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〈 承 〉

 ツキの体は一瞬ふわりと浮かんで、ゆっくりと地面に落ち、数回バウンドする。まるで人形のように。

 僕は持っていたレジ袋を放り出し、彼女に駆け寄る。

 こんなの嘘だ。嘘だ、嘘だ、嘘だ……。

 ツキ――!

 僕は叫ぶ。

 ぐったりとしたツキの体を抱きしめる。

 目の前がくらくらする。ぐわんぐわんと耳鳴りがする。

 僕は、言葉になっていない声を上げる。

 人々が集まってくる。ざわめきの中から「救急車だ!」と、叫ぶ声がする。

 よろよろと車から降りてきた運転手が、青ざめた顔で何か言っている。

 けれど、それらはどこか遠くの世界の出来事のようで、僕にはまるで届かない。僕はただ、ツキをぎゅっと抱きしめるだけ。

 お馴染みの、そして今まで関係者になったことはなかったサイレンの音が近づいてきて、救急車が到着した。ツキが担架に乗せられ、運ばれる。彼女が連れ去られるのを奪い返そうとでもするかのように、僕は担架にかじりつくようにして続いて飛び乗った。

 その後の記憶は曖昧だ。

 気づいたら、ツキは病院のベッドの上に寝かされていて、僕は彼女のベッドに突っ伏していた。

 彼女は目覚めない。

 外傷はたいしたことがなかったが、頭を強く打ったらしい。

 あれから二日経った。

 けれど、彼女は目覚めない……。




 ツキの白いベッド。その隣に僕は座っている。足の長さがあっていないのか、座り心地の悪い赤い丸椅子は、僕が彼女に触れるたび、がたがた揺れて音を立てる。

 ちょっと歳のいった眠り姫。

 どうして君は目覚めないのだろう。

 僕は彼女の髪に触れる。瞼に、鼻に、唇に。

 どうして、どうして。なぜ、なぜ、なぜ?

 どうして、あのとき彼女を一人で行かせたんだろう。にんじんくらい、仲良く二人で買いに行けば良かったじゃないか。なぜ、君は一人で行ってしまったんだ。

 ぐるぐると後悔が渦巻く。

 ……そうやって、僕がうなだれて自分の無力を感じているときだった。

「やった! 出てこられたっ!」

 突然、背後から声がした。子供のような高い声だ。

 なんだよ、うるさいな。

 そう思ったとき、僕は気づいた。

 ここは病院の個室で、この部屋には僕とツキしかいなくて、ドアはずっと閉めたままで、ドアが開いた音は聞いていなくて――だから、僕の後ろに人がいるはずはないのだ。

 僕はどきりとした。恐る恐る、振り向く。

 そこに、人がいた。いるはずのないところに、人がいた。

 いったい……?

 薄暗くなり始めたの光を頼りに、そいつの姿を精察する。目の悪い僕は電灯の助けを借りたいところだけれど、スイッチは入り口の傍で、ちょうどそいつの後ろにある。

 そいつは白いリノリウムの床にすっくと立っていた。全身に白い布のようなものを巻きつけた白ずくめ。ただ、光度が足りないから青白く見える。背は低く、幼い感じのする顔立ちは少年とも少女とも判別できなかった。

 僕に注目されていることに気づいてか、そいつはにこっと笑った。

「君は……?」

「俺は神様の下働きだよ。ええと、だから俺は『天使』だっ!」

 僕は一瞬耳を疑った。そしてすぐに気づいた。僕はからかわれているのだ。全身に巻いた白い布。まるでシーツのような。そう、シーツだ。間違いない。なんといっても、ここは病院だ。こいつは他の病室の入院患者か見舞い客で、きっとドアの隙間から僕の姿を見て、からかってやろうとやってきたのだ。僕の注意はずっとツキに向いていたから、ドアの開閉音は聞き逃しただけだろう。

「馬鹿にするな。出て行け!」

 僕は普段、めったに声を荒立てる方ではないと思う。けれど、今は怒鳴らずにいられなかった。

 僕が言葉をぶつけた瞬間、そいつはびくっと肩を上げ、今にも泣き出しそうな顔になった。言った僕の方が悪かったのかと錯覚するくらいに。

 相手は子供なのだ。多少のいたずらは大目に見るのが大人というものだろう。僕は少しだけ反省し、努めて感情を抑えて謝った。

「すまなかった。でも、今はそういう冗談は聞きたくない。出て行ってくれ」

 すると、そいつはたちまち笑顔を取り戻し、とんでもないことを言った。

「もし、あなたが死んでもいいというのなら、彼女を助けてあげることができるよ」

「な……!?」

 僕はそいつの言ったことが理解できなかった。

「だから、もし、あなたが死んでもいいなら、彼女を助けてあげられる、って」

 にこにこと、そいつは言う。

 その笑顔に、僕はかっとなる。

「何をふざけたことを……!」

 勝手にツキの病室に入ってきて、天使だなんて戯言たわごとをほざき、挙句の果てに何だって!?

