魔法使いになるまで05
「幸ちゃん」
部屋に入ってきたその人に、名前を呼ばれて正直びっくりした。
だって、名前を覚えているなんて思わなかった。あんなに無関心で、まるでこちらをいないもののようなそぶりだったのに。
「幸ちゃん?」
「……は、はい」
繰り返されてもまったく慣れない。
今までの無関心ぶりが嘘みたいにまっすぐこちらを見る北斗に、幸はうまく反応できない。
北斗の目には継母達のような蔑みも、嘲りも何もない。
でも直視できなく視線を下にずらす。
「一緒に暮らすにあたって幸ちゃんに言う事があってお邪魔したんだけど、今大丈夫?」
「……は、はい」
こちらの都合を聞かれたのは、初めてだ。焦って馬鹿みたいに同じ答えしか返せない。 心臓がドクドクと煩い。北斗は一体何を言いにきたのだろう? まったく想像がつかない。予測できないというのは怖い。目の前にいるのが絢菜の場合は、間違いなく嘲りだと予想がつくのに。それなら、大分慣れたのに。
「本題はおいておいて先に聞きたいだけど、いつから家にくる? できれば今すぐがいいんだけど。後日迎えに来るのもめんどいし。身一つでぽんときてくれれば周りの物は私が用意してあげるから」
「…………え?」
あまりに突然で。あまりに突拍子もなくて。
何を言われたのか全然理解できなかった。
この人は今一体何を言ったの? 何を、言ってるの?
「……」
反応できない幸の様子を見て、北斗は何かを決めたように徐に頷いた。
「同じこと繰り返すのめんどいからパス。はい、じゃあ幸ちゃんはこのまま我が家に来るって事で決定。ほら、放心してないで用意用意。鞄に大事なもんだけつめたら行くよ」
「え? え? は? え?」
「はいはい、動いた動いた。ほらほらほら」
まったく理解できないまま、気圧されて言われたとおり動いてしまった。
大事なものってなんだっけ?
……ああそうだ、お父さんに昔買ってもらった髪飾りと、一緒に写ってる写真と、後は……後は、思い当たらない。
自分が大事だと思うもの少なさに気がつかされて、あらためて悲しくなった。
「え、幸ちゃんの大事なものってこれだけ? うっわあの人たち本当心底魔女だわ。ああ、小学校と中学のアルバムとか卒業証書とかもいれちゃえ。じゃ私の本題は我が家でするって事で、帰ろう」
――帰ろう。
それは、その一言は、まるで魔法の言葉みたいに聞こえた。
訳も分からない幸の中にぽすんと落ちてきてしみこんだ。
――帰ろう。
そう言って手を差し出してくれた北斗の手を、幸は操り人形みたいにぎこちない動きで握った。
***
「お茶入れるからそこ座って」
電車で片道三時間はかかる北斗の部屋は、こじんまりとしたアパートの三階の角部屋。
すっかり日が暮れた窓の外の景色が、カーテンで遮られるのをぼんやり見ていたら、そう言われた。
テーブルの周りを指差されたのでその通り座り、持ってきた荷物を抱えた。
しばらくして戻ってきた北斗の手には湯気の立つカップが二つ。
熱いから気をつけてとテーブルに置かれたのはホットミルク。それをやっぱりぼんやり眺めて、幸はもしかしたらこれは夢なんじゃないかと思った。
展開の速さにまったくついていけなかったせいもある。
「さて幸ちゃん、まずはお疲れ様。電車乗りっぱなしでさらにバスだったから疲れたでしょう」
「え、あ、い、いえ」
疲れた?なんて聞かれたのは、いつぶりだろう。
家で気遣ってくれる人なんて誰もいなかったし、友達だって相変わらずいないままだ。
精神がまったく追いつかない。戸惑ってばかり。
「その抱えてる荷物傍に下ろしなさいな。アルバム入ってるんだから重いでしょう」
――アルバム。言われるままに持ってきてしまったものの、暗く地味に縮こまっていた中学時代のそれに何の感慨もなく、幸せから急降下した小学校時代のものは見るたびに苦い感情が浮かぶ。
こんなもの、いらないのに。どうして持ってきたのだろう。
そうやって、いつまでもぼんやりとして荷物を置かない幸に、北斗は無言で荷物を取り上げ傍の床に置いた。
びくっと体が震えた。北斗も、やっぱり自分を怒るのだろうか。
「幸ちゃん」
その予想に反して北斗の目は相変わらず普通だった。
「とりあえず深呼吸しようか」
「え?」
「はい、吸ってー」
「え、あ」
ぱん、と手拍子がなって反射的に息を吸い込んだ。「はいてー」タイミングよくもう一度鳴らされた音に、従うように息を吐き出す。
それを三回ほど繰り返す頃に、戸惑っていた心がようやく落ち着いてきた。
「落ち着いた?」
「……あ、はい」
「そりゃよかった。じゃあ本題に入ろうか」
本題。そういえば家でも北斗はそう言っていた。一体本題とは何のことだろう。
何を言われるのだろうと、身構えた幸の様子を気にする風もなく、彼女はおもむろにこう言った。
「私、幸ちゃんの魔法使いになる事にしたから」
「……は?」
目が点になるって、この事を言うんだ。
後々そう実感した幸だったが、今この時はただ馬鹿みたいに口をぽかんとあけて、にこりと笑った北斗の顔を見るだけだった。