3話:もう一人の
「…ふむ」
とある日の昼下がり。
青崎市内にある総合病院の最上階。
陽光が差し込む個室で、クリスチャントは静かに富谷冷の父親と向き合っていた。
病室には消毒液の匂いと、
どこか諦めにも似た静寂が漂っていた。
「……そういうことなら、仕方ない」
冷の父はベッドに身を起こしたまま、報告を聞き終えると、
深く、重い息を吐き出した。
その表情には病の影と、しかし揺るぎない威厳が同居している。
「大変申し訳ございません。旦那様の大事なパワードスーツを、ワタクシの判断で勝手に…」
クリスチャントは深々と頭を下げる。
その声は低く、執事としての責任を一身に背負ったものだった。
「いや、判断は正しいぞ。クリスチャント」
冷の父は、ゆっくりと額に手を当て、天井を仰ぐ。
「なんならアレ等は、最初から”オレが使う予定ではなかった”からな」
その言葉に、クリスチャントはハッと顔を上げた。
彼の冷静な瞳の奥に、鋭い探究の光が宿る。
「…と、申しますと?」
「今は詳しく言えんが…」
冷の父は、言葉を選びながら続けた。
「引き続き、その桐灰華という女の子に協力してやってほしい。スーツが壊れたら修理するので、いつでも遠慮なく言うように」
「かしこまりました…」
クリスチャントは胸に手を当て、
完璧な礼儀作法でお辞儀をする。
しかし、
その視線は微かに冷の父の横顔を捉えていた。
彼は、チラリと片目を開け、探るように問いかける。
「桐灰様が関わっている事柄を、何かご存じで?」
「……まぁな」
冷の父は、その問いには答えず、
ただ静かに病室の窓の外に広がる街の景色に目を向けた。
窓越しに見える公園の桜は、既に盛りを過ぎ、
枯れ始めた花びらが風に舞っている。
それは、一つの季節の終わりと、
しかし確実に次の季節が訪れようとしていることを、雄弁に物語っていた。
彼の瞳の奥には、
遠い過去と未来の双方を見据える複雑な光が宿る—。
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「…んっ」
喉の奥から漏れた小さな声は、静かな目覚めの合図だった。
富谷冷は、まだ眠気の残る重い瞼をゆっくりと持ち上げ、ベッドから身を起こす。
寝癖でぼさぼさになった髪は、まるで枝垂桜のようにふわりと広がり、彼女はゆっくりと手のひらで顔を覆うように拭った。
「…」
ふと視線を巡らせると、
見慣れた自分の部屋がそこにあった。
徐々に覚醒していく思考が、
昨日の出来事を鮮やかに思い出させる。
数日間続いていた業者による工事がようやく終わり、長らく離れていた自分の部屋に戻れた冷。
そして、一時的に使っていた母の部屋を、この前から富谷邸に住むことになった桐灰華に譲った、その日の記憶が。
「…はぁ」
自然とこぼれたため息と共に、
冷は重い体をベッドから滑り出させた。
カーテンを開け放つと、
眩い朝日が容赦なく目に差し込み、思わず目を細める。
時刻は午前7時17分。
静かに、しかし確実に一日が始まろうとしていた。
部屋を出て1階の洗面所へ向かおうとした、その時だ。
途中に差し掛かったのは、かつて母が使い、今は華が寝起きしている部屋。
冷は思わず足を止め、
中から微かな物音でもしないかと、そっと耳を澄ませる。
(……寝てるときって、鼾かかないんだ)
何故かその一点だけを確認すると、
冷は再び静かに歩みを進め、階段を降りていく。
豪快で、明るく、前向きで猪突猛進な華。きっと寝相もひどく、大音量のいびきをかいているに違いない。
冷は、そんなふうに勝手に想像していた。
だが、意外なほどに静かな寝息に、彼女にも女子らしい一面があるのだなと、妙に納得していた。
「……あれ」
一階に降り立った瞬間、
ふわりと鼻腔をくすぐる香りに、冷は足を止めた。
執事のクリスチャントが朝食を用意するのは大体午前8時頃。そしていつも、冷の小食を考慮してトーストなどのパン類がメインだったはずだ。
だが、今漂ってくるのは、明らかにパンとは違う、
食欲をそそる美味しそうな香りだった。
「誰だろう…」
不思議に思った冷は、大理石の廊下を足音一つ立てずに歩き進み、キッチンのほうへと向かう。
壁に背をつけ、出入り口の陰からそーっと中を覗き込む。
すると、そこに映ったのは、
エプロンを身につけた桐灰華が、慣れた手つきでフライパンを軽やかに振っている後ろ姿だった。
「えっ?」
「ん?」
思わず漏れた冷の声に、華がくるりと振り向く。
昨日貸した猫のパジャマの上から一体どこから持ってきたのか、胸に「にゃんだふるあげいん」と意味不明な文字が書かれたエプロンを身につけていた。
「あ、ごめーん!勝手に台所借りてた!」
「…うん、全然いいんだけど」
冷はキッチンへと足を踏み入れ、華の傍に近づく。
「何作ってるの?」
「いやー、無性に目玉焼きが食べたくなっちゃってさ。今作ってたところなんだよねー!」
「目玉焼き…」
フライパンの中を覗き込むと、ジュウジュウと心地よい油の音を立てながら、
ぷるんと艶やかな黄身。
それを包む、ふっくらとした卵白。
「…料理、するの?」
「自己流だけどね。一人旅してると、嫌でも自分で作んなきゃいけないからさ」
「……」
しばらく、華が作ったその目玉焼きをじっと見つめていた冷は、やがてぽつりと呟いた。
「わたしの分も、作ってくれる?」
「…え?」
それは、あまりにも唐突で、
そして少しだけ、甘えるようなお願いだった。
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「…ほぉ、これは」
後からダイニングにやってきたクリスチャントは、
その光景を興味深そうに観察していた。
皿の上に鎮座する目玉焼きは、まるで芸術品のように目を惹くほど美しい。
つるりとした卵黄は完璧な丸みを保ち、隣に添えられたウィンナーも焦げ一つない絶妙な焼き加減。
切れ目も型崩れすることなく仕上げられている。
茶碗から立ち上る湯気が、冷の空腹を刺激する。
思わず、ごくりとつばを飲み込んだ。
