僕の顔がない
日常の皮が一枚めくれたすぐ裏側に、底知れぬ闇が広がっている。
私たちは普段、見慣れた景色や確かな自分の存在を疑うことなく暮らしています。しかし、夏の茹だるような暑さのなか、あるいは静まり返った真夜中の部屋で、世界の境界線は容易に歪んでしまうものです。
本書に収められたのは、そんな「ありふれた日常」がほんの微かな音や違和感をきっかけに、取り返しのつかない異常へと変貌していく怪異の記録です。
耳を澄ませてみてください。
いま、あなたのすぐ目の前で響いているその音は、本当にただの気のせいでしょうか。
どうぞ、恐ろしい物語の数々を最後までお愉しみください。
ジリジリと肌を焼くような、不快な夏の熱気が部屋に満ちていた。
網戸の向こうから聞こえるアブラゼミの鳴き声に混じって、パチ、パチ、と爆ぜるような、奇妙な音が聞こえ始めた。
エアコンのきしむ音か、あるいは西日のせいで柱が軋んでいるのだろうか。
「なんだろう」
そう呟こうとして、喉の奥が引き攣った。声が出ない。それどころか、口が開かない。
違和感に襲われ、汗ばんだ手で自分の顔に触れた。
指先がなぞったのは、目も、鼻も、口も、すべてが消失した、ただの平らで冷たい皮膚の塊だった。
パチ、パチ。
音は、僕の「顔があった場所」のすぐ目の前、遮るもののない空間から響いている。
この猛暑のなか、そこだけが凍りついたように冷えていた。僕の顔を奪い去った「何か」が、夏の強い日差しに照らされながら、すぐそこで歓喜のまばたきを繰り返しているのだ。
日常のすぐ裏側にある「闇」を覗く旅は、いかがでしたでしょうか。
本書の物語をすべて読み終えたあなたにとって、これまで通りだったはずの部屋の隅や、いつもの帰り道が、ほんの少し違って見えているかもしれません。世界を隔てる境界線は、私たちが思っているよりもずっと脆く、薄いものです。
今夜はどうぞ、部屋の明かりをすべて消してしまう前に、背後をお確かめください。
それでは、また次の怪異でお会いしましょう。




