2話:irongirl-アイアンガール-
鳥のさえずりが、遠くから聞こえてくる。
朝日は山の向こうからゆっくりと顔を出し、眠りから覚めた街を静かに照らしていた。
いつもと変わらない穏やかな朝
——の、はずだった。
その光景の中でただ一か所だけ、世界から切り取られたような場所がある。
富谷冷は、自宅の庭に立っていた。
視線の先。
昨夜の騒動によって、前側半分が崩れ落ちた屋敷。
重機で無理やり掘り返したかのように庭は深く抉れ、芝生はえぐり取られ、外壁には大きな亀裂が走っている。
白かったはずの壁は煤で黒く汚れ、ところどころ骨組みが剥き出しになっていた。
まるで――爆撃でも受けたみたいだった。
「……」
冷は、何も言わず。
ただ、その抉れた地面を見つめ続ける。
胸の奥が、ひりつく。脳裏に浮かぶのは黒紫の怪物、胸の水晶。
そしてそれを、
拳一発で吹き飛ばした――あの少女。
細い体。
同い年くらいの、どこにでもいそうな女の子。
なのに。
あの背中だけが、やけに大きく見えた。
彼女が去ったあと、すぐに警察と救急が駆けつけた。
見に来た近隣住民の誰かが通報したのだろう。
事情聴取、現場検証、規制線。
そして結論は――
『大規模なガス爆発事故』
そう処理された。
怪物も、影も、あの戦闘も。
まるで最初から存在しなかったかのように。
気を失った父は救急車で搬送され、付き添いでクリスチャントも同行した。
残されたのは、冷ひとり。
被害の及んでいない屋敷の反対側。母が使っていた部屋で、一晩を明かした。
そして今。
朝日を浴びながら冷は思う。
「……夢、じゃないよね」
小さく、呟いた。
けれど庭の抉れた傷跡が、それを「夢じゃない」と突きつけてくる。
その時。
「ただいま戻りました」
背後から、穏やかな声。
振り向くと、クリスチャントの姿があった。いつもの黒スーツではない。
白いシャツに黒いズボン、手にはセカンドバッグ。病院帰りなのだと、一目でわかるラフな装いだった。
「おかえり。お疲れ様」
「ただいま戻りました」
軽く会釈する仕草も、いつも通り。
それだけで、胸の奥の張り詰めていたものが少しだけ緩む。
「お嬢様、朝食は?」
「まだよ。コンビニに何か買いに行こうかなって思ってて」
「そうでしたか」
「……お父さん、どうだった?」
「全身に軽い打撲はありますが、それ以外に大きな怪我はございません。じき目を覚ますとのことです」
「……そっか」
小さく息が漏れた。
「良かった……」
膝の力が抜けるみたいに、肩がすとんと落ちる。
知らないうちに、ずっと力んでいたらしい。
「昨日は騒動でしたな」
クリスチャントは、静かに庭を見回す。
地面はまるで巨大な隕石でも落ちたかのように、半径数メートルに渡って深く抉れていた。
芝生は根こそぎ削ぎ取られ、土がむき出しになり、中心部には拳大どころではない――人ひとり埋まってしまいそうなクレーターが口を開けている。
そこから放射状に、亀裂が蜘蛛の巣のように走っていた。
外壁も無事ではない。
分厚いはずの石壁が内側から殴り抜かれたみたいに崩れ、
レンガは砕け、窓ガラスはすべて割れ落ち、柱には鈍器で叩きつけたような歪みが残っている。
爆発にしては焦げ跡がない。
重機にしては一点に集中しすぎている。
――どう見ても、“人間の力”で出来た破壊ではなかった。
「また一から、手入れをし直さねばなりません」
「……凄かったよね」
ぽつり、と冷は呟く。
「えぇ」
静かな肯定。
「凄かったといえば――あの女の子」
一拍置いて。
「一撃で怪物を倒し、旦那様をお救いになられましたな」
「……うん」
視線が、自然と庭の中央に向く。
あの場所。
影喰が立っていた場所。
その中心に立っていたのが、昨日のあの少女だった。
片手で怪物の拳を止め、そして――殴った。
たった、それだけで。
細い体に黒いマフラー、そして迷いのない背中。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
怖かったはずなのに。
なのに、思い出すのは恐怖じゃなくて――
「……なんで、助けてくれたんだろ」
ぽつりと、独り言が落ちた。
ふと、昨日の光景が蘇る。
父に叱られ、玄関を飛び出したあのとき。
目の前に当たり前みたいな顔で自分が落としたスマートフォンを、ひらひらと振って立っていた、あの子。
—また来るよ!—
約束でもない言葉を残して。
そう言って振り返りもせず、駆けていった後ろ姿。
黒いマフラーだけが、やけに根強く印象に残っている。
「……」
冷は、無意識にポケットへ手を伸ばす。
自分のスマートフォン。冷たいガラスの感触が、指先に伝わった。
あのとき。
(……連絡先、聞いとけばよかったな)
胸の奥に残った小さな引っかかり。
今さらになって、それが少しだけ――痛かった。
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一方その頃。
青崎駅前。
朝の通勤ラッシュに包まれたその一角に、ぽつんと一軒だけコンビニが建っている。
現場帰りらしい作業着の男たち。
眠そうなサラリーマンにイヤホンをした学生。
自動ドアはひっきりなしに開閉を繰り返し、駐車場では車が絶えず出入りしていた。
そんな喧騒の中、コンビニ脇の簡易テラス席に、ひとりだけ場違いなほどのんびりした少女がいる。
桐灰華だった。
テーブルの上には、湯気を立てるカップ麺。
彼女は両手をすりすりと擦り合わせながら、ふたをじっと見つめている。
「いや〜……しおキン、やっと買えたぁ……」
にへら、と顔がゆるむ。
「ずっと売り切れだったんだよね。まさか北陸のコンビニで出会えるとは……運命じゃんこれ」
しおキン。
動画サイトで有名な投稿者が監修した、限定コラボカップ麺。
発売直後から品薄続きで、これまでどこの店に行っても棚には並んでおらず完売の看板が置かれていた。
それが、今――満を持して
目の前にある!