「素晴らしいですね、お綺麗です」
「プロにそう言われると、妙に自信がつくよ。ありがと」
褒められた華は、少し照れくさそうにはにかみながら席に着く。
そして、両手を合わせて小さくお辞儀をした。
「いただきますっ」
箸を右手に持ち、迷いなくご飯をかっこむ。
その食べっぷりは、まるで昭和の豪傑だ。
「ほえー…」
その勢いに、冷も思わず見入ってしまうほどだ。
沢庵を一切れ、アツアツのご飯をまた一口。
そして、目玉焼きのつややかな卵黄の部分を箸でそっと掴み、口に運ぶ。
がつがつと勢いよく食べる華の様子に、冷は珍しそうな眼差しを向けていた。
「食欲旺盛ですね、桐灰様」
「そうでもないよ?ご飯3杯しか食えないからさ」
「さ、3杯も…?」
自分の食事の量とは圧倒的に異なるその言葉に、冷は目を丸くする。
体格はほとんど同じなのに、一体どこに3杯ものご飯を収納できるのかと、
不思議でならなかった。
「…ん?」
ふと冷は、華の食事の仕方に、とあることに注目する。
それは、華が周りの卵白を食べた後、
卵白を平らげると、残った黄身を器用に持ち上げる。
それをご飯の上に、そっと落とした。
さらに、お皿に残った卵黄の残りも、まるでソースのようにご飯に流し込み醤油をひと回し。
そして、それを美味しそうに口いっぱいに頬張っていく。
「なかなか、通な食べ方をなさいますな」
「これ、意外と美味いんだよ」
感心した様子のクリスチャントも、
ついに目玉焼きを食べ始める。
普段、食に関して彼は大きな反応を見せない。
だが、華の作った目玉焼きを口にした時は、何度か確かめるように深く頷きながら咀嚼していた。
そして、冷もいよいよ自分の朝食を食べ始めることに。
「……」
目玉焼きなんて一体何年ぶりだろう、
と心の中でそっと呟きながら、冷は卵黄と卵白の部分に思い切りかぶりついた。
その瞬間、冷は大きく目を見開く。
(と、とろとろ…?!)
口の中に広がる卵のとろみ加減が、舌に心地よく絡みつき、卵本来の味がゆっくりと、しかし優しく浸透していく。
そして、とろけるような卵黄のまろやかな食感と、絶妙に振られた塩加減が、
ついつい無言で食べ進みたくなるほどの至福の味が口いっぱいに広がった。
「…」
冷は、言葉を失う。
「…これまで数々の料理を習得してきましたが」
クリスチャントが、食事中に珍しく口を開く。
「こんなにも美味しく、そして心温まる優しいお味の目玉焼きは、初めてかもしれません。焼き具合、とろみ具合もさることながら…こんなにも卵が美味しくなるとは」
「感覚でやってるから説明が難しいんだよねー。教えてもらった時は、頭の中でずーっと意識してたんだけどさ」
「物を覚えるというのは、そういう物でございます。出来るまで何度も意識する。そして出来るようになったら、忘れる。感覚に染み込ませるのです」
「そうそう!」
執事であるクリスチャントも、国内外の料理の大半を会得しているため、
互いに料理をするもの同士自然と会話が弾んでいく。
その様子を眺める冷は、
目玉焼きの美味しさに舌鼓を打ちながら、
小さくご飯を一口、また一口と食べるのであった。
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「それで、これからどうされるのですか?」
朝食を終え、ダイニングテーブルを囲む華、冷、クリスチャントの三人は、食後の穏やかな空気の中、
他愛もない会話を交わしていた。
「ここを拠点にして。影喰の反応があった場所に行こうかなって考えてるんだよね」
華の言葉に、冷がふと疑問を抱く。
テーブルにわずかに身を乗り出す。
「…気になったんだけどさ。今までは影喰と戦ったら、家に帰ったりしてたの?」
「家無いから帰ってないよ」
「え……そうなんだ」
華のあっけらかんとした返答に、
冷は言葉を飲み込んだ。
これ以上踏み込んではいけない話題かと身を引くが
当の華は気にする様子もなく、まるで当たり前のことのようにサラリと話し続けるので、
冷の内心には逆に困惑が浮かび上がった。
「ワタクシも気になることがあります。影喰が出るとき反応がある、とおっしゃっておりますが。それは、どういう原理でしょうか?」
「えーっとねぇ…」
クリスチャントの問いに、
華は困ったように頭に指を当て、天井を見上げて考え込む。
言葉にするのが難しいのだろう。
華は、懸命に考え込む。
「頭に、ピキーン!ってくる!」
「……ぴきーん?」
華が放ったあまりにも感覚的な表現に、
クリスチャントは目を丸くし、ポカンとした表情になる。
「んで次に、反応があった場所が頭の中に映るんだよね。それで今まで日本全国あちこち飛び回ってた感じ!」
「めちゃくちゃ感覚だ…」
冷もまた、華の言葉にわかったようでいて、全く理解できていないような、複雑な顔をしていた。
「その場所への移動手段は、どうされていたのですか?」
「んー…」
クリスチャントの冷静な問いに、華は再び首を傾げる。
「歩いて行ったり、泳いで行ったりかな」
「…泳ぐ?」
冷が思わず聞き返す。
その言葉の意外さに、首をかしげた。
「そそ!海を泳ぐ!」
華の口から飛び出した、あまりにも当たり前のような言葉に、冷とクリスチャントは再び目が点になる。
二人の間に、一瞬の沈黙が落ちる。
「お、泳ぐというのは…」
クリスチャントが、かろうじて言葉を絞り出す。
「沖縄に行く時だったかなー。私、基本金欠だからさ。本土から離れてる場所は、泳ぐか、忍び込むかだね!」
さらに華の口から次々と語られる、今までの旅のトンデモ移動方法の数々に、
クリスチャントは顎が外れたかのように口を大きく開けた。
冷もまた、目を丸くしたまま思考が思考が追いつかない。
「よ、よくそれで今まで生きてたね…」
冷の呆れたような呟きに、
華は悪びれる様子もなく胸を張る。
「脳筋とフィジカルがあれば意外といけるよ?」
「「…え?」」
二人は、もはや何も言えなかった。
(昨日、この人の服洗ったとき。ほんの少しだけ、生乾きの匂いがした。もしかして……何日も風呂に入ってなかった?)