「出て行け!!」

 子供のいたずらにしたって、不謹慎にもほどがある。ツキは、まだ目覚めていないだけだ。もう少しすればきっと目覚めるのだ。それなのに……それなのに、この言い方はまるでツキがこのまま死んでしまうかのようじゃないか。

「信じられない?」と、そいつは首を傾ける。

「誰が信じるか!!」と、僕は叫ぶ。

 怒りに右手を握り締める。爪が食い込みこぶしが白くなる。このまま殴ってやりたい衝動をやっとのことで抑えた。

「ええと、じゃあ、これなら?」

 言うと同時に、そいつの姿がすぅっと消えた。今までそいつに遮られて見えなかったドアが見え、電灯のスイッチも見える。僕は我が目を疑った。いくら目の悪い僕だって、そこに物があるかないかくらいは分かるはずだ。

 いったい、何が起きたんだ?

 僕はきょろきょろとあたりを見渡す。どこにも人影は見当たらない。

 ――本当に、天使なのか?

 そんなもの、いるわけない。僕は幻を見たのだ。

 少し、休もう。僕はおかしい。狂っている。このままではいけない。売店に行って何か飲み物を買ってこよう。いや、よく考えたら昨日、お義母かあさんが差し入れてくれたサンドイッチをつまんで以来、ずっと何も口にしていない。まずは食べ物か。

 僕は立ち上がろうとした。造りの悪い椅子が、がたっと大きな音を立てる。長いこと同じ姿勢でいたせいか、足に力が入らなかった。僕はうまく踏ん張ることができず、よろめくようにまた椅子に腰掛けてしまう。

「はは、ははは……」

 乾いた笑いが口から漏れる。いったい僕は何をやっているんだか。

 ため息が出た。

 僕は再び――今度は気をつけながら、ゆっくりと立ち上がった。まるで食欲がわかない。食べ物を買う気にもなれず、売店まで行かずに同じ階にある自動販売機でコーヒーを買った。すぐに病室に戻り、また赤い丸椅子に座って無糖のコーヒーを口に含んだ。

 苦い。

 ツキは変わらず、青白い顔で眠っている。

「……天使なら、ツキを助けることができるのか?」

 僕の口はこう呟いていた。

 天使なんているわけない。そう思いながらも、僕の心は縋っていた。僕の傍でツキが笑っていないという事実に、僕は疲れていたのだ。

 僕の呟きが聞こえたのだろう。そいつは再び音もなく姿を現した。ああ、駄目だ。僕は信じてしまう。この胡散臭すぎる天使とやらを。

「信じてくれたんだねっ」

 人懐っこく笑う。ただの子供のように見える。でも、『天使』だ。

 天使はにこにこしながら寄ってきた。僕が座っているのと同じ丸椅子をツキが寝ているベッドの下から引きずり出して、僕の隣に並べて座る。背が低いので、足は床に付かずにぶらぶらさせていた。天使というのに黒髪で、部屋が暗いからはっきりとは分からないが、たぶん目も黒っぽい色で、天使の翼らしきものも天使の輪らしきものも見当たらない。

「どいういうことか、説明して欲しい」

 かすれる声で僕は言った。天使は待ってましたとばかりに身を乗り出す。

「ええとねっ。神様のところには、死ぬ人間の名前が書かれた名簿があるんだよ。で、その名簿は名前がカタカナで書いてあるんだ」

 天使はくりくりとした目でじっと僕を見る。もう分かるでしょう、と目が言っている。

「彼女の名前は『カンバラナツキ』。そして、あなたの名前は――」

「『カンバラナツキ』だ」

 僕が答える。僕とツキは同じ名前だ。

「だから、彼女じゃなくて、あなたが死ぬんでもいい。名簿上は問題ないよ」

 こいつは天使ではなくて、悪魔というのではないだろうか。

 いや、それはどちらでもいい。それより、ツキが助かるなら、僕は……。




 ふと、僕の耳に蘇るツキの言葉。数年前の、あの出来事のあとの。

「あなたが死んだ二年後に私が死ぬ、っていう約束。あれ、撤回する」

 僕の目をまっすぐに射抜くかのようなツキの眼差し。凛とした声で彼女は宣言する。

「私、誰かに先に死なれて取り残されるの、もう嫌」

 ツキが泣くのかと、僕は身構えた。けれど彼女は泣かなかった。涙はもう枯れ果てて、泣くことすらできなくなっていたのだ。ツキはただじっと、僕を見つめていた。


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