華は、ふたに書かれた「5分」の文字を何度も確認する。
まだ三分。
「うぅ〜……まだかぁ……!」
寒さで白くなった息を吐きながら、椅子の上で小さく足をばたつかせる。
ふたの「あと1分」の文字を、穴が開くほど睨みつける。
「こういう寒い朝にはさぁ……あっつあつのカップ麺だぁーね……」
幸せそうに目を細める。
影喰を殴り飛ばした張本人とは、とても思えない。ただの、どこにでもいる腹ぺこ女子高生の顔だった。
――その時。
ヒュン。
空気を裂く、嫌な音。
次の瞬間。
ぷすっ。
「……え?」
軽い感触。
しおキンのふたの中央に、ぽつりと黒い穴が開いていた。
ゆっくり、視線を落とす。
カップの中。
湯気の立つスープの上に白と黒の、見覚えのありすぎる塊。
そして――鼻を刺す異臭。
「…………」
三秒。思考停止。
そして理解。
「……鳥の、フン……?」
ぎこちなく、空を見上げる。
カァー。
見下ろすように旋回する一羽のカラス。完全に勝者の鳴き声だった。
ぷちんと、何かが切れた。
「ちょおおおおおお!!!」
ガタンッと椅子を蹴り飛ばし、立ち上がる。
「私のしおキン!! 五分待ったのに!! 返せ!! どいつのフンだ!! おりてこいコンチキショーーー!!!」
朝の駅前に、絶叫が響き渡った。
周りの通行人が、一斉に振り向く。
通勤途中のサラリーマンが足を止め、学生が肩越しに振り返り、現場仕事風の男が眉をひそめる。
コンビニ前のテラスで、黒いマフラーを翻しながら空に向かって吠える少女がいた。
しかし華は、そんな視線など気にしない。
本気で、悔しがっていた。
五分待った。
寒さにも耐えた。
楽しみにしていた、しおキン。
それが――鳥のフン一発で、終わったのだ。
命より大事なカップ麺だった。
「……」
通行人たちの間に、微妙な沈黙が落ちる。
その中で。
「ねぇママ」
小さな声。
登校中らしいランドセルを背負った小学生の男の子が、華を指さした。
「あれ、なに?」
母親は一瞬だけ視線を向け――
そして、すぐに子どもの肩を抱き寄せた。
「見ちゃいけません」
低く、きっぱりと。
「え? なんで?」
「大人には色々あるの。ほら、前向いて」
半ば引きずるように、その場を離れていく。
小学生は何度も振り返る。
けれど、華はそれに気づかない。
まだ、空を睨んでいた。カラスを本気で威嚇している。
まるで世界と戦っているみたいに。
その姿は――
昨日、怪物を殴り飛ばした少女と、同一人物とは思えなかった。
同時に。
コンビニの自動ドアが、ウィン、と開く。
外へ出てきた二人の人影。白シャツ姿の老紳士、クリスチャント。
そして隣。
白いもこもこのコートを羽織った少女、富谷冷。
朝食の袋を手に、何気なく一歩踏み出した、その瞬間。
「――……」
耳に引っかかった。
やけに大きくて、やけに騒がしくて、
やけに感情むき出しの声。
視線が、吸い寄せられる。
黒いマフラーを翻しながら、空に向かって本気で叫んでいる少女。
「ちょおおおおお!!! しおキン返せぇぇぇ!!」
冷の足が、止まった。
胸が、どくん、と鳴る。
見間違えるはずがない。
昨日、怪物を殴り飛ばして。父を救って。何も言わず、走り去っていった――
あの子。
小さく、息が漏れる。
「……あ」
ほとんど、空気みたいな声。
その一音に。
ぴたり、と華の動きが止まる。
「……ん?」
ゆっくり、振り向く。
目が合う。
数秒。
世界から、音が消えた。
車の走行音も。人の話し声も。コンビニの自動ドアも全部、遠い。
ただ、朝日だけが二人の間を照らしている。
昨日は、戦場だった。
今日は、ただの朝なのに。
なのに。
心臓だけが、うるさい。
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「いやーなんかごめんね? お世話になっちゃって」
湯気の立つカップ麺を前に、華はへらっと笑った。
コンビニでの偶然の再会から流れるように。
富谷冷とクリスチャントに連れられ、気づけば富谷邸のキッチンに通されている。
そして今。
テーブルの中央には、
買ってもらったばかりのしおキン。
ふたの端から、ふわふわと白い湯気が立ちのぼっていた。
華の視線は、完全にそれに釘付けである。
「良いのですよ。お嬢様とワタクシ、そして旦那様の命の恩人ですので」
穏やかに微笑みながら、クリスチャントが紅茶を淹れる。
所作がいちいち優雅だ。
ポットを置く音すら上品だった。
「そ、そうー? たいしたことしてないんだけどねっ」
華は頭をかきながら、にかっと笑う。
その仕草、どう見てもただの子供。
昨日、怪物を殴り飛ばした張本人には、到底見えない。
ふと、視線を上げる。
キッチンが、広い。
いや、広すぎる。
床も壁も、白い大理石。
照明は間接光で、やわらかく反射している。中央にはホテルみたいな巨大アイランドキッチン。
ガラス張りの棚には整然と並ぶ高級そうな食器。
生活感が、ほぼゼロ。
モデルハウスどころか、ドラマの撮影セットみたいだった。
(なにここ……ショールーム……?)
