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1話:嵐到来


静かな田園地帯を、

三両編成の電車がことことと走り抜けていく。



一時間に一本だけの、小さなローカル線。

乗客は多くない。それでも、この町の暮らしを黙って支え続けてきた大切な動脈だ。


薄い青空。やわらかな陽気。

田んぼの匂いを含んだ風が頬をなでる。

その向こうには、陽光を反射してきらめく海が、静かに横たわっていた。


『ご乗車ありがとうございます。次は、青崎。青崎です』


車内アナウンスに、少女の瞼がゆっくりと持ち上がる。


さらりと落ちるダークブラウンのストレートヘア。

眠気を振り払うように顔を上げたその瞳には、年相応のあどけなさよりも、どこか強い意志の光が宿っていた。


首元には黒いマフラー。

白いコートの裾が、座席の下まで長く垂れている。後ろだけが不自然なほど長いそのシルエットは、どこか旅人めいて、この町の人間ではないことを静かに主張していた。


コートの内側にのぞく赤。

黒いショートパンツにタイツ、足元は履き慣れたスニーカー。

指先の抜けたグローブをはめた手を軽く握ると、関節が小さく鳴った。


その少女、は立ち上がる。

その動きには、同年代の少女には似つかわしくない、妙な軽さがあった。


——その時だった。


キィィィッ、と耳を裂くような金属音が車内に響く。

次の瞬間、強烈なブレーキがかかり、体が前へ投げ出された。


少女はとっさに座席の背もたれを掴み、踏みとどまる。

周囲の乗客たちも手すりや吊り革にしがみつき、小さな悲鳴があちこちで上がった。


やがて揺れが収まると、車内には不安のにじんだ静寂が落ちる。


『お客様にお知らせいたします。ただいま、線路上に乗用車が停車しているため、当列車を緊急停止させました。ご不便をおかけしますが、事態解決まで今しばらくお待ちください』


アナウンスが終わるや否や、乗客たちがざわめき始める。

後方の車掌も慌ただしく前の車両へ駆けていき、車内の空気は一気に落ち着きを失っていった。


そして先頭車両では、

運転席の窓越しに、運転士と駆けつけた車掌が並んで外を見下ろしていた。

二人そろって、苦い顔をしている。


線路脇のフェンスが大きくひしゃげ、その先のコンビニの金網は無残に突き破られている。

乗用車が一台、斜面に半ば乗り上げるようにして止まっていた。


「なんでこんなところに……どういう運転してるんだ?」

「高齢者マークが付いてる。たぶんアクセルとブレーキの踏み間違いだろ。ほら、あそこの金網……完全に突っ込んでる」

「……ここから見る限り運転手は無事そうですね。ですが、この窪地じゃ……重機を呼んでも引き上げられるかどうか……」


どうしたものか、と二人は顔を見合わせた。


「とにかく本部に連絡を。しばらくこの路線は使えん。ダイヤの調整もしなきゃならんだろ」

「そうですね……ん?」


運転士に言われ、車掌がポケットから携帯を取り出そうとした、その時だった。


ふと、違和感を覚える。


——視界が、妙にすっきりしている。


さっきまで目の前にあったはずの乗用車が、ない。

斜面も、フェンスも、ただ静まり返っているだけだった。


「……あの」

「なんだ、どうした?」

「車が……」


喉が引きつる。


「……ありません」

「は?」


運転士も窓の外を見る。


そして、言葉を失った。


「……どこ、行ったんだ……?」


辺りを見渡す。

あるのは雑草と線路だけ。

さっきの光景が嘘だったかのように、何もない。


——見間違いか……?


