〈 転 〉
「心臓がぴくぴくしていてね。もう、可愛くって!」
そのときツキは妊娠していた。
超音波検査で初めて心拍が確認された日のことだ。彼女は夢中になって胎児の様子を熱弁した。そして「ぴくぴくぴくぴくっ………」と歌うように繰り返す。
「ねえねえ、ナツ」
突然、ツキはぐいっと僕の頭を自分のお腹に引き寄せた。僕は一瞬、戸惑うが、彼女の意図を察して自ら耳を近づける。
「聞こえる?」
「無理だよ」
「そうだよね。だって、まだこーんなに小さいんだもんっ」
ツキは、右手の親指と人差し指で一センチほどの隙間を作る。
「だからね、今度の検診は一緒に行ってほしいな。あなたにこの子を見せてあげたいし、この子のことを見てあげてほしい」
駄目かな? と、彼女にしては気弱に僕の様子を伺う。僕は少しだけためらった。なにしろ、行き先は産婦人科だ。僕の想像できない世界だ。……それでも、こう答える。
「いいよ」
ツキは、ぱっと顔を輝かせる。彼女は浮かれていた。僕も浮かれていたと思う。僕たちは買ったばかりの出産育児本を二人で繰り返し何度も読んだ。僕たちは幸せだった。
次の検診の日。僕は無理して年休を取り、彼女と一緒に産婦人科の門をくぐった。ものすごく気恥ずかしかったけれど、行ってみれば同じような顔をした旦那さんが結構いて、ほっとした。
そして、超音波検査を見た。
医者に説明されなければ、何が映っているのか分からない画面を見た。
その中央で、ぴくぴくしているはずの、心臓。
けれど、画面の中で動いているものは、何もなかった。
「残念ですが……稽留流産です」
医者が言う。
「この子は、どうなるんですか?」
乾いた声で僕が言う。心臓が動いていないのだ。どうなるも、何も、ない。だけど、理解できなかった。入院すればよくなるのかも、なんてことすら思った。
「誰も何も悪くなくても、妊娠初期では十五パーセントの人が流産します。稽留流産は、妊婦に自覚症状がなくても胎児が死亡している状態で……」
僕の頭は麻痺していて、医者の言っていることはまともに聞こえていなかった。「あんた、医者だろう、何とかしてくれよ」そんな、すごくありがちなことを言った気がする。
服を引っ張られる感覚がしてその方向を見ると、ツキが僕のシャツの裾を握っていた。彼女はただ涙を流していて、ただただ涙が流れ続けていて――僕は彼女を抱きしめた。
――ツキは自分を責め続けた。僕に謝り、あの子に謝り続けた。
「私が悪かったの。私が体に悪いものを食べていたから。規則正しい生活を送っていなかったから」
「違う。君は悪くない。だって、どうしようもなかったんだ」
僕たちは毎晩、抱き合って眠った。ツキは、寝ている間に僕がいなくなってしまうことを恐れるかのように、決して僕を離さなかった。
一月経って、ツキは職場に復帰した。僕たちは社会人で、僕はもともと年休以上には休めないし、彼女だっていつまでも戻らないわけにはいかない。
あるとき、ツキは僕に言った。
「あなたが死んだ二年後に私が死ぬ、っていう約束。あれ、撤回する」
僕の目をまっすぐに射抜くかのようなツキの眼差し。凛とした声で彼女は宣言する。
「私、誰かに先に死なれて取り残されるの、もう嫌」
僕は何も答えられなかった。
「どうしたの?」
天使の声に現実に引き戻された。いや、これは本当に現実なんだろうか? 僕の目の前には眠ったままのツキがいる。青白い顔で瞳を閉じている。そんなの嘘だ。彼女は歳不相応なくらいに元気なんだ。時にはこっちが恥ずかしくなったり、慌てたりするほど子供っぽかったりして僕を困らせる。僕にとって、いるのが当たり前で、いなくてはならない存在なんだ。
「ねぇ?」
無言のままの僕を、天使はきょとんとした顔で見上げている。僕よりだいぶ背が低いので、すぐ隣に座る僕を見るのはちょっと首が辛そうだ。相変わらず人懐っこい笑顔のままで、言っていることは御伽噺の悪魔あたりが言いそうなことなのに、不思議と悪意は感じられない。
僕は目覚めないツキを見る。
ツキを助けたい。でも、彼女を助けてくれと言ったら、僕は死ななければならないらしい。僕が死んだら、彼女は残される。残されるのは残酷だ。ツキに二度とあんな思いをさせたくない。かといって、僕だって残されるのは嫌だ。
頭がくらくらしてきた。
「僕が残されるか、ツキが残されるか……か」
呟く。
どちらも選びたくない……。
ふと、袖を引っ張られるのを感じて、僕は天使に目を向けた。天使はどこか傷ついたような、泣きそうな目をして僕を見ていた。
「そんな顔させたくて、来たんじゃないよっ」
突然、天使が叫んだ。表情にそぐわない、怒ったような口調。いったいどうしたというのだろう?