落ち着かない。
椅子に座っているだけで場違い感がすごい。
そして通路の奥。視界の端に入る、半壊したリビング。
崩れた壁、ひび割れた柱、吹き飛んだ窓枠。
昨日の戦闘の痕。
豪華な内装との対比が、やけに生々しい。
(……あれ、たぶん私のせいだよね)
すっ、と血の気が引く。
(きちゃったはいいけど……)
ちら。
(修理費とか請求されたらどうしよ……)
ちら。
(ていうか絶対高いよねこれ。ゼロ何個つくの? )
汗がにじむ。
そんな華の内心など知らずカップ麺のふたが、ぷくり、と膨らんだ。
「……!」
華の目が、きらっと光る。
「……そろそろ、かな」
三分。
待ちに待った時間。
さっきまで頭を占めていた修理費だの豪邸だの、そんな不安は――きれいさっぱり消えていた。
華はそっと、ふたをめくる。
ふわっ。
白い湯気が立ちのぼる。同時に、鼻先をくすぐる優しい塩の香り。
じわっと、胃が刺激される。
ぐぅ、と正直すぎる腹の虫が鳴いた。
「いただきます」
割りばしをぱきん、と割る。
麺をすくい上げる。湯気をまとった細麺が、きらきら光っていた。
ずずっ。
勢いよく、すする。
次の瞬間。
「……っ」
華の目が、かっと見開かれる。
口いっぱいに広がる、あっさりしてるのに深い塩味。
鶏の旨みがじんわり染みてくる。
体の芯に、熱が落ちていく感覚。
「……うんっま」
心の底から、漏れた声だった。
そこからは早い。
ずるずる、がつがつ、はふはふ。
昨日、怪物を殴り飛ばした時と同じ勢いで麺を制圧していく。
その様子を向かい側から、じっと見ている視線があった。
冷だ。
テーブルの上。
自分の前にも、同じしおキン。
同じタイミングでお湯を注いだ、もう食べ頃のカップ。
「……」
けれど、手が伸びない。
軽食やインスタント食品。
そういうものを、ほとんど口にしたことがなかった。
いつも、母の手料理か、クリスチャントの整った食事。
きちんとした「食卓」しか、知らない。
だからこの、コンビニのカップ麺が未知の食べ物みたいに見えた。
ちら、と台所を見る。
クリスチャントが目を合わせ、優しく微笑んだ。
小さく、こくりと頷く。
「……」
冷は、そっとふたを開けた。
湯気が、顔に当たる。思ったより、いい匂いだった。
箸を取る。
恐る恐る、麺を持ち上げた。
じっと観察してから。
ぱく。
口に入れる。
もぐ、もぐ。
ゆっくり。
確かめるみたいに、噛む。
その瞬間。
――じんわり。
優しい塩味が、舌に広がった。温かさが、喉を通って、胸に落ちる。
冷えた体が、内側から溶ける。
気づけば。
こわばっていた肩の力が、抜けていた。
「……おいしい」
小さな、でも確かな声に華がぱっと顔を上げる。
「でっしょ?! これ人気でさ、どこ行っても完売だったんだよ!」
「へー……そうなんだ」
自然と、口元が少しゆるむ。
自分でも、驚くくらい。
冷はカップを両手で包み込む。
もう一口、今度は、スープをそっと、すする。
「……おい、しい」
今度は、さっきより少しだけ。
柔らかい声だった。
それから二人は夢中で食事に没頭し、
気が付けば両方とも食べ終えて、空っぽのカップだけがテーブルに残っていた。
「はー……うまかった」
「美味しかったね」
「ねっ」
「うん」
互いの感想を言い合う華と冷。
その様子を、グラスを拭きながらクリスチャントが微笑ましそうに眺めている。
「……あの」
最初に切り出したのは、冷だった。
「昨日は……ありがとう」
「 あー、いいって! みんな無事でよかったよかった」
「……名前、聞いてもいい?」
恐る恐る、といった声音。
「桐灰華。そっちは?」
「……富谷冷、16」
「え?! 同い年!?」
「……やっぱり。そんな気がして……」
ぎこちなかった冷の口調が、少しずつ柔らかくなっていく。
その様子を見ていたクリスチャントは、わずかに目を見開き――やがて穏やかに微笑んだ。
「昨日の……怪物、さ」
探るように、冷が続ける。
「お父さんを飲み込んだやつ。あれって……なんなの?」
「……知りたい?」
少し困ったように華は笑う。
「……差し支えなければ」
「いいよ」
一拍おいて。
「昨日二人が見たのは、影喰。人の絶望に反応する存在。憎しみを増幅させて、絶望の濃い人間に寄生して……姿を変えて暴れるんだよね」
「聞いたことない……」
