているのは、彼のお陰と言っても過言ではないのだ。

 紅茶をカップに注ぎ、焼き菓子も添える。

 うまく誘えた今日こそ、縁談の話を聞くチャンスだ。最後のチャンスかもしれない。次に会うときには、もう婚約を済ませているかもしれないのだ。

 逃げ出してしまいたいと泣きそうになっている心を叱咤し、アデルハイトは意を決して扉をくぐった。

 工房をぬけて「お待たせしました」と声をかけると、セオはぼんやりと暖炉の炎を見つめていた視線をアデルハイトにやって微笑んだ。

 カップをセオの前に置く。彼は頭を下げてから、紅茶をひとくち口に含んで深い息をついた。

「ああ、温まります」

 長いまつげの影が、揺れる暖炉の火で震えているように見える。

 彼の斜め横のソファに腰を下ろし、自分の分の紅茶に口をつけながら、セオをちらりと見た。

 今さら気づいた。彼は少し疲れた顔をしている。

 当たり前だ。姿を見ることもできない、反撃することもできない精霊に、命を狙われているかもしれないのだから。休まる時間などなかっただろう。

 ふと、彼の首もとで何かがきらりと光ったのが見えた。アクセサリーの類いではないようだ。目を凝らしてよく見る。細い細い糸のようだった。なぜこんなところにと、アデルハイトは訝しげにセオを呼ぶ。

「あの、レッドフォード少佐。首に糸が」

「糸?」

 彼が首筋を撫でる。立ち上がって彼に近づいて、ようやくその糸が普通の糸ではないことに気付いた。

 手を伸ばして触れると、それは燃えるように熱い。

「糸じゃない。精霊の……サラマンダーの髪です」

「サラマンダー……あいつか」

 セオが眉を顰めた。恐らく、件の精霊だろう。火の精霊サラマンダーの赤い髪だ。精霊の髪なら彼には見ることはできない。髪は絡み合いながら、店の扉の向こうまで続いていた。

「これであなたの居場所を把握しているようですね」

「一体俺に何の恨みがあるんだ……」

 ため息混じりの声でセオが呟く。

「私のハサミなら切れるので、持ってきますね」

 工房に走っていき、杖を作る際に使うハサミを持ち出す。精霊からもらう布や枝を加工するときに使う特殊なものだ。

 注意してセオの首に絡み付く髪に刃を入れる。ぱらぱらと地面に落ちた赤い髪は、炎を上げ溶けて消えた。セオは首筋に手を当て、何度か大きく深呼吸をした。

「ありがとうございます。呼吸が楽になった。最近何となく息苦しいと思っていたら、これのせいだったんですね。歳を取ったせいだとばかり」

「まだお若いのに」

 ハサミをカウンターに置きながら、アデルハイトは笑う。

「あと二年で三十です。いい歳だ。あなたと八つも違う」

「八つしか違いませんよ」

「そう言って頂けると希望が持てる」

 セオは笑って首筋を撫でた。

「しかし、杖師というものは本当に不思議だ。魔法は使えないのに、精霊を見たり会話をしたり、魔力を感じることは出来る」

「典型的な杖師の体質ですね」

 魔法を使うことが出来れば魔法使いに、精霊が見えて、さらに器用なら杖師に、不器用なら教会で聖職者に。そういう世界で、アデルハイトは杖師を選んだ。

 アデルハイトの祖父は名高い杖師だった。彼の少なくない子供と孫の中で杖師の素質があったのはアデルハイトだけで、選ばざるを得なかったともいえる。

 紅茶をすすって、セオは顔を上げた。

「そう言えば、ニコルズ中尉が用もないのに度々お邪魔しているようで。迷惑をかけていましたら、遠慮なく私に仰ってください」

「いいえ、迷惑だなんて。私は工房にこもっていることが多いので、話し相手になってくださってとても嬉しいんです。色んな楽しい話をしてくださるので」

 セオの副官であるニコルズは、セオの話をよくしてくれた。今こうやって向かい合って話しているときの紳士的な態度からは考えられないような彼の話もしてくれて、とても興味深いのだ。

「そうですか。それなら安心しました」

 セオは少し目を伏せる。そして視線を上げて、悪戯をしようとしている子供のような顔で笑った。

「楽しい話と言うのは、ニコルズ中尉が少し前にプロポーズして、断られた話とか?」

「そのお話も聞きました」

 笑いながら返事をして、笑い事ではないと神妙な顔を作ろうとするがうまくできない。断られた本人が面白おかしく話してくれたので、もうすっかり笑い話になってしまっていた。

「今、その断った彼女とよりを戻しているらしいですよ」

「あら、そうなんですね!」

 手を合わせて喜ぶ。それなら、断られたことは笑い話にしても大丈夫だろう。

「よりを戻した時のあいつの喜びようったら」

 セオがニコルズの喋り方を真似て一部始終を再現してくれてる。それに笑って、ニコルズの失敗談にも笑って、そのあと少し杖に関しての真面目な話もする。そしてまたニコルズの話に。