そう自分に言い聞かせながら、運転士はゆっくりと視線を上げた。


そして、息を止める。


「……おい」


かすれた声が漏れた。


指さした先。

線路脇の、ひしゃげたフェンスの前に――


さっきまで線路上にあったはずの乗用車が、当たり前のように止まっている。


「な……」

「どういうことですか……?」


誰も触れていなければ、動く音もなかった。

それなのに、場所だけが変わっている。


二人はただ顔を見合わせることしかできなかった。


——そして。


ひしゃげたフェンスの向こう。

コンビニの駐車場から、ひとりの少女が静かに立ち去っていく。


コートの裾が、風に揺れた。


しかし、その姿に気づく者は誰もいなかった。




****************************************************




「んー……ここかぁ?」


スマホと標識を見比べ、少女は小さくうなずく。


コンビニから歩くこと二十分。

さすがに足が重い。


「ま、いっか。着いたし」


白いコートの裾を翻し、桐灰華は街へ踏み出した。


国道を少し進んだ先に、小さなバス停がある。

ベンチに腰を下ろして待つこと数分。やってきたバスに飛び乗った。


車窓の向こうで景色が少しずつ変わっていく。

田畑の緑が消え、代わりにビルや商店が増え、人と車の流れが濃くなる。


——目的の街。


華は黒いマフラーを巻き直し、静かに息を吐いた。


数分後、バスは青崎駅に停車する。

降り立った華は、ターミナルの屋根の下から街並みを見渡した。


「建物が並んでる割には……栄えてなさそう」


率直な感想が、ぽつりと漏れる。


ビルはいくつか建っている。

けれど駅前の商店街はシャッターが目立ち、半分以上が閉まったままだ。


人通りは少ない。

その代わり、車だけが絶え間なく行き交っている。


活気があるのか、ないのか。

どこかちぐはぐな雰囲気。

交通機関の少ない、地方特有の車社会の街並みをぼんやり眺めていると、不意に怒鳴り声が耳に刺さった。


「んー?」


視線を向ける。

駅の出入り口横のベンチ。

ひとりの少女を、三人の学ラン姿の少年が囲んでいた。


坊主頭。がたいのいい体。

明らかに、まともな雰囲気じゃない。


少女は座ったまま。

逃げ場を塞がれ、何か言われ続けている。


それでも――

周囲の大人たちは、誰も助けようとしなかった。目を逸らし、足早に通り過ぎるだけだ。

通りがかった駅員も目を向けることなく素通りしていく。


「オイ!無視してんじゃねぇ!」

「こっちが親切に話しかけてやってんのに、なんだその態度は!」

「馬鹿にしてんのか!」


少年たちは何も答えないのをいいことに罵声に近い言葉をぶつけ続けている。対する少女は、三人に囲まれているというのに騒ぐ様子はない。


抵抗もしない。助けも呼ばない。

ただ、ベンチに座ったまま黙っている。


淡い色の髪を後ろでひとつに結び、黒のハイネックと細身のパンツという地味な服装。

余計な装飾は何もない。


その横顔は整っているのに、どこか温度がない。

感情が抜け落ちたような瞳。


——まるで、最初から誰も助けてくれるなんて期待していない顔だった。


「なんとか言ったらどうなんだよ!」


少年の怒鳴り声が響く。


「んじゃ、私が代わりに言ってやろうか?」


背後から、間の抜けた声。


「あぁ? なん——」


振り返った瞬間。

拳が、めり込んだ。


鈍い音。

空気が弾ける。


ガタイのいい少年の体が宙に浮き、そのまま数メートル吹き飛ぶ。

駅の入り口前で転がり、動かなくなった。


「あぁ?」

「なんだテメェ!」


残った二人が振り向く。


そこに立っていたのは、拳をぶらぶらと振ってほぐしている少女だった。

まるで、軽いストレッチでも終えたみたいな顔で。


「君達さー」


のんきな声が飛ぶ。


「女の子一人に男三人って、さすがにダサくない?」

「んだよオマエ、喧嘩売ってんのかゴラァ!」

「オレ達に手ぇ出しといて、ただで済むと思うなよ!」


一人が指の骨を鳴らす。

もう一人が首を鳴らす。


物騒な音に、周囲の通行人たちは足早に離れていった。

通行人は誰も誰も関わらない。

当然の反応だろう。


華は小さく肩をすくめる。


「じゃあさ。どう済まないのか……教えてくんないかな!」


腰を落とす。


——次の瞬間、裏拳が閃いた。


鈍い衝撃音。

男子の体が「く」の字に折れ、そのまま地面に沈む。

ぴくりとも動かない。

残った一人が顔を引きつらせた。


「な、なろぉ!」


叫びながら拳を突き出す。