「表に出てないだけで、実はあちこちに出てる。それを私は倒して回ってる」
華は拳を握り、その手首をぎゅっと掴んだ。
「この、授かった力で」
「力、とは……?」
クリスチャントが静かに尋ねる。
「人並み外れた怪力。昨日見た通り、とんでもないパワーが出るんだよね」
「なるほど……それであの破壊力、と」
クリスチャントは納得したように頷き、半壊したリビングへちらりと視線を向けた。
「影喰は拳銃とかナイフとか、普通の武器じゃ倒せない。私の拳じゃないと…たぶん通用しないっぽい」
「唯一無二、ですか。それはまた……重い使命を背負っておられる」
「仕方ないよ。こんな力もらっちゃったから。なら、やるしかないじゃん。考えるよりまず行動ってね」
「怖く、ないの?」
冷がぽつりと聞く。
「昨日みたいなのと戦うんだよね? いつか死ぬかもしれないんだよ?」
「そうだよ」
「……普通、怖いはずなのに。なんで……」
理解できなかった。
自分なら、きっと逃げる。
でも華は違う。
真正面から立ち向かい、戦う。
物語の中の存在みたいな少女が、今、目の前にいる。
「助けたいからだよ」
華の声は、まっすぐだった。
「私、昔ずっと笑えなかったんだ。でも、誰かに救われて笑えた。だから今度は私の番。泣いてるやつがいたら、ぶん殴ってでも助ける。それだけ」
にかっと笑う。
「変わり者って言われるけどね」
「……いいと思いますよ」
クリスチャントは優しく微笑んだ。
「子供の頃に描いたヒーロー像。それを大人になっても貫ける人は、ほとんどいません。ですが貴女は体現している。誇るべきことです」
「ヒーローかぁ……そんな大それたもんじゃないけどね」
照れながら、カップの縁をなぞる華。
その向かいで、冷はぽかんとしていた。
(わたしと、全然違う……)
同じ16歳なのに。
育った環境も、強さも、覚悟も。
華奢で小柄な背中が、どうしてこんなに大きく見えるのだろう。
他人に無関心でいることで自分を守ってきた冷の心が、今は華に、
強く惹かれていた。
近いのに、遠い。
気付けば目で追ってしまう。
そして――華が、輝いて見えた。
「……昨日その影喰を倒したなら、もう次の場所へ行かれるのですか?」
何気ないクリスチャントの問い。
冷ははっとする。
「そうなるかな。反応が出た場所に私は行くから」
「残念でございますね。せっかく仲良くなれましたのに」
「地球は丸いんだから、また会えるって!」
(楽観的すぎない!?)
冷が内心ツッコんだ、その時だった。
カップを持ち上げた華の動きが、ぴたりと止まる。
「…いる」
「え……?」
「影喰が、どこかにいる」
その瞬間。
キッチンに警報音が鳴り響いた。
二人がポケットからスマートフォンを確認する。
避難アラームだ。
「駅前通りにて市民が暴徒化。車両十台を投擲――警察が対処中。付近に近づかないでください……えっ。なにこれ?」
聞き慣れた、けたたましい警報音。
本来なら――地震。津波。火災。
そういった自然災害のときにしか鳴らないはずの音だった。
なのに。
画面に表示されているのは、見たこともない文章。
【市民が暴徒化。車両を投擲】
災害でも事故でもない。
意味が、分からない。
「……なに、これ……」
冷の声が、かすれる。
アプリの想定外の文字列が、ただ不気味に点滅している。
現実なのに、現実じゃないみたいだった。
その横で。
華は、静かに立ち上がる。
そして短く言った。
「……影喰だ」
****************************************************
青崎市駅前道路。
かつてこの街で、いちばん人が集まっていたメインストリートだ。
軒を連ねる商店から威勢のいい声が飛び交い、
買い物袋を提げた人々が行き交う――そんな光景が、毎日当たり前のようにあった。
だが。
時代の流れと人口減少。
シャッターを下ろす店が一軒、また一軒と増え、気づけば営業している店舗は数えるほどになった。
空き店舗を潰して建てられた無機質なビルだけが、
「栄えているふり」をして並んでいる。
けれど。
通りを歩く人影は、少ない。
静まり返った、寂れた商店街。
――その場所が今、騒然としていた。
赤色灯が回り規制線が張られる。
「下がってください!」「立ち止まらないで!」
警官の怒号が飛び交う。