 あっという間に時間が過ぎる。時計なんて見たくもなかった。

 どうやって縁談の話を切り出せばいいのか分からない。このまま時間が止まってしまえば彼の縁談の話は進むことはないし、彼が他の女のものになることもない。ずっとふたりでいられると、そんな恐ろしいことを思う。

 セオはアデルハイトが頭の中で何を考えているかなど知る由もなく、ソファの背もたれに体を預けて大きく息を吐いた。

「ああ、ニコルズ中尉もきっとこのまま結婚になるんでしょうね。先を越されてしまうとは」

 ぎくりと体を強張らせ、目元を手で覆うセオを見る。彼はそのまま乱暴に前髪をかき上げて、そして笑顔を作ったようだった。

「アデルハイトは、結婚は考えていらっしゃらないのですか?」

「……結婚? 私が?」

 突拍子もない話だと感じた。

 もちろん願望はある。目の前にいる人と、幸せな家庭を築いてみたいと夢を見たのは一度や二度ではない。

 しかし相手が誰であれ、実際に自分が妻となり家に入ることを想像しようとすると、なんだかしっくりこなかった。

 今年で二十歳を迎えた。決して早すぎると言うわけでもない。

「まだまだ私には縁のない話です。結婚より前に、杖師として一人前にならないと。……そんなことを言っていたら、一生独り身かもしれませんが」

「そんな事はない。あなたはもう一流の杖師だ」

 身を乗り出して熱く言うセオに首を振って見せる。

「杖師が一人前になるためには、様々な人が作った様々な杖を見て回らなければいけません。世界中の色んな場所を回って、店を出しているような方の弟子になったり」

 ずいぶん冷めてしまった紅茶をすする。

「私の作る杖はとても独りよがりで未熟です。あなたの杖だって、もっとあなたの魔力に添うように出来ると頭では分かっているのに、技術が全くついてきていない。どれだけ本を読んでも資料を見てもどうにもならない。私はまだ店を持つような腕ではないんです。この街を出て、世界を見て回るべきなんです」

「……この街を出られない理由があるんですか?」

 困ったように笑って、じっと見つめてくるセオから顔をそらした。

「勇気がないんです」

 恥ずかしくて、彼の顔を見ることができない。

「ご存じの通り、私の祖父も杖師でした。肉親の中で唯一杖師の素質があった私を跡継ぎにするために、祖父は私をとても厳しくしつけました。物心ついた頃から十八歳まで、学校以外は一日中工房に籠ってろくに外にも出られなかった。祖父は私が十八になったら私を連れて王都に行くつもりだったようですが、その少し前に突然亡くなってしまった。私には圧倒的に社会経験が足りない。世間を全く知らない私がひとりで街を出て、ひとりで暮らしていけるとは思えないんです」

 一気に言って、紅茶をぐっと飲み干した。

 ついつい話しすぎた。このことを話したのはセオが初めてだった。彼をそっと見上げると、顔を伏せ気味に唇を引き結んで、何か考え込んでいるようだった。

 いたたまれなくなって、何とか話を変えようと考える。そして、今ならこれを聞くのにちょうどいいタイミングだと気付いた。

「少佐は結婚をお考えですか? ニコルズ中尉から、とてもいい縁談を持ちかけられていると伺いました」

 セオは驚いたように顔を上げて、それから「ニコ……あいつめ」と顔を歪めた。

 言ったらまずかっただろうかと焦ったが、セオはそんなアデルハイトに気付いて表情を戻した。

「そうです。領主の娘御のエイダ嬢が、私の事をどこで見たのか気に入ってくださったようで」

 目眩がした気がした。美人だと評判の末娘のことだ。

「お返事はもうなさったのですか?」

「いいえ、まだ色々と考えている最中です」

 奥歯を噛み締めて、無表情を繕うのに全神経を費やした。聞きたかったのは「もう断った」という言葉だったのに。

「私は頻繁に異動がある身ですし、それにあまりにも身分が違いすぎる」

 それならすぐ断ったらいいのにと、喉から漏れそうになって唇を噛む。

 断れない理由があるのだろうか。貴族からの縁談を、軍人が断るのは大変だったりするのだろうか。それとも、気ががかりはあるがエイダを気に入っているのだろうか。

 一度だけエイダを遠巻きに見たことがある。金の髪の美しい女性だった。セオの隣にエイダが立てば、それはそれは絵になることだろう。

 自分の黒髪を撫で付けて、アデルハイトはゆっくりと息を吐いた。

 どちらにしろ、この秘めた恋心を捨てるべきなのかひっそりと持ち続けるべきなのかは、今日判断できないということは分かった。そしてひっそり持ち続けたとしても、結局はいつか必ずある彼の転勤により捨てざるを得ないことも。