速い。鋭い。素人の動きじゃない。


——パシィッ。


乾いた音が響いた。


「……え?」


男子の拳は、華の片手に軽々と受け止められていた。まるで子供のパンチでも止めるみたいに。


実は彼は、中学ボクシング全国三位。この辺りじゃ有名な実力者だ。

その全力の一撃が――びくりとも、動かない。


「君、ボクシングかじってる?」


華はにこっと笑った。


「結構いいパンチだね。でも――」


ぐっ、と指に力を込める。


めり……めり……

骨の軋む音。


「いっ、いでででででっ!」

「こんなんじゃ、通用しないけど?」


手を離した瞬間、男子は慌てて距離を取った。


震えている。

さっきまでの威勢はどこにもない。

腹を押さえてうずくまる仲間。片手を押さえて顔面蒼白の自分。


——勝てるわけがない。

それが一瞬で理解できたらしい。


「……っ、くそ!」

「お、覚えてろよ!」


ありがちな捨て台詞を残し、3人は転がるように走り去っていった。

ばたばたと足音だけが遠ざかる。


そして、静寂。

何事もなかったみたいに、駅前に日常が戻る。


華は軽く手をぱんぱんと払い、


「はいはい、解散解散」


まるで野良犬でも追い払うみたいに、華は気のない声でそう呟いた。


「あ、大丈夫だった?」


振り向き、ベンチの少女に声をかける。

そこで、ふと違和感がよぎった。


怖がっている様子が、ない。


さっきまで男三人に絡まれていたはずなのに、服の乱れも、息の荒さも、震えもない。

まるで――最初から何も起きていなかったみたいな顔。


「……はい、ありがとう」


少女は静かに立ち上がる。


「そろそろ門限だから。じゃあ」


素っ気ない一言だけ残して、そのまま歩き去っていった。


「まだ午前中なのに?……なんか、変な子」


華はぽりぽりと頭をかきながら、空いたベンチに腰を下ろす。


そのとき。


「ん?」


お尻の下に、こつん、と硬い感触。

退いてみると、白いスマートフォンがひとつ落ちていた。


「落とし物……?」


拾い上げ、そしてすぐに思い当たる。


「……さっきの子の、かな」


そう呟いた瞬間。

不意に、親指が横の電源ボタンに触れた。


ぱっ、と画面が光る。


「うぇ?!」


思わず変な声が漏れた。

ロック画面いっぱいに、通知が並んでいる。


着信履歴、二十件以上。

不在着信。不在着信。不在着信――同じ番号が、ずらりと連なっていた。


「うっわー……なにこれ。きもちわるっ」


人の携帯を勝手に触るのはよくない。けど、今のは事故みたいなもんだろう。

そう自分に言い訳しながら、華は眉をひそめる。


「んー……一応、届けた方がいいよね。でも……」


きょろきょろと駅前を見回す。

さっきの子の顔と背格好は覚えている。視界に入れば、すぐ分かるはずだ。


すると――


ロータリーの向こう。

横断歩道を渡る、見覚えのある後ろ姿が目に入った。


淡い色の髪を後ろでひとつに結び、黒のハイネックに細身のパンツ。

飾り気のない、やけに地味な服装。


間違いない。さっきの少女だ。


「いたっ」


華はベンチを蹴るように立ち上がる。スマホを握りしめ、そのまま駆け出した。




****************************************************




駅前の喧騒が嘘みたいに遠のき、住宅街はしんと静まり返っていた。


小綺麗な一軒家が並ぶ道を抜けた先で、華は思わず足を止める。


「……ここ?!」


そこだけ、明らかにスケールが違った。


高い塀にぐるりと囲まれた、まるで敷地そのものが一つの城みたいな屋敷。

黒いアイアンの門扉。手入れの行き届いた庭木。奥へと長く続く石畳のアプローチ。


その先に建つのは、三階建ての白亜の邸宅。

横に広く、無駄に広大で、普通の家が何軒も入りそうな大きさだ。


窓は多いのに、なぜか生活感がない。

カーテンは閉ざされ、人の気配がまるで感じられなかった。


「でっか……家っていうか、これもう屋敷じゃん」


というより――


どこか、閉じ込めるための建物みたいだ。そんな妙な圧迫感が、胸の奥に引っかかった。


「……どうやって入るんだ」


高い門扉を見上げ、華が首をひねった、そのとき。


「何か御用ですか?」


真後ろから、穏やかな声。


「え?!」


びくっと肩が跳ね、思わず一歩身を引く。

いつの間に立っていたのか、気配がまるでなかった。


「そ、その……えーっと……」

「お嬢様のお友達、でございますか?」

「と、友達っていうか……たぶん、携帯落としたから届けにきたっていうか……」