封鎖された通りの中央に十五名ほどの警官が、円陣を組むように一人の“男”を取り囲んでいた。
……いや。
あれを男と呼んでいいのか。
上半身の半分が、人間ではない。
皮膚は青紫に変色し、
筋肉は異様に膨れ上がり、
胸には――紫色の水晶が、心臓の代わりのように埋め込まれている。
異形。
その一言が、いちばん正しかった。
封鎖線の外では、野次馬がスマホを掲げ、
さらにテレビ局の中継車まで到着し始めている。
事態は、確実に大事になりつつあった。
「……やはり、昨日わたくし達の屋敷に現れた個体と同種でしょうな」
少し離れた位置で、
クリスチャントがスマートフォンを差し出す。
画面には動画配信サイトのライブ映像。
震える縦画面。
荒い息遣い。
「やばいって!」「警察いるって!」
誰かの叫び声。
その中心で。
男が、背中から生えた黒い鞭のような触手で車を掴み――
まるで空き缶みたいに、持ち上げた。
関連動画の欄には、同じ現場のサムネイルがずらりと並ぶ。
もう、全国に拡散されている。
「当然、ぶん殴って倒す!」
華が一歩踏み出す。
がしっ。
「……待って」
冷が肩を掴んだ。
「周り人だらけ。テレビも配信もある。……そのまま出たら顔が、全部映る」
「……あ」
ぴたり、と止まる華。
「素顔まるまる全国放送じゃん……やば」
「(あれ……この人、意外とノープラン……?)」
冷はぱちぱちと瞬きをする。
その横で、顎に手を当てていたクリスチャントが小さく「あ」と呟いた。
「少々お待ちを」
小走りで車へ向かう。
そして戻ってきた彼の手には、六角形の金属ケースがあった。
「これを、お使いください」
「……なにそれ?」
「旦那様の研究部門で開発中のパワードスーツでございます。試作段階ですが正体を隠すには十分かと」
「ぱ、パワードスーツ!? すっご!」
「お父さん、こんなの作ってたんだ……」
「人命救助用の補助外骨格と聞いています。力の増幅と防護性能があります」
差し出される白い六角の箱。
「さぁ」
「……よく分かんないけど、ありがとう! 使わせてもらう!」
華は迷いなく受け取った。
「使い方は?!」
華の問いに、クリスチャントは冷静に答える。
「中央のボタンを押してください。使用者登録が開始されます」
「よし!」
華は迷いなく、その中央のボタンをぐっ、と押し込んだ。
――次の瞬間。
箱から放たれた白い光が、まるで生命を得たかのように爆ぜ、
周囲の空間を瞬く間に純白に染め上げた。
「っ!」
そのあまりの輝きに、冷とクリスチャントは思わず目を閉じ、身を引く。
光は、華の全身を優しく、しかし確かな力で包み込んだ。
光膜の中、華は驚きに目を見開いた。
周囲を無数に舞っていた白い粒子が、まるで意思を持った精霊のように彼女の元へと集まってくる。
それは華の服の上に吸い付くように張りつき、瞬く間に形を変え、しなやかな装甲へと変化していく。
同時に、温かい桃色の光が華のダークブラウンの髪へと絡みつき、その色をみるみるうちに淡いピンクへと染め上げる。
耳元で光の欠片がパチン、と弾け、煌めくピアスとなって自然に装着された。
粒子の帯がまるで編み込まれるようにして、艶やかな長い髪となって膝まで伸びる。
頭上には純白の二輪の花が咲き誇り、足元には純白のブーツがぴったりとフィットした。
装甲ドレスは、肌に吸い付くように優しく、
それでいてあらゆる攻撃を弾き返すかのような強固さで、華の体を包み込む。
そして最後に、腰へと集まった光が、
ふわりと大きなリボンへと姿を変え――夜風にたなびいた。
次の瞬間、バチンッ!!
耳をつんざくような音を立てて光膜が弾け飛んだ。
同時に、華の白い影が、まるで圧縮された弾丸のように、
凄まじい勢いで空へと跳ね上がる。
「……え?」
空中で一回転しながら、華は偶然、隣接するビルの窓ガラスに自分の姿が映るのを見た。
そこにいたのは――白いフリルが幾重にも重なったドレスに、純白のブーツ。
腰まで届くピンク色の長髪。頭には可憐な二輪の花。
それは、紛れもなく自分自身でありながら、今まで見たことのない、
あまりにも非現実的な姿だった。
「へ、変身してる!?」
驚愕と共に視線が地面へと落ちる。
遥か下に見えるアスファルトに、思わず声が裏返った。
「うわ、ちょ――高っ!? すっごいジャンプ力!?」
重力に従い、華は猛スピードで落下する。
ドォン!!