 転勤があることは分かっていた。彼ほどの実力の持ち主が、こんな片田舎にいること自体おかしいのだ。

 しかしそれを実際に彼の口から聞いて、突然現実味が増して全身の力が抜けた。落としてしまわないよう空のカップを机の上に置いた。

 ふとセオが壁掛け時計を見あげて「おっと」と声を上げる。つられて時計を見ると、もう一時間も話し込んでいた。セオが立ち上がりながら言う。

「長居して申し訳ございません」

「いいえ。こちらこそ、話し相手になって頂いてありがとうございました。こんなに遅くなってしまって大丈夫ですか?」

 セオの後に続いて扉に向かって、コートを手に取った。

「大丈夫ですよ。ニコルズ中尉に仕事を押し付けてきていますので」

「そうですか」

 少し笑って、コートを手渡す。コートを羽織ったセオは、珍しく笑顔を消してアデルハイトを見下ろした。

「サラマンダーの悪戯がなくなれば、もう杖が折れることもなくなる。ここに来ることも少なくなるでしょう」

 不意打ちの言葉に、一瞬表情が出てしまったかもしれない。泣きそうに歪んだ顔の上に、慌てて笑顔を張り付けた。

「よろしかったらお茶でも飲みに来て下さい。ニコルズ中尉みたいに」

 セオは目を細めて、「是非」と言った。

 細められた目がじっとアデルハイトを見下ろす。

 そして彼は目を伏せて「それでは、失礼します」と頭を下げてから踵を返した。

「……お気をつけて」

 背中に声をかけると、彼は肩越しに振り返ってほんの少し笑顔を浮かべて、扉に向き直った。

 その腕を引いてその胸に飛び込んで、あなたを愛していますと伝えられたらどんなにか。

 歯を食い縛って、アデルハイトは俯く。

 意気地無し、意気地無しと、心の中で自分を罵った。

 彼に拒絶され、嫌われるのが恐ろしいのだ。

 この陰気くさい黒髪がエイダのような美しい金髪だったなら、もっと自分に自信が持てたのだろうか。彼女のように美しければ、もっと、もっと。

 こんなに愛しているのに、彼の事を思うとこんなに苦しいのはなぜ。こんなに苦しいのに、なぜ彼の事を愛し続けるのか。

 涙が滲んで、床がぼやけた。

 どうしたらあなたは、私のものになる。

 どうしたら、どうしたら。

 ――殺したら?

 突然、知らない声が扉の向こうから聞こえて、アデルハイトは体を凍りつかせた。

「……アデルハイト。やっぱり、あと五分だけ話を」

 セオの声が聞こえて顔を跳ね上げる。その拍子に溢れ出た涙が頬を滑り落ちた。いつの間にかこちらを向いていた彼は、アデルハイトの涙を見て言葉を切り、目を見開いた。

 彼の口が動く。

 しかしその声は、突然耳をつんざいた金切り声に遮られた。

 頭が割れそうな、動物の断末魔のような声だった。

 耐えられずに頭を押さえ膝をつく。

 手に持っていたハンガーが地面に落ちた音も聞こえない。

 体に何かが触れて視線だけ上げる。ひとりでに開いた扉から、赤黒くうごめくものが部屋を覗いた。

 悲鳴を上げた瞬間、腕に絡み付いた何かに強い力で引きずられた。

「アデル!」

 扉の向こう、眼前に迫ったのは見慣れた街ではなく。どれだけ目を凝らしても闇しか見えない不気味な空間だった。

 咄嗟にセオがアデルハイトの腕を掴んで引いていなければ、恐らくその闇に引きずり落とされていただろう。

 彼の腕の中に庇われながら、木製の扉が暗闇の中でひしゃげて飛び散るのが見えた。闇の向こうで赤い目玉がこちらを睨み付ける。悲鳴も上げられずセオの胸に顔をうずめた。

 耳元で魔法の詠唱が聞こえる。聞きなれたセオの声だ。

 杖が宙を切る音と、木の割れる音が同時に弾けた。

「クソッ! せっかく直してもらったのに!」

 セオが悪態をつく。

 恐る恐る顔を上げると、地面から生えた細い木が絡み合って扉のあった空間を塞いでいた。

「やってくれたなサラマンダー……!」

 セオが吐き捨てると、嘲笑うような声が頭の中に鳴り響く。女の声だった。セオに対する恨み辛みを、彼女は延々と繰り返しながら高らかに笑う。

 頭が燃えるように熱い。

「アデルハイト、少し離れましょう。立てますか?」

 頷いて、彼の手に掴まりふらふらと立ち上がる。

 肩を抱かれて何とか工房の奥のベンチにたどり着くと、腰を掛けて大きく息を吐いた。

「大丈夫ですか?」

 ぎこちなく首を縦に振った。頭にはまだ女の声が響いているが、セオの声を聞き取るのには問題ない。

「あれは……?」

「精霊界と人間界を繋げる門です。本来なら決まった場所にしか建ててはいけないものを、サラマンダーはかなり無理やりこの店の扉に建てたようだ」

 ぎぎぎと建物が軋みを上げる。

 闇に浮かんでいた赤い目玉はサラマンダーのものだったのだろうか。そしてこの、今も頭に響く声も。

「もし、門をくぐったらどうなるんですか?」

「精霊界に落とされます。戻ってきた者はいません。建物と門の間に何枚か結界を張りましたから、安心してください」

 セオが手元に視線を落とす。半分欠けた杖がそこにあった。

「門を閉じる方法もありますが、予備の杖では少し心許ない。上級精霊でもないサラマンダーがこんなものを建てても、維持できずにすぐに力尽きて死ぬでしょう。それまで耐えてください」