天使はじっと僕を見ている。僕もじっと天使を見ている。しばらく沈黙が続いたのち、天使は僕から顔を背けて俯いた。
「……ごめんなさい。俺、話のもっていき方を間違えた。考えなしだった。俺は知っていたのに。あなたたちの悲しみを……」
小さな声で天使は言った。
「君は、『あの子』のことを知っているのか!?」
天使はこくんと頷いた。ああ、そうか。こいつは『天使』なんだ。
「あなたたちはとても悲しんだ。とてもとても悲しんだ。……そうやって、親を悲しませて先に死んだ子供がどうなるか、知っている?」
透明な、感情の読めない声で天使が言う。僕は何を言えばいいのか思いつかず、結局何も言えない。天使は僕に答えを求めているわけではないらしく、静かに言を継いだ。
「親を悲しませた罪で、死ぬことも赦されず、神様の下働きになるんだよ」
「……『逆縁の罪』?」
「そう。そんな感じ」
仏教では子供が親より先に死ぬと『逆縁の罪』という罪になるのだと聞いたことがある。僕は無神論者だからよく分からないけれど、その罪に問われた子供は父母供養のために小石を積んで塔を作らなければならない。しかし、石を積むとすぐに鬼が来て壊してしまうという……。
僕はふと、疑問に思った。
「君は……?」
漠然とした予感がした。
「いい話があるんだよっ。本当はね、初めからこれを言おうと思って来たんだ。早く言えばよかった」
天使は僕の言葉を遮るように椅子からぴょんと飛び降りた。まるで踊るようにくるりと身を翻し、僕のほうを向いたときには、先ほどの泣きそうな表情が嘘のように消えていた。それどころか、いたずらでも企んでいるような不敵な笑みさえ浮かべている。
「どういうわけか運のいいことに、ここに『カンバラナツキ』がもう一人います。というわけで、この『カンバラナツキ』に死んでもらうことにして、彼女には生き返ってもらいましょう! って、どう?」
「ここに? もう一人?」
「うん、ここに」
天使は自分を指す。
「君は?」
「『カンバラナツキ』」
僕の予感は的中した。
「この子の名前、どうしようか?」
あの頃、あの子がまだツキのお腹にいた頃のこと。彼女が僕に訊いた。
「え? まだ性別は分かってないんだよね?」
「でも、『この子』じゃ可哀相だから、とりあえずの名前。胎名っていうのよ」
しばし、僕は考える。
「……じゃあ、『ナツキ』」
「それじゃあ、私たちと一緒じゃない」
「いいだろ? 君がツキで、僕がナツ。そして、この子がナツキ」
「君は、『ナツキ』なんだね」
「だから、そう言っているじゃんっ」
照れ隠しなのか、ちょっと小生意気なふくれっ面。よく聞けば、喋り方がツキにそっくりだ。顔は、ひょっとして、なんとなく僕に似ている、かもしれない。
「それじゃ、俺は行くね。これで俺はちゃんと死ねるから」
にこにこと手を振るナツキに僕はぎょっとした。まさか、このまますぐに消えてしまう気なのか。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
話をしたい。まず何から話したらいいのか分からないけれど、ずっと逢いたかったナツキだ。言葉にならない、胸の奥にしまっていた想いがたくさんある。
「せっかく逢えたんだから、もっといてくれよ……!」
「そうもいかないんだよー」
にっこり笑う。
何故ここで笑うんだ。ナツキは僕と話したくないのか。そんなに急いで行く理由はなんなんだ?