昨晩の記憶を掘り返し、
ふと不安に駆られた冷は、
じっと、疑うように華の顔を見つめる。
「ねぇねぇ」
冷の視線に気づいた華が、
きょとんとした顔で問い返す。
「ん?なになに?」
「お風呂って…毎日入りたい?」
冷は、恐る恐る問いかける。
「もちろん!」
華は間髪入れずにと即答する。
その言葉に冷は心の中で、ホッと安堵の息を漏らし、胸をなでおろす。
よかった。
冷は、心の底からそう思った。
「さてと」
食後の空気を振り払うように、華は勢いよく立ち上がった。
まるでこれから一仕事始めるかのように、右腕をぶんぶん、と大きく振り回し始めた。
その姿は、まるでリングに上がる前のボクサーだ。
「どうされました?」
クリスチャントが、その行動の意図を問う。
「次の影喰が居るところに行くんだよ」
「え?もう感じ取ったの?」
冷は目を見開く。
さっきまで、ただの朝だったのに。
「うん、朝起きたらピキーンって来た!」
華は、いつものように感覚的な表現で答える。
その言葉に、冷とクリスチャントはまたしても顔を見合わせた。
「ちなみに場所は?」
「えーっと…」
華は額に手を当てる。
今朝、閃光のように浮かんだ光景を思い出そうとしていた。
言葉を探すように、視線が宙を彷徨った。
「ビルが一杯あって、人が一杯いて」
(すごいザックリ…)
冷の心の中で、思わずツッコミが入る。
しかし、華の言葉は続く。
「水辺の中に、金色のお屋敷っぽいのが立ってる」
その言葉を聞いた瞬間、
冷の脳裏に、ある場所の鮮明なイメージが閃光のように浮かび上がる。
「………あ、もしかして」
それは、誰もが知る場所。
まさか影喰が現れるとは、思いもしない場所だった。
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ゴーン、と低く重厚な鐘の音が、
遠く山の方角から響き渡り、
澄み切った朝の空気をわずかに震わせた。
盆地特有のやわらかな陽光が、
街全体を優しく包み込んでいる。
視線を遠くへやれば、連なる山々の雄大な稜線が空に溶け込み、
その麓には、まるで碁盤の目のように整然と区画された町並みが広がっていた。
軒を連ねる古き良き町家。
その格子戸の奥には、風に揺れる暖簾の影が、
静かに時を刻む。
石畳を踏みしめる足音が、乾いた心地よい音を立て、
観光客の楽しげな笑い声が、そよぐ風に乗って耳に届く。
色とりどりの和服を身につけた人々が、通りを華やかに彩っていく。
バスを降りた瞬間、ふわりと鼻腔をくすぐるのは
清々しい抹茶の香りと、
どこか懐かしい線香の匂いが混じり合った、
まさに京都としか言いようのない独特の香りだった。
そして、視線の先、
青空を背景にきらめく金色の輝きが目に飛び込んでくる。
水面にその姿を映す楼閣は現実の存在でありながら、まるで絵画のように静謐で息をのむほどの美しさだ。
その輝きは、幾星霜もの歴史の重みをまといながら今も変わることなくそこに在る。
金閣を望む参道の脇。
片手に大きなキャリーケースを携えたクリスチャントは、慣れた手つきで観光案内の冊子を静かに開く。
風にめくれぬよう、指先でそっと端を押さえる。
「正式名称は鹿苑寺。臨済宗相国寺派の禅寺でございます」
淡々とした、しかし淀みない声が、
周囲の喧騒をすり抜けていく。
「この舎利殿が、いわゆる“金閣”。三層構造になっておりますね」
クリスチャントは視線を上げ、
まばゆい金色の楼閣を指し示す。
「一層目は寝殿造。二層目は武家造。三層目は禅宗様式」
冊子の精緻な図解と、
目の前の実物を照らし合わせるように、
彼は説明を続ける。
「上部には鳳凰が据えられております。現在の建物は、昭和三十年に再建されたものです」
池を指先でなぞる。
「この池は鏡湖池。建物を映すために設計されております」
一陣の風が吹き抜け、
水面がわずかに揺らめく。
「足利義満が、政治と美を象徴するために造営したと伝えられております」
パタン、と冊子を閉じる音が、小さく響いた。
「つまり――ここは、権威と美の結晶でございますね」
「こんなきれいな建物がずっと残ってるんだ…」
冷は、その歴史の重みに感銘を受けたように、
うっとりとした表情で呟く。
「歴史を後世に残す。そうやって受け継がれていくのです」
「いいね」
冷はどこか遠い目をして頷いた。
だが、その隣からひっきりなしに聞こえてくる、
ぺちゃぺちゃと何かを舐める音が気になり、思わずチラリと目をやる。
華は、金閣寺の荘厳な姿を横目に、
道中にあった屋台で買った抹茶アイスを、
まるで子犬のようにぺろぺろと一心不乱に舐めていた。
(花より団子タイプだ)
心の中で、冷は呆れと同時に、
どこか微笑ましいツッコミが響いた。
「…それで、影喰の反応ってどこにあるの?」
冷は、華の言葉に半信半疑で尋ねた。
「ここに来た瞬間、ピタッと消えちゃったんだよねー」
華は、残りのアイスをぺろりと舐めながら、
あっけらかんと言う。
「消えることなんであるんだ?」
「うん、たまにね。こっちの気配を察知して、さっと姿をくらますことも今まであったよ」
「ほう…敵も相当、頭が回るようですな」
顎に手を当てたクリスチャントが、
冷静沈着な声で分析する。
その言葉には執事らしい慎重さが滲んでいた。
「喋るし考えるし、人間と同じだよ…ん?」
華はアイスを舐める手を止め、
ふと視線を遠くの建物に向けた。
いや、建物というよりは、賑やかな屋台だ。