「私は、大丈夫です」

 笑顔を作ろうとしたが、頭に響く声が邪魔をして上手く出来ない。代わりに彼の腕に触れて、すぐに離した。

「巻き込んでしまって申し訳ない」

 悲痛な声で謝る彼に向かって首を横に振る。

 怒りを逃がすためだろうか、長く長く息をついて、彼はかぶりを振った。

「杖、せっかく直してもらってばかりだというのに、また壊してしまった」

「構いません。何度でも作り直します」

 これで彼がまたこの店を訪れてくれると喜んだあとに、あまりにも不謹慎な自分の考えにアデルハイトは落ち込んだ。

 セオに聞こえないようため息をついて、ようやく五感が正常に機能し始めたのか、鉄の臭いがすることに気付いて顔を上げる。

「血の臭いがする」

 その言葉に、セオが少しアデルハイトから体を離した。

「どこか怪我をされているのですか?」

 声を上げてセオの腕にしがみつくと、彼は少し笑って首を振った。

「大したことはありません」

 大したことがないわけがない。今まで気付かなかったことがおかしなくらい強い臭いだ。彼の体を見る。紺のコートで分かりにくいが、右肩がざっくりと裂けていた。

「扉の破片に少し引っ掛けられただけです」

 彼の言葉を無視して立ち上がる。

 糸や木屑まみれの工房で手当てをするのは気が引ける。「こちらへ」とセオの腕を引くと、彼は少し逡巡して、そして大人しく立ち上がった。

 隣の部屋へ招き入れる。今しがた湯を沸かしたキッチンと、奥には本棚やベッドが置いてある自室だ。

 ソファに座ってもらおうとして、昨晩引っ張り出してきた本や資料が山積みになっていることを思い出した。

「ああ、ごめんなさい。いつもはもっときれいにしているんです」

 狼狽えるアデルハイトにセオは笑ったが、「ここに座っていてください」とベッドを指差すと、途端に顔を固くした。躊躇した彼の腕を引いて座らせて、キャビネットの引き出しから救急箱を取り出す。

 一面の銀世界だった窓の外は、店の扉と同じように蔦で覆われている。下火になっていた暖炉に薪を放り込むと、彼のもとへ駆け寄った。

 今では頭の中に響く声は、すすり泣きへと変わっていた。

「傷を見せてください」

 ベッドの端に浅く腰をかけていたセオは、戸惑ったような顔を浮かべてからコートのボタンに手をかけた。コートと軍服の上着を脱ぐと、大きな血の染みができた麻のシャツが見えてアデルハイトは首をすくめる。そして、四つボタンを外してちらりと見えた肌に、どうして彼が戸惑ったのかようやく思い当たった。

 怪我をしている右肩から、セオがシャツを滑り落とす。軍人らしい引き締まった体から目を泳がせたが、強くなった血の臭いにすぐにそれどころではなくなった。大きな傷からはまだ血が流れ出ている。

「止血しますね」

 ガーゼで傷を覆って、強めに押さえる。彼の肩が微かに跳ね、唇から息が漏れた。

「ごめんなさい、痛みますか?」

「大丈夫です」

 汗の滲んだ横顔を見てから、ゆっくり視線を下げる。

 それどころじゃないと分かっているはずなのに、少し髪のかかった耳から首筋に釘付けになる。セオの妻となる人は――エイダは、この首筋に唇を寄せたりするのだろうか。この形のよい耳に、愛の言葉を囁いたりするのだろうか。

 震える息を吐き出す。嫉妬で気が狂いそうだった。こんな感情が自分の中で沸き起こるだなんて信じられなかった。

 さっきからおかしい。あの赤い目に睨み付けられてから、自分が自分でないようだった。

 頭の中でサラマンダーが喚く。エイダが憎いと。

 血がほぼ止まったのを確認してから、震える手を悟られないように包帯を巻いた。血はもう滲んでこなかった。

「ここから出られたら、すぐにお医者様に見せに行ってくださいね」

「はい。ありがとうございます」

 セオが顔を上げ、そして眉をしかめた。

「顔色が悪い」

「……何ともありません。少し、彼女の毒気にやられただけで」

「彼女? サラマンダーは女なんですか? 男だとばかり」

 セオの声が聞き取りにくくなる。喚き散らす声がどんどん大きくなる。まるで、アデルハイトの意識すら侵食するように。

「サラマンダーは女です。いや、少女と言ってもいいくらい、幼い。……彼女は、どうすればいいのか分からないんです。こんな激情は生まれて初めてだから。こんなに、こんなにも」