着地と同時に、アスファルトは放射状に深く砕け散り、巨大な土煙が天高く舞い上がった。
その煙の中から、ピンクの髪をなびかせ、
白いドレスを翻す白き戦士――華が姿を現す。
「いてて……一体、なにがどうなってんの、これ……」
周囲は、先ほどの影喰の出現時とは比べ物にならないほど騒然としていた。
警官も、野次馬も、誰もが呆然と、そして興奮した眼差しで華を見つめている。しかし、華の心は、その混乱の中でも一つの確かな思いに突き動かされていた。
「けど、やることは変わんない!」
華はぐっと拳を握りしめる。
変身前と寸分違わぬ、いつもの構え。
白いドレスの裾が、彼女の揺るぎない決意を乗せて、風に力強く揺れる。
その時、影喰が地を揺るがすような咆哮を上げた。
「オ、オマエはなんだ!」
「私はお前をぶん殴りにきた女だッ!!」
「威勢がいいな…これを見ても、そんな事が言えるか!」
「なにを!」
影喰の後ろから出てきた黒い触手に、
誰かが締め付けられている。
――子どもだ。
赤いランドセルに黄色のベレー帽と、
姿から見るに小学校低学年くらいの小さな女の子だ。
「邪魔をするなら大衆が見ている目の前で、このガキの体を引き裂いて肉の塊にしてやるよ!」
(…周りの警官が包囲だけしてたのは、これがあったんだ…)
「わかったら、おとなしく死ね!!」
影喰の両腕が、嫌な軋みを立てて本体から分離した。
骨が砕けるような音が響く。
断面から灼熱の炎が噴き出した。
ジェット噴射のようにアスファルトを削りながら、二本の腕がミサイルのように華へと一直線に迫る。
空気が熱で歪み、焼けるような熱風が華の頬を容赦なく叩きつけた。
だが、華は怯まない。
「っ!」
ドンッ!!華が地面を強く踏み込むと、アスファルトが蜘蛛の巣状に砕け散る。
放たれた拳は、目に見えない衝撃波を爆発させ、周囲の空気を円状に大きく歪ませた。
影喰の一本目の腕は、まるで紙細工のようにあっけなくひしゃげ、粉々に吹き飛ぶ。
その破片が、周囲に停車していたパトカーの屋根にガラガラと降り注ぎ、けたたましい音を立てた。
「なに?!素手で硬化皮膚を?!」
「そんなんで私が、止まるとでもおもったかッ!!」
影喰から驚きと困惑の声が上がる。
華は素早く体をひねり――流れるような回し蹴りを放つ。白いスカートが空に鮮やかな弧を描き、二本目の腕を横殴りに叩き飛ばした。
腕は十数メートル先の街灯に激突し、鉄柱が悲鳴を上げてへし折れ、眩い火花が散る。
(羽みたいに……軽い!)
自分の体じゃないみたいだ。
全身に漲る、この圧倒的な力。
まるで無限に湧き出る泉のように、
力が、溢れて止まらない。
影喰が大きく口を裂いた。
その喉の奥が、不気味な光を放ちながら脈動し――次の瞬間、漆黒の針が豪雨のように吐き出される。
それはアスファルトに突き刺さり、着弾するたびに爆ぜ、黒い煙を上げた。
その針の射線上にいたのは――恐怖に腰を抜かし、身動き一つ取れない警官と野次馬たち。
避けられない。
この距離では、間に合わない。
「ならッ!!」
華は迷うことなく両手を地面へ突き刺す。彼女の指が、まるでバターのようにアスファルトにめり込んだ。
「怪力の――ちゃぶ台バリア!!」
メリメリメリッ!!華の足元から、
地面が丸ごと持ち上がる。
直径数メートルにも及ぶ巨大な地盤が、まるで強固な盾のように、
野次馬や警官たちを守るようにせり上がった。
ガガガガガガガッ!!
黒い針が盾に直撃し、凄まじい火花と土の破片が乱舞する。
盾は無数の亀裂を走らせながら粉砕。巨大な土煙が爆発のように周囲を覆い尽くした。
――その中。
白い影が、弾丸のように土煙を突き破って飛び出す。
影喰の懐へ、一瞬で潜り込む。
拳を、深く、深く引き絞る。
――終わらせる。
周囲の空気が、
まるで一点に圧縮されるかのように密度を増す。
「怪力拳ッ!!」
轟音が一帯を支配した。
同時に拳圧が爆発。影喰の後方、数十メートルにわたってアスファルトが抉れ、土砂が舞い上がった。
衝撃が波紋のように広がり、近隣のビルというビルの窓ガラスをビリビリと震わせる。
路上では警官の帽子が宙を舞った。
野次馬たちは悲鳴も上げられず、ただ後ろへよろめく。
放たれた拳は、寸分の狂いもなく影喰の腹を捉え、そして貫く。
ぽっかりと空いた風穴から眩い光が漏れ出すと、たちまち亀裂が全身へと走った。
巨大な黒い体は、まるで乾いた砂の城が崩れるように、さらさらと塵に変わっていく。
やがて、影喰がいた場所には紫色の宝石だけが残された。
次の瞬間には甲高い音を立てて砕け散る。
カラン、と乾いた音がアスファルトに響く。
宝石の中から転がり出たのは――くたびれたスーツ姿のサラリーマンだった。
全てが、止まった。
喧騒も、風の音も、人々の呼吸さえも。
誰もが声を発することを忘れていた。
そして、張り詰めていた静寂が、
堰を切ったように崩れ去った。
ざわめきが波のように広がり、
やがてそれは興奮と困惑の渦となる。
「……おい、今、何が起こったんだ?」
「まさか……ヒーローなのか?」