紅白の鮮やかな屋根の下には、4段の棚にぎっしりと景品が並べられている。
少し離れた赤い台の上には、
おもちゃの銃が5丁、整然と置かれていた。
「どうしたの?」
冷が華の視線を追って尋ねる。
「ねぇねぇ、あれやってかない?!」
華の瞳が、まるで子供のようにキラキラと輝き出す。
「……射的?へー、なつかし…って、影喰はいいの?」
冷は、華のあまりの切り替えの早さに呆れつつも、どこか懐かしさを覚える。
しかし、すぐに本題に戻る。
「今は反応ないし、いいのいいの!」
冷の困惑を他所に、ポケットをがさごそと弄り始める華。
小銭を取り出そうとしているようだが、段々とその表情は真顔になっていく。
同時に彼女の脳裏に蘇るのは、先ほど別の屋台で買った、
そして今まさに手に持っている抹茶アイスのことだった。
「お、お金…ない…!」
泣きそうな顔になる華を見て、冷とクリスチャントは、額からじんわりと汗が流れ落ちるのを感じた。
この状況で、まさかそんなオチが待っているとは。
「よろしければお出ししますよ、桐灰様」
クリスチャントが、
すかさず懐から財布を取り出す。
「えっ、いいの?!」
ぱかぁっと、まるで花が咲くように華の表情が明るくなる。
だが瞬時に右手の平をクリスチャントに向け、
「待った」のポーズを取る。
「いやいや!ここまでの電車とバス賃だしてもらったし、そんな!そんな!」
と、言いながらも、差し出された右手の平は、ぷるぷると小刻みに震えながらクリスチャントの方へ伸びている。
(すごい…言葉と行動が一致してない)
冷は心の中で密かに、
そして的確なツッコミを入れるのであった。
クリスチャントから300円を受け取った華は、
残りのアイスを片手に、まるで獲物を見つけた子どものように、駆け足で射的の屋台に駆け込んでいった。
「お嬢様もいかがですか?」
呆れ混じりの顔で華の背中を見ていた冷にも、
クリスチャントの手が伸び、300円の小銭が差し出される。
「…ひさしぶりだし。ありがと」
冷は小銭を受け取ると、
少し早足で華がいる射的の屋台に向かう。
到着すると、既に華はおもちゃの銃を構え、
夢中になって遊んでいる姿が視界に飛び込んできた。
「ぎゃ!当たんないっ!」
どうやら苦戦している様子の華が狙っているものを、
冷は隣からのぞき込む。
おもちゃの銃の発射口が向く先は、
棚の3段目に鎮座する一体の人形だった。
(え…なにあの人形)
冷は思わず凝視する。
その人形は、デフォルメされた白いカエルがナースの恰好をして、手に餃子を持っているという、いまいちコンセプトが読み取れない奇妙なデザインだった。
それを華は必死で取ろうと藻掻き、
おもちゃの銃を撃ち続けている。
「ひー!あと一発!」
そして放たれたコルクの弾丸が、
白いカエルの人形の真横を虚しく通り過ぎ、
当たることはなかった。
「ぎゃー!だめだったぁーー!」
華は悔しそうに叫ぶ。
「あ、あれが欲しいの?」
冷が人形を指さし尋ねると、華は大きく頷いた。
その時だった。
何の前触れもなく突然白いカエルの人形が、
ガタン、と音を立てて後ろに倒れた。
「え、うそ?!」
華は驚きに目を丸くする。
「なんで倒れたんだろう…今日風も吹いてないのに」
その言葉に、冷は何も言えなかった。
ただの偶然のように見えたので、何も言う必要がなかった、という表現が正しいのかもしれない。
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時間の経過も早く、気が付けば時刻は正午過ぎ。
金閣寺敷地内を散策し終えた華と冷、クリスチャントは、
観光客で賑わう近くの喫茶店に立ち寄っていた。
「おぉー…」
運ばれてテーブルに置かれた自身の注文の品を、華はまるで初めて見る宝物のように珍しそうに観察している。
それは、期間限定抹茶アイスデコレーション。
下には大きな白いバニラアイスが土台となり、その上に6個の鮮やかな抹茶カラーの丸いアイスが鎮座している。
さらにその上には、ポッキーや板チョコが均等な距離を保って刺さり、カラフルなチョコチップが散りばめられた
、まさに贅沢の極みとも言える一品。
外観からでもわかる圧倒的なボリュームに
、隣に座る冷は思わず目を丸くしていた。
「でぇ…っか」
冷の口から、
感嘆とも呆れともつかない声が漏れる。
「一度食べたかったんだよねー」
華は、一緒に置かれたスプーンを手に取り、
手を合わせて小さく姿勢を取る。
「いただきます」
下の白いバニラアイスを大きくすくい一口食べる。
その瞬間両目が見開き、至福に満ちた幸せそうな顔になる。
「はーー…バニラちょー美味い!冷も食べてみ!」
「えっ、う、うん」
華の興奮した声に、
冷は少し気圧されながらも頷く。
勧められるままに、
テーブル横に用意されていたスプーンを手に取り、
恐る恐る下の白いアイスをすくい上げ口に運ぶ。
「…うん、確かに。美味しい」
冷の口元に、自然と笑みが浮かぶ。
その上品な甘さは、彼女の舌にも心地よかった。
「でしょ?!これ当たりだよね!」
続いて華は、上の抹茶アイスにスプーンを向ける。
落ちないように半分だけをすくい取って口に運ぶと、両手に頬を当て、その美味しさを全身で噛みしめている。
きっと彼女の背後には今、
色とりどりの幸せの花が満開に咲き誇っているのだろう。
そんな華の無邪気な様子に、
冷の口元も自然とほころんだ。
「ワタクシ、少しお手洗いにいってまいります。お二人とも、ごゆるりと」