「……アデルハイト、あまり入り込んではいけない」

 手に持っていた包帯を取り落とす。耳を押さえて、「もうやめて」と頭を振る。

「アデル!」

 掴まれた腕の痛みで意識が戻った。霞んだ視界にセオが見える。

「ごめんなさい。私なんです。彼女を呼び入れてしまったのは。彼女と私の想いが同調して」

「……同調?」

「私の、あなたに対する想いが彼女を呼んでしまった……私の」

 体が勝手に動き出す。彼の冷えた体に触れる。ベッドに足をかけその体を押すと、何の抵抗もなくシーツに沈んだ。その上にのし掛かるのを、丸く見開かれた目が見上げている。

「あなたの事を想うと苦しい」

 絞り出すように愛しい名を呼ぶ。

「セオ……セオ、どうして、私だけのものにならないの?」

 特別になりたかった。彼を取り囲む女達とは違う何かに。

「愛しています。初めて会った時から、あなたを、ずっと」

 彼の耳を指でなぞる。次は首筋へ。怪我の痛みからか、冷や汗で少ししっとりとした胸板も手のひらで撫でて、もう一度首筋に手をやった。

 両手の親指で喉に触れる。再び視界が霞んで彼がぼやけた。

「ほかの女のものになるなら、あたしのものにならないなら、それなら殺してやる」

 親指に力を込める。

「君はだれにもわたさない。エイダにも、この子にも」

 セオはびくりと体を震わせたが、こんなに弱い力では、彼の呼吸を止めることはできないようだ。口を開いて、微かに呼吸するセオが見えた。

 首を振る。震える指から、力を抜くことができない。

「違う、違う、サラマンダー……私は殺したくなんかない……!」

 懇願するようにセオを見る。どうして抵抗してくれないのだ。こんな体、魔法が使えなくても腕一本で振りほどいて投げ飛ばすことだって出来るだろうに。

 もうサラマンダーを押さえつけることができない。彼をこれ以上傷付けたくない。

 涙が筋をつくる頬にセオの指が触れ、その手がそのままアデルハイトの後頭部に回される。強張った体をゆっくりと引き寄せられ、焦点が合わなくなり、一瞬、ほんの少し唇が触れた。

「アデル」

 彼の声で呪縛が解けた。

 弾かれたようにベッドから飛び降りて、両手で口を押さえて後ずさる。

 セオが体を起こした。

「ご、ごめんなさい、少佐……ごめんなさい、私、何て事を……。今のは、違うんです」

「違う?」

 座り込んでしまったアデルハイトの前に歩み寄って、セオは片膝をついた。

「俺を愛していると言ってくれたのは、あなたの本心ではないのですか?」

 声が出ない。恐怖や羞恥のせいではなく、サラマンダーのせいだ。喉を押さえる。

「大丈夫です。どこまでがあなたでどこまでがサラマンダーなのか、ちゃんと分かっています。すぐにサラマンダーと切り離しましょう。あなたと彼女は、違う」

 セオはアデルハイトの髪に触れて、秘密を打ち明けるように囁いた。

「俺が愛しているのは、アデルハイト、あなただから」

「なんであたしじゃないの? なんであたしじゃダメなの? どうして?」

 驚いて口を塞ごうとするが、手が動かない。確かに自分の口が動いて自分の声が聞こえたのに、なんでなんでと溢れ出る言葉は自分の意思とは関係なく発せられる。

 セオは目を細めた。

「この人じゃないと駄目なんだ」

「なんでよ、なんでこの子じゃなきゃダメなの!?」

「お前が俺じゃなきゃ駄目な理由と一緒だと思うぞ」

「……ばか! 大嫌い!」

 口から罵声が漏れて、体からずるりと何かが這い出る感触。喉の奥で悲鳴を上げた。セオの手が肩に回される。

「サラマンダー、門を閉めろ。そのままじゃ死ぬぞ」

 ヒステリックな声が聞こえる。しかしそれは頭の中で響いているのではなく、窓の外から聞こえた。

「サラマンダーは何と言っています?」

「……死んであなたを呪い殺してやる、と」

 セオは顔を歪めて、少し笑ったようだった。

「サラマンダー、お前は死んだって俺を呪うことはできない。人も精霊も、死んだら平等に何もなくなるんだ。天国も地獄も何もない。呪いをかける暇もなく、お前はこの世界から一瞬にして消え去る。それでいいのか」