誰かが呟いた「ヒーロー」という言葉が、
瞬く間に周囲に伝播していく。
その時、華は気づいた。
自分に向けられる、熱を帯びた視線の群れに。
警官たちの驚愕の眼差し、野次馬たちの好奇に満ちた瞳。
そして何よりも、報道カメラの無機質なレンズが、まるで獲物を捉えたかのように一斉に彼女を狙っていた。
「まずい……!」
直感的に危険を察知した華は反射的に顔を覆い、全身のバネを最大限に活かして跳躍した。
その一瞬の踏み込みは、アスファルトをクレーターのように陥没させ、放射状のひび割れを刻み込む。
爆発的な加速と共に彼女の白いシルエットは、まるで夜空を滑る流星のように、高層ビルの壁面を蹴り上げ、あっという間に昼間の彼方へと溶けていった。
彼女がいた場所には、
ただ、その圧倒的な力が刻み込んだ破壊の痕跡だけが、雄弁に物語っていた。
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「だあーーーーーー!超焦った!!!」
激しい戦闘のあと、さらに厄介な大衆の視線を振り切って。
ようやく一息つけた華は、大通りから一本入った閑静な公園のベンチにへたり込んでいた。
風が火照った頬を撫で、安堵の息が漏れる。
傍らには、後から車で駆け付けた執事のクリスチャントがいる。
そしてもう一人、冷静沈着な冷が並んでいた。
「無事、振り切れたようですな。ご苦労様でした」
クリスチャントは周囲を注意深く警戒しながら、いつもの丁寧な口調で華に労いの言葉をかける。
その視線は、未だ華の全身を包む白いドレスに向けられていた。
「パワードスーツって聞いてたから、もっとこう、メカメカしくてゴツゴツしたのを想像してたんだけどな…まさか、こんなフリフリのドレスだなんて」
「ワタクシもまさか、まるで舞踏会にでも出席するかのようなお姿になるスーツだとは思いませんでした。全くの予想外です」
クリスチャントが困惑気味に呟く。
その隣で、冷が華の姿をじっと見つめ、ぽつりと漏らした。
「かわいい…」
「…え?」
華は思わず素っ頓狂な声を上げた。
表情一つ変えず冷は、真顔で華のフリルを検分するように見つめている。
「それにしても、動きにくくはない? 見た目とは裏腹に、かなり複雑な構造に見えるけど」
華は言われるがまま、ぎゅっと拳を握り開く。ドレスの袖がふわりと揺れる。
その感触を確かめるように、何度か繰り返した。
「…それが不思議なんだよ。生身の時より体が軽いんだ。まるで羽が生えたみたいっていうか。それに、体感だけど、さっき影喰を殴ったときも、普段よりずっと力が出てる気がするんだよね」
華の言葉に、クリスチャントが頷く。
「旦那様は、これを『最新鋭の試作スーツ』とおっしゃっていました。いざという時のため、常に車の中に忍ばせておられました」
「ふーん。それがまさか、こんなところで役に立つとはねー」
「……」
会話する二人の隣で冷は顎に手を当て、何かを考え込むように視線を宙に彷徨わせる。
やがて、その完璧な表情に微かな困惑の色が浮かんだ。
「…ちょっと待って。ということは、これ…お父さんが着ける予定だった、ということかしら?」
冷の一言が、それまでの和やかな空気を一瞬にして凍り付かせた。
華とクリスチャント、そして冷自身も、脳裏に一斉に冷の父の姿を想像する。
あの、見るからに強面で、筋肉質な体つきの厳格な男性が、
白いフリルのドレスを身につけ、頭には可憐な二輪の花を咲かせている姿――。
そのあまりにも強烈で、想像を絶するギャップに、華は思わず口元を覆い、肩を震わせた。
吹き出しそうになる笑いを必死で堪える。
クリスチャントはプロの執事としての矜持か、
顔を後ろに向け、口元を固く抑えながらも、その肩は小刻みに震えていた。
対照的に、隣に立つ冷の顔には、
心底から湧き上がるような嫌悪感が露わになっていた。
「それはそうと、桐灰様。解除の仕方はお分かりになりますか?」
クリスチャントは咳払い一つで素に戻り、
冷静な声で華に尋ねた。
「……んー。どうやるんだろう?」
華は改めて自分の全身に視線を巡らせるが、ドレスのどこにもそれらしいスイッチやボタンは見当たらない。
場の勢いとノリで身に着けたはいいものの、まさか解除方法まで考えていなかった。
焦りが微かに華の顔に浮かぶ。
「……”力を抜く”、と記されていますね」
クリスチャントが説明書らしき冊子を見ている。
「力を抜く…こうかな」
華は言われるがまま、大きく深呼吸をして、全身の緊張を解き放つようにリラックスした。
すると、まるで魔法が解けるように、白いドレスやピンク色の髪が音もなく崩れ落ち、
細かい光の粒子となって宙を舞う。
粒子はふわりと集まり、
瞬く間に元の白い六角の箱へと再形成されていく。
「これが解除のようですね。見事です」
クリスチャントが感嘆の声を漏らす。
「へー、すごい!ちゃんと元に戻るんだ!」
華は目を輝かせ、その光景に見入っていた。
「既に使用者登録はお済になられています。以降、このスーツは桐灰様所有の物となります」
クリスチャントの言葉に、華はハッと我に返る。