対面に座っていたクリスチャントは、二人の微笑ましいやり取りを静かに見守っていたが、
そっと席を立ち、出入り口奥にあるトイレのほうに姿を消した。
残された華と冷だが、
華はクリスチャントの不在を気にする様子もなく、
ひたすらアイスを食べ続けている。
「…あの、さ」
突然、アイスを食べる手が止まった冷の口調は、
何かを探るようだった。
その視線は、アイスに夢中な華の横顔に注がれている。
「クリスチャントの前では言えなかったんだけど、聞きたいこと…あるんだよね」
冷は、意を決したように切り出す。
「ん?なになにー?」
口にアイスをつけたまま、無邪気な様子で華が振り向く。
その顔には、何の警戒心も疑念もない。
隣に座る冷は、スプーンをお皿の上に置くと、
両手を膝の上に置いた。
ぎゅっと少し強く握りこぶしを作り、
その表情には真剣さと、
拭いきれない不安が入り混じっている。
「…わたしもさ」
冷の口は重たく、言葉がなかなか出てこない。
こんなに発言するのが難しいことがあっただろうかと、
彼女は痛感する。
だが、唇を小さくかみしめ、
ようやく言葉を絞り出す。
「華みたいに、前に進める人に…なれるかな…って」
ようやく絞り出した冷の言葉に、スプーンを咥え発言を待っていた華は、大きく目を見開いた。
そして、次の瞬間、にかっと屈託のない笑顔を見せる。
「当然!」
迷いのない力強い返答に、
冷は思わず華の方を振り向く。
重い瞼が何かに引き上げられるように開き、
強張っていた口元が自然と緩んでいく。
閉ざしていたはずの心が、
華に触れるたび、少しずつ軋みを上げている。
冷は無意識のうちに、
自分自身の未来について深く考えていたのだ。
そして導き出した答えは、
今までの自分が果たしてできる事だろうか
という不安が正直大きかった。
だが、その懸念の重圧は、
華のたった一言で
今何処かに吹き飛んだ感覚が体中を駆け巡る。
その言葉は、冷の心に確かな光を灯した。
次の瞬間。
にかっと笑っていた華の表情が、
一瞬にして切り替わる。
その目つきは鋭く、
まるで獲物を捉える猛禽のようだ。
「…いる!」
華の短い言葉に、
冷の心臓が跳ね上がる。
「え、影喰?」
「うん!」
華は椅子から勢いよく立ちあがり、
残りのアイスを目にもとまらぬ手捌きで口に運び完食。
そのまま席を後にした。
丁度トイレから戻ってきたクリスチャントとぶつかりそうになるが、華は軽い身のこなしでそれを回避し、
謝罪を一言残して店を後にした。
「おや、なにかございましたか?」
クリスチャントが、
店を飛び出していく華の背中を見送りながら、冷に尋ねる。
「影喰が出た!」
冷は、クリスチャントに起きたことを簡潔に伝えると、
後から華を追いかけ外に駆け出していく。
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横断歩道を渡り、
敷地内に緑に囲まれた道を駆け抜けると、
奥の方から悲鳴に似た叫び声が聞こえてくる。
逆流してくる人込みをかき分け突き進む華が到着。
すると、金閣寺の周りを取り囲む水辺から、
黒い人影がぬるりと岸辺に這い上がるところだった。
その下半身と上半身右側は、
血管が浮き出るような黒紫の皮膚で覆われ、
顔の原型は殆どない。
胸には不気味に光る紫の水晶が埋め込まれていることから、
華はそれが影喰であることを確信する。
「影喰っ」
影喰の近くには大勢の人がいる。
恐怖に顔を引きつらせて逃げる姿勢を見せる者から、
遠くでカメラやスマートフォン片手に、
この異常な光景を写真に収めようとする者まで、
反応は様々。
華は何処かに隠れる場所がないかと周囲を見渡し、
道から外れたところにある木々が密集した場所に
駆け込んだ。
「よしっ」
華は富谷邸を出た時からずっと背負っていた
白い六角の箱に視線を向ける。
それは、クリスチャントが持ち運びしやすいように
リュック形状に改造してくれたものだ。
「確か、二回目からは……これ、だよね?」
右手に着けている白いブレスレットに華は視線を落とす。それは、変身のための起動キーだ。
「えっと…」
額に指を当てた華は、
クリスチャントから言われた起動の言葉を
必死に思い出そうと思考を巡らせる。
その表情は、戦闘前の緊張感と、
どこか抜けたような焦りが入り混じっていた。
「…そうだ!」
華は掲げた右腕を胸の前に構え、
言葉を唱えるように発する。
「”変異武装!!”」
次の瞬間、華の全身を眩い光膜が包み込む。
その光膜の中、華は大きく目を見開く。
周囲を無数に舞っていた白い粒子が、まるで意思を持った精霊のように彼女の元へと吸い寄せられてくる。
華の服の上に吸い付くように張りつき、
瞬く間に形を変え、しなやかな装甲へと変化していく。
同時に、温かい桃色の光が華のダークブラウンの髪へと絡みつき、その色をみるみるうちに淡いピンクへと染め上げる。
耳元で光の欠片がパチン、と弾け、
煌めくピアスとなって自然に装着された。
粒子の帯がまるで編み込まれるようにして、
艶やかな長い髪となって膝まで伸びる。
頭上には純白の二輪の花が咲き誇り、足元には純白のブーツがぴったりとフィット。
装甲ドレスは肌に吸い付くように優しく、
それでいてあらゆる攻撃を弾き返すかのような強固さで、
華の体を包み込む。
そして最後に、腰へと集まった光が、
ふわりと大きなリボンへと姿を変え――風にたなびく。
次の瞬間、バチンッ!!