 返事はない。ただ、ぐっと彼女の気配が小さくなった。命が尽きようとしている。

「サラマンダー!」

 窓の外を見ながら、セオが叫ぶ。

 彼女は小さな声でセオの名を呼んで、それから聞き取れないような声で何か呟いて、その気配はぷつりと途切れた。

 窓の外が明るくなる。蔦の隙間から、小雪がちらつく空が見えた。

「気配が途切れました……」

「……馬鹿だな」

 同じように窓の外を見ながら、セオがぽつりと呟いた。

 彼女は、手に入らなければ殺したいと思うほど、そして死んでもいいと思うほどセオを愛していたのだ。

 溢れ出た涙を拭うほどの気力も残っていない。彼女を愚かだと罵ることも嘲笑うことも出来ない。

「アデルハイト」

 セオの指が頬を伝って、涙を拭う。

 そっと顔が近づいて、唇が触れた。すぐに離れて、アデルハイトは目を伏せた。

「どうして私なんですか?」

「……聞きたいですか?」

 手を引いてアデルハイトを立たせ、ベッドの端に座らせながらセオがそう聞く。

「聞きたいです」

「なら話しましょう。俺がここに越してきた時の話です」

 少し間を開けてベッドに腰かけ、セオは麻のシャツのボタンを閉じながら話し始めた。

「この街に越してきてまず一番にしたのが、杖師を探すことでした。相性の合う杖師を探してこの店に来たのは、街中を回った後、一番最後だった。だって、腕のいい祖父を持つとはいえ、十八歳の子供が継いだばかりの店だと言うから。ほとんど冷やかしでした。メンテナンスで杖を預けることになったのは、あなたがとても礼儀正しくて、その……可愛い人だったから、冷やかしで来たのが申し訳なくなって」

 セオは膝の上に乗せた手を見下ろしていた。

「手を加えられた杖を見て、俺は驚愕しました。まるで何年も俺の杖師をしてきたんじゃないかと錯覚するくらい、手にも、俺の魔力にもぴったりだった。そんな事は初めてでした。とても興奮した。どれだけ眺めても飽きなかった。初めて杖を美しいと思った」

 熱っぽい目がまたアデルハイトを射抜く。

「こんなに美しいものを作れるだなんて、あなたはどんなに美しい人なのだろうかと思った。あの時からあなたの作り出す杖の虜になった。そして、あなた自身にも」

 セオがベッドに手をつく。距離が少し縮まって、アデルハイトは無意識に体を強張らせた。どこか夢のように感じていた彼とのキスが、現実のものだという実感が湧いてくる。顔に熱が集まってくるのがわかる。のぼせてしまいそうだった。

「しかし気がかりがあった。俺は命令ひとつでこの街を出ていかなければならないことだ。店を持っているあなたはこの街を離れられないと思っていた。でもそんな気がかりも今日解決しました。あなたはこの街を出たがっている」

「……今日はとてもお喋りですね」

「もう猫をかぶる必要がなくなりましたからね」

 恥ずかしさを誤魔化すように口をはさんだが、伸ばされた人差し指が唇に触れて、言葉が封じられた。

「あなたに嫌われることが怖かった。こんなにも人を愛したことがなくて、手に入らなかった時にどれだけ傷付くのか想像もできなくて、どうしても一歩踏み出せませんでした」

 唇に触れていた指が頬を撫でる。そろそろと頬を滑る指は少し冷たい。

「本当に、情けない。今日だって気持ちを打ち明けるつもりで来たのに、結局決心がついたのはさよならをした後だった。俺の意気地がないせいで、あなたを泣かせてしまった」

「私が泣いたのは、あなたを引き止めることすら出来ない自分への不甲斐なさのせいです」

セオは眉を垂らして首を横に振った。

「アデル、俺にはもう時間がない」

 どういう意味だと彼を見上げる。その視線を受けて、セオは続けた。

「エイダ嬢との縁談を断れば、俺はこの街にはいられなくなる」

 彼の言葉に目を見張った。

「それが、俺がすぐに縁談を断らなかった理由です。この街は貴族と軍の関係が近すぎる。領主が娘に恥をかかせた軍人を左遷することくらい造作もない。異動する前提で、不利にならないよう総司令部と話をしていました。ここでの任務ももう終わりました。恐らく一度王都へ戻ることになると思います。半月以内に辞令が出ます」

