日常の崩壊
明日香は結局午後の授業には戻っては来なかった。
食べかけでほったらかしにしていた明日香の弁当は女子が綺麗に片付けてくれたようだった。
救急車の事件は2年の男子生徒が原因不明の昏倒状態になったらしい。
下手をすると命に関わる状態だったらしいのですぐさま救急車が呼ばれたらしい。ってのが噂の内容だった。
最初の内はざわざわと騒いでいた雰囲気も放課後になる頃には普段の日常に戻っていた。
しかし、俺の不安感は大きくなっていた。
胸騒ぎがして昼休みから美雪にメールを送っているものの、まったく返事が返ってこないのだ。
「美雪…」
やっぱり、何か嫌な予感がする。HRが終わり、急いで教科書を鞄に放り込み美雪の教室に走ろうとしたその瞬間。
タンタラターン♪
俺の携帯から『Forever Love オルゴールver.』が鳴り響いた。美雪からのメールだ!
あわてて携帯を確認する。
『返事が遅れてごめんね孝太君。今日も忙しいので先に帰ってね。あ、でも明日香さんと一緒に帰っちゃ駄目よ!』
俺はほっと胸を撫で下ろした。
まあ、今は明日香も居ないし付きまとわれる事もないだろう。約束は守れそうだ。
『了解!美雪も部活頑張ってな!』
そう美雪にメールを返すとゆっくりと帰り支度を始めた。
と、突然…
ピリリリ。
俺の携帯から無機質な着信音が響く。
表示を確認すると『琴宮 鈴音』とあった。そうだ、昨日番号を取られたんだった。着信設定なんか何もしてないので初期のままの着信音が響いたのだ。
「もしもし?」
携帯の向こうからは可愛い声に年寄り臭い口調が返って来た。
『少年か?鈴音だ。実は急で大事な用があるのじゃ!すぐに保健室に来てくれんかの?』
「保健室?なんで?」
たしか三女は痴女だった。物凄く警戒心をあらわにして返したが、どうもふざけた様子の口調ではない。
『事情は合流してから詩織お姉様から伝える。急ぎの用なのですぐに来てくれ!』
美鈴は俺の返事を聞かずにブチッと切ってしまった。
(なんなんだ?)
しかし…明日香じゃないお姉さんと言えば保健医の長女の事だろう。
そういえば琴宮長女とは会った事ないな。まがりなりにも先生なのだからきっとまともだろう。
口調も真剣味を帯びていたし、行ってみるか。
自分の鞄を取り俺は教室を出た。
◇ ◇ ◇
保健室は校舎の端っこだ。
移動教室とかで使う理科室とか美術室を突っ切った向こう、運動場や体育館へ続く渡り廊下の近くに保健室はある。
放課後となればそれらの教室は使われない。
それでも理系の部活動はあるので普通は少なからず人影はあるはずなのだけども、今日に限っては生徒や先生の姿が一切見当たらない。
薄気味悪さを感じながらも人が居ない理科室を突っ切る。
(向こうの階段を下りれば保健室まではすぐだ)
そう思い廊下の正面突き当たりの階段を目指す。
ふと、一人の男子生徒が立っているのが目に入った。
やっとで人影を確認し、薄気味悪さを振り払おうとする。
男子生徒の横を通り過ぎようと近づくが”何か妙”だ。
その男子生徒の髪と制服は酷く乱れ、廊下の真ん中にうな垂れて突っ立ってるのだ。
いや、よく耳を澄ませて見ると「ぅぅ…ぅぅぅぅ。」と唸り声を上げている。
背筋に悪寒が走った。(何かが異常だ!)咄嗟に、本能的に、直感して立ち止まる。
”コイツはヤバい!”