今にも消えようとするナツキに、僕は会話が続くように努力をする。
「ええと、君は既に、その……死んでいる、はず……」
「だから言ったろ。神様の下で死ぬことも赦されず下働きをしている、って。でも、これで俺は大丈夫。彼女も目覚める。めでたし、めでたし」
ナツキは、ちょんちょん、と手で拍子木を打つ真似をする。
何か釈然としない。
もやもやした気持ちを抱える僕をよそに、ナツキは「それじゃ」などと、まるでちょっと散歩にでも行くような気軽さで手を上げた。
先を急ぐナツキに、僕は違和感を感じた。
何かを見落としている。
僕がナツキを引き止める言葉を紡ぎだそうとしたとき、ナツキのほうから言葉を発っした。
「そうそう、そいつっ!」
ベッドに横たわったまま、ぴくりともしないツキをぴしっと指さす。
「俺の妹には『なつき』なんて名前、付けるなよ。俺は俺、妹は妹だからな。だいたい家中が『なつき』じゃ、ややこしいだろ」
「え……?」
突然のことに、僕は戸惑う。
ナツキは腕を組んで虚空を見つめ、いかにも考え中というポーズをした。それから閃いたとばかりにぽんっと手を打ち、にやぁっと笑う。
「俺が名前をつけてやる! そいつは『愛』だっ!」
ナツキは自分の名付けに満足したように、ご機嫌でツキを――ツキの胎内の妹を――見る。
「妊娠五週目。まだちっちゃいけど、そこに『愛が居るよ』」
――『アイガイルヨ』
どこかで聞いた言葉。僕は記憶を手繰り寄せる。
そうだ。あのとき。事故の直前。鯉を見ながらツキが言った言葉と奇しくも同じ――。
奇しくも?
いや、違う。ナツキは知っていて言っているのだ。だって、いたずらっぽく笑っている。ナツキは言葉遊びが好きなツキの子供なのだから。
……あれ?
何か引っかかった。
そんな僕の心のざわめきとは裏腹に、ナツキは元気に手を振った。
「もうちょっとしたら、ゲロゲロ吐くから、気をつけてやってなっ」
ナツキの姿がすぅっと薄れていく。
「ちょっ、ちょっと待てよ、消えるなよ!」
僕の心臓が警鐘を鳴らす。駄目だ。このままナツキを行かせてはいけない。
僕は慌てて半透明のナツキの腕に手を伸ばす。温かさは感じるものの、半分薄れた腕は掴むことはできない。
僕は必死になる。
考えろ!
何か、違うんだ!!
何が、おかしい?
何を、見落としている……?
僕は必死になって、この違和感を無理やり言葉に置き換えた。
そして、ナツキに、ぶつける。
「『カタカナで名前が書かれた名簿』なんて、『嘘』だろ!」
思い切り叫んだ。
空気が凍りついたように静まり返った。
僕は全速力で走ってきたかのように、肩で息をしていた。
たぶん、それは一瞬のことだったのだろう。しかし、僕にはとても長い時間に感じられた。
「……なんで分かっちゃったのかなぁ?」
心底驚いた声と共に、薄れていたナツキの体が再び鮮明になった。ナツキの双眸からは涙が溢れていた。
「それは君が、僕とツキの子供だからだよ」
僕は掴めるようになったナツキの腕を引き寄せ、力いっぱい抱きしめた。