 セオはアデルハイトから手を離すと、ベッドを降りて床に片膝をついた。そして胸に手を当てる。

「アデルハイト、あなたを愛しています。何があっても必ずあなたを守ると、神に誓います。俺についてきてもらえませんか?」

 強張った言葉と声。瞳は真っ直ぐにアデルハイトを射抜いていた。

 迷うことなんてひとつもなかった。考えなければならないことは大量にあるが、そんなものは後でもいい。

 手を差し出す。

 そっと重ねられた手を取って、両手で握り締めた。

「はい。私を、連れていってください」

 セオの顔が綻ぶ。なんて可愛らしい人なんだと思ったが、抱き締められた腕の力強さと大きな体に、そんな考えは吹き飛んだ。

 身動きすらとれない。少し息が苦しい。

「少佐」

 返事の代わりに腕を緩めて、セオはアデルハイトの顔を覗き込む。

 唇が触れて離れて、またすぐに触れた。ついばむようなキスを少し。長い指が耳に触れ、そのまま髪を絡めとる。

「こんな風に触れ合うことをどれだけ夢見たか。ずっとこの黒髪を指で梳いてみたかった」

 髪を一房すくって音をたてて口づけを落とすと、セオは首筋に顔をうずめる。

 そろりそろりと彼の背中に腕を回すと、早い鼓動が聞こえた。

 もう少しこうしていたい。ずっとこうしていたい。しかし、早く肩の傷を治療してもらわなければならない。

 力を込めて大きな背中を抱き締め、そして腕を緩めた。まるで磁石のようだ。力を込めないと彼から離れられない。

「アデル」

 縋るような声が耳に吹き込まれ、彼の腕が離れようとするアデルハイトの体を掻き抱く。

「少佐……肩の傷を診てもらわないと……」

「もう少しだけ。二年も我慢したんです」

「で、でも」

 言葉を切って、顔を上げる。誰かの詠唱に精霊が反応している。

 ガラスが割れるような派手な音がして、セオも顔を上げた。続いてもう一度。

 セオの手に力がこもった時だった。

「ああ、もう、何枚結界張ってるんですか! レッドフォード少佐! ご無事ですか!? アデルハイト!」

 よく聞き慣れた声が聞こえて、アデルハイトは無意識に体に込めていた力を抜いた。

「……ニコルズの野郎、もう少し手こずっていればいいものを……」

 それはそれは悔しそうに罵って、セオは体を離して前髪をかきあげた。

「少佐! いらっしゃるんでしょう! この蔦なんとかしてくださいよ! あなたの術を何度も破るの、僕には無理ですよ! 生きてますか!?」

 どうやらニコルズが、セオが即席で作った蔦の壁に四苦八苦しているようだった。

 セオが離れてベッドから下りる。

 腰に差していた予備の杖を抜きながら、彼はアデルハイトを振り返った。

「続きはまた今度」

 彼の姿が消えた扉をじっと見つめながら、また今度という言葉を噛み締める。次の約束がある、その何と素晴らしいこと。

 ふとベッドに置いてある彼の上着とコートに気付いた。あんな格好で扉を開け外の冷たさにあたると風邪を引いてしまう。アデルハイトは立ち上がって服を掴んだが、少し遅かったようだ。

 セオの詠唱に精霊たちが嬉しそうに返事をして、ガラスの割れるような音のあと、ニコルズの声が聞こえた。

「少佐! ご無事で……はないようですね」

「少し切っただけだ。応急手当もしてもらった」

 店に出ると、セオのそばにニコルズが立っていた。ニコルズはアデルハイトに気付くと、童顔にくしゃりと笑顔を浮かべて息をつく。

「ああ、アデル! 無事でよかった!」

「はい、大丈夫です。少佐が守ってくださったので」

 セオに上着とコートを手渡しながら、ニコルズを安心させるように笑う。

 彼は額の汗を軍服の袖で拭って、ようやく人心地がついたようだった。

「いやぁ、一時間程度で帰るっておっしゃってた少佐がなかなか帰ってこられないから、心配して見に来たんですよ。昨日の落馬もあるし。そしたら門が立ってるんですもん。慌てて教会の人を呼んできました」

「……そうか。心配をかけてすまなかったな。元凶の精霊の死体はあったか?」

「ああ、生きて捕まえましたよ」

 ニコルズが親指で扉の外を指差して、アデルハイトとセオは目を丸くした。

 扉のすぐそばに立っていた聖職者が、視線に気付いて室内にはいる。その手には装飾を施された瓶を持っていた。

「瀕死で門を維持していたから、放っておいて自滅するのを待とうかとも思ったんですけど、死んでしまったらさすがの少佐も少し後味が悪いでしょう?」

 途切れたような彼女の気配は、この瓶に封印されたことによるものだったようだ。

 セオが瓶を受け取って、顔の高さまで持ち上げる。瓶の中でうずくまっていた小さな精霊が、彼に気付いて顔を上げ、なんとも弱々しい罵声を浴びせ始めた。

「いますか?」

 呟いて、セオがアデルハイトを見る。小さく頷くと、彼は瓶に視線を戻した。

「残念だったな、サラマンダー。俺を呪い殺せなくて」

 サラマンダーがセオを指差し何かを叫ぶ。しかし嗚咽が混じっていて聞き取れない。

「あっちに帰って叱られて、充分反省しろ」

 セオが指で瓶をこつこつと叩いた。サラマンダーは何か喚いて、そして大粒の涙を拭うこともせず、ガラス越しのセオの指に手を重ねようとしてやめたようだった。

 セオが瓶を聖職者に返す。サラマンダーは俯いて、そしてまた膝に顔をうずめた。これがもう永遠の別れだと、彼女は分かっているのだろうか。

 瓶を持った聖職者が店の外へと出る。結局彼女は一度も顔を上げることなく、鞄の中へと収められた。きっと、もう二度とこの世界に来ることはできないだろう。

 ニコルズはふぅと大きなため息をついて、腰に手をあてた。

「あとは僕がやっておくんで、少佐は軍に戻って怪我を診てもらってきてください」

「ああ。すまんな、任せるよ」

 疲れ切った肩を落として、そしてセオはアデルハイトを振り返った。

「アデルハイト。明日の夕方、杖を取りに来ます。何時になるかはまた昼頃に電話をいれますので」

「分かりました」

 ふたりのやり取りを見て、ニコルズが眉をしかめる。

「まぁた壊したんですか?」

「仕方ないだろ、門に半分吸い込まれたんだ」

 セオはむっつりと唇を尖らせた。ニコルズと話をしている彼は、あまりアデルハイトが見たことのない表情をする。

 これから一緒にいれば、いろんな表情を側で見ることが出来るのだろうか。自分にも、見せてくれるのだろうか。

 じっと見上げるアデルハイトには気付かずに、セオは上着とコートを羽織って息を吐いた。

「じゃあニコルズ、頼んだぞ」

「了解です」

「扉を修復して、あと門の影響が出ていないか敷地内を確認して、念のために陣を張っておいてくれ。俺は治療してもらった後、教会と領主の屋敷に行ってくる。帰りは夜になるだろうからそれまでのことを頼む」