そう感じた瞬間、うな垂れていた男子生徒の頭が持ち上がった。
「…ッ!?」
俺は声にならない悲鳴を上げた。いや、正確には上げられなくて唸っただけだ。
男子生徒の顔は土色で顔中血管が浮かび上がっている。
口からはまるで狂犬病に感染した犬のようによだれを垂らしながら威嚇するかのように歯を剥き出しにしている。
そして、その瞳は真っ赤に染まり血の涙を流していた。
突如男子生徒が俺目掛けて走り出す。
(は、早いッ)
男子生徒が左腕を振りかぶる。
明らかに横殴りのパンチを繰り出そうとしている!
冗談じゃない!俺は喧嘩は出来ない。恨みを買う事は…たぶんない。
美雪と明日香の顔が一瞬過ぎって自信はあやふやに揺らぐが、目の前の男子生徒は明らかに恋の逆恨みとかでは無い事ははっきりと分かる。
相手の気迫に押され膝の力が抜け、地面に尻餅をついた。
俺の頭があった場所に男子生徒の腕が通過する。
そのまま理科室のドアについたガラスに直撃し粉砕した。
「ちょッ!?冗談ッ」
”コイツは本気だ!”
恐らく殺されるッ!?
ドクンッと鼓動が跳ね頭の中でアドレナリンが大量分泌されたのかキーンと耳鳴りがし視界の周りはうっすらと白く染まる。
でも、視界の中心は異常にクリアに見え、そして世界がスローモーションで流れた。
人間が死の危険に晒された時に起こると言うアレだ。
(な、なにか武器はッ)
辺りを見回すが武器になりそうな物は一切ない。
俺は尻餅をついたまま後ずさりする。
男子生徒はガラスの破片が突き刺さり血まみれになった左腕を引き抜き、意に介せずこちらに向き直った。
「ヴァゥッ!」
獣染みた雄たけびを上げ再び俺に襲い掛かる。
「うわぁああああああッ」
早いッ!逃げられない!
俺は両腕を顔の前に掲げ目をつぶる。
ドゴォオオオオッ!
重い打撃音が轟き、再度振り上げられた男子生徒の拳が俺に届くことはなかった。
恐る恐る目を開く。頭に痺れが僅かに残り、スローモーションは解けていた。
状況を把握する為目の前を見張った。
俺に襲い掛かってきた男子生徒が居た場所には”明日香”が立っていた。
男子生徒はその遥か前方に仰向けで倒れている。
「孝太!早く起き上がりなさいッ」
「あ、明日香?」
早くも吹き飛ばされた男子生徒が気味悪く蠢き出した。
慌てて俺も身を起こす。
「コイツ、なんなんだッ!?」
「話は後よ!先ずはここを切り抜けるわよ!」
明日香はこの状況が分かっている様だった。
起き上がった男子生徒へ明日香が突っ込む。
身を低くして地面スレスレを滑る様に距離を詰める。
「ガォウッ」
標的を明日香に絞り男子生徒が唸った。
明日香へ向けて腕を振りかぶり穿つ。
しかし、明日香へ攻撃が届く直前に明日香の蹴りが男子生徒のみぞおちに入る。
そこから連続で蹴りの乱舞が始まる。
(は、早ぇえ!…まったく見えない!)
人間技とは思えない見事な明日香の足裁きを俺はあっけに取られて見ていた。
いや、見惚れていたのだ。
なんと、男子生徒の身体が1メートル程も浮き上がった。
(ありえないッ!)
「てやぁああああああッ!!」
明日香が叫び、男子生徒に回し蹴りをお見舞いする。
ガッシャァアアアアアアアアアン
『ヴゴォオオオオオオオッ』
男子生徒の身体は窓を突き破り階下へ落ちていった。
しばしの静寂が流れる。
俺は呆然と立ち尽くしていた。
目の前に立つ明日香の背中は肩で大きく息をしていた。
こんな明日香は初めて見る。
「お、おい、大丈夫か?」
しかし、返事はなかった。
明日香は無言で息を整えていた。
コツッコツッコツッ…
静寂な廊下の向こうから足音が響いてきた。
「まだよッ!」
再び緊張に張り詰めた面持ちになり、明日香は俺の手を引き無人の理科室へ入った。
◇ ◇ ◇




