〈 起 〉
短編『天使に捧げるレクイエム(レクイエム)』に頂いた感想をもとに書き直した改稿版です。
前半はあまり変わっていませんが、後半がだいぶ変わりました。
短編のままでも良い文字数だったのですが、見にくくなったので連載という形で起承転結の四部構成にしました。
改稿したので短編版の方は削除しようかと思ったのですが、これはこれで一度書き上げたものなので、記念に残しておくことにしました。
穏やかに晴れた、とある休日の午前中。溜まりまくった洗濯物を片付けた僕と彼女は、いつものように、いつものスーパーへ買い物へ出かけた。
レジ袋二つを一杯にして、僕たちは買い物を終えた。重たい方は僕が持ち、花かつおとポテトチップスがメインの軽い方は彼女が持つ。建物の外へ出ると、あまりの太陽の眩しさに思わず目をつぶった。そんな僕の隣で嬉しそうに彼女が笑う。
「ねぇ、ナツ、お天気がいいから、遊歩道をお散歩して行こっ」
僕のレジ袋の内訳は、玉ねぎ、じゃがいも、ピーマン、レタス……。肉や魚は先週、買いだめしたので、既に家の冷凍庫に詰まっている。よって今日の買い物に生ものは、なし。料理酒とサラダ油とシーチキンの缶詰が重たいけれど、このお日様を楽しまないのは、もったいない。
「うん、じゃあ、寄り道して行こうか」
僕たちは一緒に歩き出す。
スーパーの前の横断歩道を渡ると、そこはもう件の遊歩道だ。赤茶色の煉瓦を模した敷石で綺麗に舗装されていて、その石の隙間を五羽ほどの鳩がつついている。小さな植物の種でも落ちているのだろう。人が近づけば、ほんの数十センチほど飛びのくが、すぐまた地面に向かいはじめる。
この遊歩道の脇には川が流れていて――というよりも、古くからある川に沿ってあとから遊歩道が作られたらしく、川には鯉やカモが泳いでいたり、たまには大物の白鷺も来たりしてなかなか賑やかだ。運がよければ美しい青緑色の宝石のようなカワセミを見ることができ、そんな日は何となく良いことが起こりそうな気がする。
家は反対方向なので、まっすぐに帰るなら遊歩道は通らない。けれど僕も彼女も生き物が迎えてくれるこの遊歩道が好きだった。平日はデスクワークの毎日で、どうしても屋内にこもってPCとにらめっこばかりになる。だから休日くらい心の洗濯というか、のんびりと外の風に当たりたい気分になるのだ。
僕たちの前にいた、足元のおぼつかない小さな男の子が、母親の手から放れて鳩たちを追いかけ始めた。男の子は鳩たちの真ん中に突っ込んでいく。さすがの鳩たちも無法者の侵入には恐れをなして、ぱっと空へ舞い上がった。それを更に追おうとして、男の子は転んでしまう。
僕の隣で彼女がはっと息を呑んだ。男の子は小さな子供特有の大きな声で、わんわんと泣き出した。しかし男の子の母親が抱き起こし優しくなぐさめ、「今度は鯉さんを見よう」と提案すると、涙はぴたりと止まる。連れ立っていく親子の後ろ姿に、彼女がほっと胸をなでおろしたのを感じた。
それから、僕たちは川沿いの遊歩道をのんびりと歩いた。川の中では鯉がのんびりと泳いでいる。
人通りはそれほど多くはないが、たまに先ほどのような親子連れや僕たちのような買い物帰りの奥さん、赤ちゃんの日光浴らしきベビーカーのご婦人、杖をついたご老人などとすれ違う。
「ねぇ」
彼女が僕を見上げた。彼女の身長は僕の顎の辺りまでしかないので、並んで歩いていると自然に見上げる格好になる。
「重くない?」
僕のレジ袋に目をやる。実は少し手が痛くなってきていた。さすがに料理酒とサラダ油とシーチキンの缶詰は強烈だ。よく考えたら玉ねぎとじゃがいもも結構、強敵かもしれない。けれど、ここはやせ我慢。重いと言えば、彼女が持つと言うのだから。
「重くないよ」
「でも、袋の方は悲鳴を上げているよ?」
見ればビニール製の袋は重みで伸びて、イワシ印のスーパーのシンボルマークがヒラメのようになっていた。取っ手のところも薄くなっていて、今にも切れそうだ。
「大丈夫だよ」
少しだけ、嘘。
僕は袋を抱えるように持ち替えて、逃げるようにすたすたと歩き出した。
「待ってよ」と彼女が小走りに追ってくる。そして、僕に追いついた彼女は少々むくれながらも「ありがとう」と言ってくれた。
僕たちはまた、一緒にのんびり歩き出す。