「……はい」

「あと杖の代金、立て替えておいて」

 ニコルズは黙ってポケットの中を探って、恐らく所持金の確認をしたのだろう、それから「了解」と返事をした。

 セオが外に出て聖職者と話をしているのを見ていると、ニコルズがそっと近付いてきて顔を寄せた。

「少佐と何かあった?」

 驚いてニコルズを見上げる。

 どう言えばいいのか分からずにじっと彼を見つめると、その顔ににやにやとした笑いが浮かんだ。

「ようやく通じ合ったか、君たち。ふふ、少佐に口止めされていたのに縁談のことをばらした僕のおかげかな?」

 口止めされていたのかと、アデルハイトは困ったように笑う。ニコルズの話ぶりからすると、彼はアデルハイトの気持ちもセオの気持ちも気付いていたようだった。

 何となく気恥ずかしくて、わざと意地悪く言う。

「少佐、怒ってらっしゃいましたよ」

「……まあ、いいさ。君の幸せのためなら、少佐に一発や二発殴られることくらい」

 アデルハイトの肩を抱いて、ニコルズは少しひきつった顔に笑顔を貼り付ける。その顔を見上げて、意地悪を謝ってから笑った。

「でも、ニコルズ中尉から縁談の話を聞いていなければ、私は少佐をお茶に誘う勇気も出ませんでした。あなたのおかげです」

「そう言ってもらえると救われるよ。それにしても、君から誘ったのかい? 女性にそんなことさせるなんて、全く」

 大げさな動きで肩をすくめて見せて、ニコルズはやれやれと首を振った。

「少佐もさ、普段は自信たっぷりで怖いものなんてないって顔をしているくせに、君のこととなると一変弱気になるんだ。あんな男前なんだから、色恋なんて百戦錬磨だろうに」

「俺が何だって?」

 二人揃って見上げた先に、顔をしかめたセオが立っていた。「ひぃ」と小さく悲鳴を上げたニコルズの頭を軽く小突いて、セオはアデルハイトの腕を引いた。

「ニコ、お前馴れ馴れしいぞ」

「安心してください。僕は小さい頃からずっと知っている、妹のように可愛い可愛いアデルハイトの幸せを願っているだけです。少佐のようにいやらしい目で見たりしてません」

 「妹のように」を強調して、手振り身振り大げさに言うニコルズを、セオは睨み付ける。

「俺だっていやらしい目でなんて見てない」

「そんな事言いながら、もう手は出したんでしょう? 口紅がついてますよ」

 ニコルズがとんとんと自分の唇を指差す。慌てて手の甲で口を拭ったセオに向かって、ニコルズは「嘘ですよ!」と高らかに笑った。

「……お前、後で覚えていろよ。さっさと動け」

「イエッサー!」

 ピシャリと敬礼してから、ニコルズはスキップでもしそうなくらい軽やかな足取りで店を出ていった。

 息を吐いてから、セオは咳払いをしてアデルハイトを見る。

「あいつの言ったことは気にしないでください。俺は百戦錬磨でもないし、あなたをいやらしい目で見たりも、していません」

「分かりました」

 笑って返事をすると、彼は少し気まずそうに視線を泳がせてからアデルハイトの手を取った。

「明日、話をしましょう。これまでのことと、これからのことを。俺の事を知って欲しいし、あなたの事が知りたい」

「はい。時間を気にせずにゆっくりと、お話ししましょう」

 笑顔を受け止めてから、セオは腰を折りアデルハイトの手の甲にキスを落とす。名残惜しそうに繋がれていた手が離れた。

「また明日」

「はい。お気をつけて」

 優しい笑みを残して、セオが扉の向こうへ消える。間もなく馬のいななきと足音が聞こえ、それも遠ざかっていく。

 外へ出る。セオの姿はもう見えなくなっていた。

 不思議と寂しさはなかった。明日会える。明後日も、その次の日も、その次だって会おうと思えば会えるのだ。何も理由がなくても、会いたいと伝えることが出来る。

 雲の切れ間から青い空が見えている。

 雪はいつのまにか止んでいた。




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― 新着の感想 ―
[一言] 初めて拝見しましたが、一幅の絵画みたいな印象の話だと思いました。精緻な書き込みと情景の浮かぶ文章。 楽しめました。
[良い点] 文章が美しく、独特の世界観に引き込まれました。 ヒロインもヒーローも奥ゆかしくていいですね。
[良い点] ソードワールドの短編を思い出す雰囲気とキャラクター、sっかりと話がまとまっている点が非常に魅力的で良かったです
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