耳をつんざくような音を立てて光膜が弾け飛んだ。
華の白い影が、まるで圧縮された弾丸のように、
凄まじい勢いで空へと跳ね上がる。
ドスン。
重い衝撃と共に、地面に舞い降りる影あり。
巻き上がった粉塵がゆっくりと、晴れていく。
そこに凛と立ちあがるのは、ピンクの髪を靡かせ、
白いドレスを纏う少女—華だ。
「貴様、何者だッ!」
華に気づいた影喰が、濁った、
しかし明確な怒りを込めた咆哮を放つ。
「私はお前をぶん殴りにきた女だッ!!」
華も負けじと応戦する。
幾度となく繰り返してきた戦いの始まりだ。
「けっ、たかが人間ごときが舐めた口を利くな!」
地面を蹴って飛び出す華は、
一気に影喰との距離を詰めにかかる。
影喰は息を吸い込み、
頬を限界まで膨らませると、
口から何かを吐き出した。
それは透明な膜、泡だ。
進行方向に現れた泡を、
華は通り過ぎざまに裏拳で弾き飛ばす。
その時、
瞬間的な発光後に爆発が巻き起こった。
連動して周りに漂っていた泡も連鎖反応で爆発し、
辺りは爆煙に包まれる。
「ハハッ、他愛もない!」
勝ち誇ったような口調の影喰には、
勝利の余韻に浸る余裕があった。
直後、爆煙の中から飛び出す白い閃光が
視界に飛び込んでくる。
「これがどうしたッ、怪力拳!!」
間合いに飛び込んだ華が、
腰に構えた拳を体の回転に乗せ放つ。
遅れてくる拳圧が後方の地面を掘り返すように抉り、
木々をなぎ倒した。
これまでの影喰ならば、
この一撃で粉砕されてきたはずだ。
だが。
「え…?!」
華は思わず目を疑う。
自身の拳が、影喰の皮膚に滑るように
弾かれていたのだ。
間髪入れず、沈んでいた皮膚が急速に戻り、
放った怪力拳の威力そのままに跳ね返りを受けた華は、
大きく後方に吹き飛ばされ金閣寺の屋根に直撃する。
「ヒィー、危なかったぜ。だが、そんな拳じゃ傷なんてつけられないんだぜ!」
影喰は不気味に皮膚を波打たせ、嘲笑を浮かべた。
その光景は、周囲の野次馬たちの余裕を根こそぎ奪い去る。
スマートフォンを構えていた手は震え、好奇心は瞬く間に剥き出しの焦燥へと変貌していった。
それは、木々の陰に身を潜めていた冷にとっても同じだった。隣に立つクリスチャンの、鋼のように硬く絞られた表情が事態の深刻さを物語っている。
「華の攻撃が……効いてない?!」
信じがたい光景だった。
これまで影喰を一撃のもとに粉砕してきた華の拳が、
まるでゴムまりに触れたかのように、
無力に弾き返されたのだ。
「こんなの……」
冷は奥歯を噛みしめる。
恐怖と焦りが冷たい汗となって背筋を伝い、
喉の奥が引き攣れる。
ふと、彼女の瞳が、
金閣寺を臨む鏡湖池のほとりに釘付けになった。
そこには、腰を抜かしたまま震える
二人の子供の姿があった。
影喰との距離は、わずか三十メートル。
「なんであんなところに……!」
戦慄が冷の全身を駆け巡る。
子供たちの存在に気づいた影喰が、
その巨体を揺らし、捕食者の足取りで近づいていく。
周囲からは悲鳴が上がり、
誰か助けてくれという絶望的な叫びが木霊した。
その時、一人の警官が茂みから飛び出した。
震える手で影喰の背後から取り押さえようとするが、
それはあまりに無謀な勇気だった。
影喰の巨大な手が、
警官の頭部を無造作に掴み上げる。
――ぐしゃり。
熟した果実が潰れるような嫌な音が響き、
鮮血が周囲を紅く染め上げた。
首から下が力なく地面に崩れ落ちる。
その凄惨な光景に周囲の悲鳴はより一層、
高く引き裂かれたものへと変わった。
(どうしよう、このままじゃ……)
冷は自分の震える肩を抱きしめた。
足は前に出ようともがいているのに、
地面に根を張ったように動かない。
(あの子供たちが……殺される……)
視界が涙で滲む。
それは、これまで他人との衝突を避け、
傷つくことから逃げ続けてきた自分自身の「弱さ」への絶望であり、ツケでもあった。
(もっと……ちゃんと向き合えばよかった。自分のことも、他人のことも……!)
流れる涙は、取り返しのつかない後悔の証。
だが、その絶望の淵で、一つの声が脳裏に響いた。
――華みたいに、前に進める人に……なれるかな……って。
――当然!
華の、あの屈託のない、
しかし力強い断言。
「……くっ!」
思考より先に、冷の体が動いた。
「お、お嬢様!」
背後でクリスチャンが叫ぶが、冷はもう止まらない。
茂みを突き抜け、砂利を蹴り、
彼女は怯える子供たちの前に滑り込んだ。
迫りくる影喰との間に、その細い体を割り込ませる。
「あぁ、なんだオマエ?」
影喰の放つ死の臭いと、
押しつぶされるようなプレッシャー。
一般人でしかない冷にとって、
それは五感を麻痺させるほどの非現実的な恐怖だった。
(つ、次は……どうすれば……)
飛び出したはいいものの、
戦う術など持たない冷の思考が空転する。
「はっ! じゃあオマエから食ってやるよ!」
影喰が大きく裂けた口を開き、一歩を踏み出す。
冷は反射的に、拒絶するように両手を前へと突き出した。
その時だった。
キィィィィン、
という鼓膜を刺すような高音が鳴り響く。
突如、冷の掌から溢れ出した”光の塊”が
影喰の腹部を直撃。
凄まじい衝撃波が走り、
影喰の巨体はまるで紙屑のように遥か後方へと
吹き飛ばされる。
「え……?」
何が起きたのか、理解が追いつかない。
冷は自分の両手に視線を落とした。
「えぇ……?」
白く透き通るような掌の上で、
光の粒がバチバチと線香花火のようにはじけ、消えていく。
その熱は、確かに自分の内側から生み出されたものだった。
――ボンッ!