「え、えぇ?!ちょ、ちょっと待って!私そんなにお金もってないよ!これ、どう考えてもめちゃくちゃ高そうだし…!」
華は慌てて両手を振り、顔を青くする。
目の前の箱が、とんでもない代物であることは一目瞭然だった。
「ご心配なく。お金は取りません」
クリスチャントは、目の前で狼狽する華の様子を、まるで微笑ましく見守るかのように、
しかし一切の迷いなくきっぱりと言い放った。
「そ、そうなの?」
華の、まだ信じられないといった様子の問いに、クリスチャントは深く、静かに頷いた。
「旦那様にはワタクシから説明しておきます。このスーツは、たぶん、桐灰様が使うに相応しい物だと思いますので」
その言葉を紡ぐクリスチャントの瞳には、揺るぎない光が宿っていた。
そこには、華の内に秘められた可能性を見抜いた者の、静かで確かな確信が宿っていた。
「いいですよね、お嬢様」
クリスチャントは、その確信を裏打ちするかのような、余裕に満ちた笑みを冷に向けた。
冷は一瞬、視線を宙に彷徨わせた後、
小さく、しかし明確な意思を込めて力強く頷いた。
「もちろん。そのほうがきっと、良いと思う」
冷の言葉には感情こそ薄かったが、
その選択が最善であるという確信が滲んでいた。
「だ、そうです。決まりですね」
クリスチャントは、
全てを承知したかのようににこやかに華に告げる。
もう異論は挟ませない、という絶対的な雰囲気があった。
「あ…ははは。まいったな」
華は、観念したように苦笑いを浮かべた。
少し困惑したような、しかしどこか吹っ切れたような、はにかんだ笑顔で頭をかく。
その表情には、新たな運命を受け入れた者だけが見せる、清々しい決意が宿っていた。
太陽が、その笑顔を優しく照らしている。
その時、傍らで二人の会話を聞いていた冷の脳裏には、先ほどの華の戦いが鮮烈な映像となって焼き付いていた。
クリスチャントが見せてくれた動画のライブ配信越しではあったが、
人質を取られながらも一切怯まず、
巨大な影喰に真正面から立ち向かう華の姿は、
冷の凍てついた記憶の奥底に、熱い炎のように色濃く刻まれていた。
「あの…」
冷は、まるで深い水底から浮上するかのように、恐る恐る、華の前に一歩踏み出した。
その一歩は、彼女にとってどれほどの勇気を要したことだろう。
「これから、どうするの?」
問いかけながら、冷は自らの心の変化に驚いていた。
今まで、これほどまでに他人の未来に関心を持ったことなどなかった。
父の厳しすぎる態度と周囲の人間関係の複雑さに触れるうち、冷は少しずつ心を閉ざしていった。
傷つくことを恐れ、
いつしか分厚い壁を築くようになっていた。
それは、人と関わる怖さを知ってしまった冷なりの自己防衛であり、生き方だった。
だが、目の前にいる華は、そんな冷の凝り固まった心の壁を、外から力強く叩き壊してくれた。
まるで長年背負っていた重荷が、一瞬にして取り払われたかのような、衝撃的な解放感。
華の存在は冷にとって、まさに青天の霹靂だった。
だからこそ冷は震える声で、
しかし確かな意思を込めて言った。
「よかったら、うちに寄っていかない?」
「……へ?」
華は、突然の誘いにキョトンと目を丸くする。
その直後、冷は自分の言葉選びの拙さに気づき、みるみるうちに顔が真っ赤になった。
既に華は一度、自分の家に来ている。
再度「寄っていかないか」と誘うのは、あまりにも不自然ではないか、と。
その一部始終を傍で見ていたクリスチャントは、口元に手を当て、
優雅に、しかし隠しきれない笑みを浮かべていた。
「お嬢様は恐らく、桐灰様にしばらく我が家に住まないか、と提案したかったのですよ」
「へー………うえぇ?!わ、私が?!」
クリスチャントの完璧な通訳越しに冷の真意を聞き、華は目を丸くし、驚きの声を上げる。
その声は、昼間の公園に響き渡った。
「旦那様のこともあり、精神面共にお嬢様はお友達が出来にくい環境にありました。ですが貴女は、そんなお嬢様の閉ざされた心に、真正面から触れにいった。これにより、お嬢様はきっと貴女とお友達になりたいと強く、思っているのですよ」
優雅で、しかしどこか含みのある声で代弁するクリスチャントの横で顔を真っ赤にした冷は、顔を下に向け両手で服の裾をぎゅっと握りしめている。
その姿は、まるで初めての告白をする少女のようだった。
クリスチャントから話を聞いた華は、再びキョトンとした顔で、今度はじっと冷を見つめた。
その視線に耐えかねたように、冷がもにょもにょと何か言葉を発する。
「…そ……その、とおり…です」
ようやく本人から、蚊の鳴くような、
しかし確かな声で聞けた言葉に、華は満面の笑みを浮かべ、迷いなく手を差し出す。
「…え?」
冷は、恐る恐る顔を上げる。
そこにいたのは、心からの笑顔を浮かべた華だった。
「よろしく!」
華の声は、夜の闇を切り裂くように力強く、そして冷の心を温めるように優しかった。
その瞬間、冷の瞳には、目の前の華が、
暗闇を照らす希望の光――すべてを包み込む太陽のように、眩く輝いて見えた。