向こうからやってきた、やはり散歩中らしきおじいさんが、手に提げていた袋からパンを取り出した。それを千切って川に投げる。鯉たちは今までのんびりしていたのが嘘のように、目の色を変えてパンくずに群がった。どこからともなく鳩たちもやってきて、風に飛ばされて水の中に入らなかったパンくずを夢中になってつつく。
「うわぁ、すごいねぇ」
大きな声で、彼女が何とも評価しかねる感想を漏らした。僕は「そうだね」と相槌を打つ。
二人とも、そのまま並んで何となく鯉を見ていた。
この川は一時はドブ川と呼ばれ、悪臭がひどかったらしい。それが地域の人々の努力のおかげでこんなに綺麗になった。今は鯉だけでなくオイカワやフナもいるという。更には清流にしか棲めないという鮎すら来るようになった――と、この辺りの大地主でもある大家さんが言っていた。
僕はそんな小魚たちを見つけようと目を凝らした。けれど、僕はあまり目が良い方ではないので、よく分からない。だから彼女に訊いた。
「鯉以外に何かいる?」
彼女はしばらく僕と同じように、じっと川底を見ていた。そして急に、にこっと笑って言った。
「アイ!」
「え? 何?」
僕は彼女の言ったことが理解できなくて聞き返す。
「だから、あなたが『恋以外に何か要る?』って聞くから、私は『愛が要るよ』って答えたのっ!」
彼女お得意の言葉遊びだ。彼女は、同音異義語やちょっとした駄洒落が好きなのだ。
ただ、今回は少し恥ずかしかったらしい。照れたようにそっぽを向く。その仕草は少女のようだが、彼女は少女というほど若くない。何しろ結婚して五年になる僕の妻なのだから。
僕の名前は、神原夏樹。
彼女の名前は、神原名月。
同じ名前である。
単なる偶然。もっとも、言葉遊び好きの彼女が同じ名前に気づいて、それが縁で親しくなったことは重要だ。
名前が同じでも結婚する前は良かった。彼女は僕のことを『神原さん』と呼んでいたし、僕は彼女を旧姓の『星野』と呼んでいた。それが同姓同名になってしまった。さすがに夫婦になってまで苗字で呼ぶのは変だ。かといって、彼女を自分と同じ名前で呼ぶ気にはなれない。それで、彼女は僕のことを夏と呼び、僕は彼女を月と呼ぶことにした。
ツキは少々、子供っぽいところがある。僕より二歳年下だから、ではなく、それが彼女の性格なのだろう。時々、困ってしまうこともあるが、いつまでも変わらなくあって欲しいとも思う。
休日の心の洗濯を満喫し、家路に向かう途中でのことだった。
「あっ、にんじん、買い忘れたっ!」
唐突にツキが叫ぶ。共働き夫婦なので休日の買い物は大切だ。買い忘れは痛い。
「ちょっとここで待ってて。すぐ買ってくるからっ!」
彼女は自分が持っていたレジ袋を僕に押し付け、スーパーに向かって逆戻りした。「そんなに慌てなくても」と、僕はゆっくりと後を追う。
その、僕の目の前で、事故は起きた。
スーパーに続く道への横断歩道。
右折してくる車に。
彼女は。
はねられた――。
「絶対、僕よりも先に死なないでくれよ」
結婚する前に、僕が彼女に言った言葉。
「そんなの、分からないわよ。先のことなんて知らないもんっ」
むすっとした顔で答える彼女。
「君がいなくなったら、僕はどうしたらいいか分からないよ」
僕がそう言った瞬間、彼女は顔を真っ赤にして僕の胸をぽかぽかと叩いた。曰く「あなたって人は、なんて恥ずかしい台詞を平気で言うのよっ!?」だそうで。「嬉しいじゃないのっ」と呟きながら、「こんな顔をあなたに見られたくないっ」と顔を隠す――僕の胸に自分の顔を押し付けるという行為によって。
彼女はしばらく僕の胸の中で喚いたあと、自分の顔をぱちん、と叩いた。何事もなかったかのように僕から離れて、それでも明らかに作ったと分かる真面目な顔で言う。
「じゃあ、あなたが先に死んだ場合、残された私はどうしたらいいの?」
「僕が死んだ後のことは分からないよ。君の自由でいいよ」
心の底から思っていることだったのだけど、これは失言だったらしい。彼女の眉がきゅっと吊りあがった。頬を膨らませて、先ほどとは別の理由で顔が真っ赤になる。
「冷たい人ね。だったら私が先に死ぬもんっ」
「それは駄目だ。僕が先だ」
「いいえ! 私っ」
しばらく不毛な言い争いを続けた末、諦めたように彼女が言った。
「仕方ないわね。私の方が二歳年下だから、あなたが死んだきっかり二年後に死ぬわ。これでいい?」
珍しく彼女が折れた。意地っ張りで子供っぽい彼女が折れた。
「だから、充分に長生きしてね」そう言って、彼女は抱きついてきた。