背後で乾いた破裂音が響き、
地面に転がった球体から濃密な灰色の煙が噴き出した。
瞬く間に辺りは深い煙幕に包まれる。
「お嬢様!」
霧の中から現れたのは、
クリスチャンだった。
「これはワタクシが常備している煙幕弾です。ご安心を」
彼はずっと転がしていた
手元のキャリーケースを鮮やかに開いて見せた。
その中には、鈍い光沢を放つ
六角の黒い箱が収められている。
「……こ、これって」
「このパワードスーツ、実は二つございまして。こちらが『お嬢様専用』となります」
「な、なんで私のが…」
「この子たちはワタクシが安全な場所へ避難させます。お嬢様は、速やかに登録をお願いいたします」
クリスチャンの言葉に、冷は息を呑んだ。
目の前にある六角の黒い箱。
それは、華が持つそれと寸分違わぬ形状をしていた。
登録が何を意味するのか、その結果がどうなるのか、
冷は既に目の当たりにしていたのだ。
「……この子たちを、お願い!」
迷いは一瞬。冷はキャリーケースから、
まるで吸い寄せられるように黒い箱を取り出した。
クリスチャンは、その一瞬の間に二人の子供を抱きかかえ、
キャリーケースを手に、
素早くその場を離れていく。
「い、いくよ!」
震えが止まらない指先で、冷は箱の中央に鎮座するボタンを、
覚悟と共にぐっと押し込んだ。
その瞬間、箱から放たれた漆黒の光が、
まるで生命を得たかのように脈動し、
周囲の空間を瞬く間に深淵の闇へと染め上げていく。
ただの光ではない。
冷の全身を優しく、しかし抗いがたい力で包み込み、
外界から隔絶する膜を形成した。
黒い膜の中で、冷は驚きに目を瞬かせた。
無数に舞い踊る黒い粒子が、
まるで意思を持った精霊のように、
彼女の元へと吸い寄せられる。
それは、冷の纏う服の上に吸い付くように張りつき、
肌に触れるたびに微かな熱を帯び、
瞬く間にその形を変えていく。
柔らかな布地は、しなやかな曲線を描く装甲へと変貌し、
冷の体を第二の皮膚のように覆い始めた。
同時に、これまで金髪を束ねていた紐が、
弾けるような音を立てて千切れた。
解放された髪は、煌めく金色の輝きを放ちながら、
まるで生き物のようにうねり、
その色を純粋な黄金へと染め上げていく。
耳元で光の欠片がパチンと弾け、
漆黒の輝きを放つピアスとなって、
吸い込まれるように装着。
粒子の帯は、まるで精緻な織物のように編み込まれ、
艶やかな長い髪となって膝まで伸びていく。
頭上には、黒い二輪の花が咲き誇るかのような
カチューシャが形作られ、
足元には、冷の足に吸い付くように漆黒のブーツがぴったりとフィットした。
装甲ドレスは、肌に吸い付くように優しく、
それでいてあらゆる攻撃を弾き返すかのような
強固さを秘めていた。
冷の体は、かつてないほどの力と、
未知の感覚に満たされていく。
そして最後に、
腰へと集まった黒い光が、
ふわりと大きなリボンへと姿を変え
――風もないはずの空間で、優雅にたなびいた。
次の瞬間、バチンッ!!
耳をつんざくような、
世界が弾け飛ぶかのような轟音と共に、
冷を包んでいた黒い光の膜が粉々に砕け散った。
「…え」
視界が晴れた瞬間、起き上がろうとする影喰の姿が目に飛び込んだ。
ふと自分の手を見る。
黒い手袋。ドレス姿。
「か、かわってる…」
「チィ!やってくれたナ!」
怒りをあらわにする影喰の腹部には、黒い焦げ跡が残っていた。
先ほど冷が無意識に放った光弾の痕だ。
(…もしかして)
影喰が地面を叩くように踏み込み、猛然と迫る。
冷は咄嗟に身をかがめ、跳躍した。
「た、たっか…!」
思っていた以上の跳躍に、思わず体がすくみかける。
だが、ぐっとこらえた。
「きっと、こう…」
左手で右前腕を支える。
右手の人差し指を立て、照準を定めた。
キィン!
甲高い発砲音。
指先から放たれた光が弾丸のように空を裂き、影喰の右肩を貫く。
続けざまに二、三発。腹部と右脚を撃ち抜いた。
「ぐっ、なんだこれは…!」
影喰がよろめき、片膝をつく。
その瞬間。
金閣寺の屋根が爆ぜる。
水面が裂けるように立ち上がり、白い閃光が落下してきた。
「じゃあもっと、勢いのあるパンチならいいんだな!」
屋根から跳躍した華が、腰だめに構えた拳を突き出す。
「怪力のッッ弾丸拳!!」
ゴンッ!!
重い衝撃が炸裂する。
拳は紫の石を砕き、影喰の体を粉砕した。
遅れて衝撃波が波紋上に拡散し、地面を抉り後方三十メートルにわたり地面が陥没。
木々が吹き飛び、砂煙が舞い上がった。
砕け散った石の中から、一人の男が転がり出る。
黄色いヘルメットをかぶった警備員姿の中年男性だった。
「す、すごい…」
着地した冷は、華の拳で変形した地形を見つめ、目を見開いた。
「ん?」
戦闘終え姿勢を戻す華が振り向く。
そして互いに目が合う。
「……」
「……」
無言の間。
先ほどまで気絶していた華は、
目の前の黒いドレス姿の少女が冷だとはまだ知らない。
だが。
「…もしかして、冷?」
目を細め、じっと見つめる。
やがて顔がぱっと明るくなった。
「やっぱり!え、ってかそれどうしたの?ほぼ同じじゃん?」
「…なんか二つあったみたいで。クリスチャントが持ってきてくれてたの」
「そうなんだー!しかもちょっと似てるよね?!お揃い?!」
「…う、うん!」
華は嬉しそうに冷の手を掴み、ぶんぶんと縦に振る。
そのとき。
「…ってか、ここはまずい!」
遠くからサイレンの音。
周囲の視線も一斉に集まりつつある。
「行くよ!」
華は冷の手を引き、高く跳躍する。
二人の白い影と黒い影が、金閣寺の上空へと消えていった。
****************************************************
「お二人とも、お疲れ様でございます」
金閣寺から少し離れた住宅街。
人通りの少ない、入り組んだ細道の奥で、
華と冷はクリスチャントと合流した。
遠くからサイレンがいくつか聞こえてくる。
恐らく警察が戦闘となった金閣寺の現場に急行する音だろう。
観光地の近くに長居はできない。
戦闘中ですら、怯えながらも
手持ちの機器で撮影を続ける者がいたのだ。
あの熱気と視線は、
まだ背中に残っている気がする。
「無事、お嬢様もスーツを起動なさいましたね」
「ホントびっくりしたよ…今も心臓ばくばく」
冷は胸に手を当てる。
鼓動はまだ早い。
戦闘の高揚が抜けきっていない。
その震える左手を、ふいに温かい感触が包んだ。
「……あ」
顔を上げると、
華がにかっとした笑顔で立っている。
強くもなく、けれど確かに支えるような握り方。
大丈夫、と言葉にせず伝えてくるその手の温もりに、
冷の肩からゆっくりと力が抜けた。
「何の説明もなく、申し訳ございませんでした」
「……いいの。それより」
冷は視線をクリスチャントに戻す。
わずかに迷いながらも、問いを口にした。
「“わたし専用”って言ってたけど……スーツは、最初から二つあったの?」
クリスチャントは穏やかに頷く。
「試作機は二つ。一つはお嬢様専用。もう一つは――扱うに相応しい方へ、と」
「……最初から、想定されてた?」
父の顔が脳裏に浮かぶ。
すべて見通していたかのような、あの静かな目。
「旦那様は多くを語られません。ですが……桐灰様にも協力して差し上げてほしい、と」
「私?!」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「修理・整備は全面的に支援する、とも仰せでした」
「うわぁ……」
華は頭を抱えた。
「あんなタンカ切った相手にそれ言われると……気まずいっていうか! なんか……複雑だなぁ?!」
言葉を探して空を仰ぐ。
その様子に、冷の口元が小さく緩む。
そして、静かに呟いた。
「じゃあ……これからは」
喉の奥が少しだけ重い。
「二人で、一緒に戦うってこと……?」
不安と、期待。
胸の奥で、相反する感情が絡まり合う。
これまでの自分は、あくまで“普通”だった。
他人とほとんど変わらない生活。
危険と無縁の生活。
武術の心得もない。
戦う覚悟を育ててきたわけでもない。
対人戦の知識すら、ない。
さっき芽生えたばかりの“戦う意思”だけが、
胸の奥で小さく灯っている。
――そんな自分に、務まるのだろうか。
喉の奥が、少しだけひりついた。
だが。
華は迷いなく頷いた。
ためらいも、疑いもない。
そして、ぎゅっと冷の手を握る。
温かく、強い。
その手は、
「大丈夫」と言葉より先に伝えてくる。
冷の胸にあった不安が、少しずつほどけていく。
「当たり前じゃん!」
軽い声なのに、妙に重みがあった。
その即答が、
渦巻いていた迷いを吹き飛ばす。
胸の奥の重石が、音もなく落ちた気がした。
心臓の鼓動は、ようやく穏やかになる。
二人を見守るクリスチャントは、どこか誇らしげに微笑む。
「――頼もしい限りでございます」
細い路地に、
静かな決意が満ちる。
****************************************************
その翌日のことだった。
京都から戻るなり布団にダイブし、
そのまま泥のように眠り込んだ冷は、なぜかいつもより早く目を覚ました。
まだ夜の名残を引きずる薄暗い部屋。
カーテンの隙間から、かすかな朝の光が差し込んでいる。
布団に潜ったまま、
何気なくSNSを開いた。
――次の瞬間。
「え……?」
目に飛び込んできたニュースの見出しに、
心臓がどくりと跳ねる。
もう一度読む。
指でスクロールする。
目を擦る。
それでも、内容は変わらない。
勢いよく布団を蹴飛ばし、廊下へ飛び出す。
「華!起きて華!」
階段手前のドアを叩く手は、
冷静を装っているつもりでも、わずかに震えていた。
ガチャリ。
現れたのは、髪ぼさぼさ、パジャマは半分はだけ、
完全に寝起きの華。
「なーにー……?早起きだねぇ……」
「こ、これ見て!」
スマートフォンを突き出す。
華は目をこすりながら、ぼんやりと画面を追う。
「なになに……“京都・金閣寺に現れた謎の怪物を二人の少女が退治。以前青崎市でも目撃情報あり。颯爽と現れ、颯爽と去る姿はまさに謎のヒーロー。そして世間はこう名付けた――アイアンガール、と”……あいあん、がーる?」
華は首を大きく傾ける。
「あいあんがーるって、だれ?」
「わたし達だよっ?!ほら、この画像!」
指差された写真。
そこには、
閃光の中で並び立つ二人の少女。
白と黒。
対照的なドレス。
そして、はっきりと写った輪郭。
「…えぇ?!わ、私達じゃん!!しかも顔くっきり……!」
「変身してるから元の姿は分からないみたいだけど……時間の問題かも」
その一言に、華の寝ぼけた目がようやく覚める。
スマートフォンの画面では、
再生回数の数字がみるみる増えていく。
怪物は本物だったのかという議論。
政府の秘密兵器ではないかという憶測。
現場に居合わせたと名乗る者たちの興奮した報告。
二人の戦いぶりを称賛する長文の投稿。
“黒い方が好き”“白い方が強そう”などと
無責任に盛り上がる声まで混ざっている。
更新するたびに数字が跳ね上がる。
三桁だった閲覧数は、もう五桁に届きそうだ。
「……すご」
冷は小さく呟く。
昨日まで、ただの学生だった。
だが一夜にして、彼女たちは“名前”を与えられた。
それは称号であり、
同時に――逃げ場のない目印でもある。
世界は、
もう彼女たちを見つけている。
「……どうする?」
冷の声は小さい。
期待と不安が、ないまぜになっている。
華は数秒だけ画面を見つめ、やがて、
にやりと笑った。
「どうするもなにも」
ぐっと拳を握る。
「やることは変わんないでしょ?」
その一言は驚くほど軽い。
だが、ぶれない。
カーテンの隙間から射し込む朝日が、
二人の肩を並べて照らしている。
昨日までは他人だった。
今は、背中を預けられる相手。
“アイアンガール”。
それがどんな意味を持つのかは、まだ分からない。
けれど確かなのは。
”ひとりではない”、ということ。
世界が見ているのなら。
――二人で、見返せばいい。
物語は、
ここからもっと騒がしくなる。