しどろもどろになりながら、華は白いスマートフォンを差し出す。


後ろに立っていたのは、黒いスーツに身を包む老人だった。

背筋はぴんと伸び、無駄のない立ち姿。腰まで届く長い白髭に、右目には黒い眼帯。


まるで映画に出てくる執事そのもの――

そう言われた方が、まだ納得できる存在感だった。


「そうでしたか、失礼しました。では」


パチンっと指を鳴らすと、

重々しい音を立てて、大きな門がゆっくりと開いていく。


「申し遅れました。ワタクシ、この富谷家の執事をしております。クリスチャント・ロバートと申します」

「え、あ……き、桐灰華です!」

「桐灰様、中へどうぞ」


案内されるがままに、華は屋敷の敷地へ足を踏み入れた。


——広っ。

思わずそんな声が漏れる。


門の内側は、もはや庭というより公園だった。


真っ直ぐ屋敷へと伸びる石畳のアプローチ。

その両脇には、刈り込みの整った芝生がどこまでも続いている。

一本一本の木は等間隔に植えられ、形も高さも揃えられ、まるで定規で測ったみたいだ。


途中にある噴水は水音だけが、やけに静かな空気に響いていた。花壇の花も、雑草一本すら見当たらない。手入れが行き届きすぎていて、逆に生活感がない。


人が住んでいる家、というより。


「……ホテルじゃん」


ぼそっと呟く。

綺麗なのに、どこか落ち着かない。

まるで“誰かの庭”じゃなく、“展示品”みたいだった。


「この庭は、ワタクシが定期的に手入れをしております」

「へぇー……器用だなぁ」

「これも執事であるワタクシの役目ですので」


(やっぱり執事だったんだ)


その時だった。


――バンッ!!


屋敷の奥から、何かが叩きつけられる音が響く。


「あれほど時間を守れと言っただろうっ!!!」


腹の底から絞り出すような怒声。庭の静けさを、乱暴に引き裂いた。


「おまけに携帯まで落としてきよって! このバカ娘が!」

「……」


華は、ゆっくりと手の中を見る。

握っている、白いスマートフォン。


「やっぱりこれ……あの子のだったんだ」


そして、ふと気づく。

ロック画面に並んでいた、二十件以上の不在着信。


——全部、あの声か。


背中が、ぞわりと粟立った。


キィィ……重い音を立てて、屋敷のドアが開く。


反射的に顔を上げる。

そして、出てきた少女と桐灰華は目が合った。


「……え」


思考が止まる。

頬が、不自然に赤黒く腫れていた。指の形が残ったみたいな、大きな痣。


目は真っ赤に腫れ、まつ毛は濡れている。

さっきまで泣いていたのが、ひと目で分かった。


「……あっ」


少女が小さく声を漏らす。


華と目が合い、はっと息を呑む。

駅で助けてくれた相手だと気づいたのだろう。


けれど次の瞬間、その表情は曇った。


眉が寄る。何かを言いかけて――飲み込む。

まるで、ここに来るなと言いたげに。


「ん? なんだ君は!」


低く太い声が、奥から飛んだ。


どし、どし、と重たい足音。玄関から現れたのは、五十代後半ほどの男だった。

薄青い浴衣姿。

角刈りに、岩みたいな肩幅。


太い眉が吊り上がり、睨むだけで人を黙らせる顔。


——いかにも、怒鳴り声の主。

そう思わせるには、十分すぎる威圧感だった。


「…携帯、届けにきただけだけど」


対する華は物応じすることなく話を切り出す。


「冷の友達か? それはありがとう…最近のガキは大人への口の利き方もしらんようだな!」


煽り気味の口調である男の言葉に、華は眉を顰める。


「子供殴るような親にいわれたくなんかないね!」


対して華も威勢よく言い返す。


「なんだお前? うちに首突っ込むのか!」

「巻き込んだのはそっちでしょ!」


華は肩をすくめる。


「鬼電二十件、怒鳴り声、外まで丸聞こえ。それで“家庭の問題だから”はさすがに通らないって!」


白いスマートフォンをひらひらと掲げる。


「私は落とし物届けに来ただけ。でもさ――」


ぎろり、と男を睨んだ。


「子供に手ぇ上げるヤツが“親ヅラ”して偉そうにしてんの、普通にダサいよ。親なら子供大事にしなよ!」


空気が凍った。

さっきまで聞こえていた鳥の声も、風の音も、全部消えたみたいに。


庭の噴水の水音だけが、やけに大きく響く。

しん、とした静寂。


「……やめて」


小さな声が落ちた。かすれるような、弱い声。


華が振り向く。

少女が、俯いたまま立っていた。


「関係ないから……」


冷たい声だった。

突き放すようで、でもどこか、必死に何かを押し殺している声。


華の手の中の白いスマートフォンに、そっと手が伸びる。

取り返す、その指先が――わずかに震えていた。


表情は変わらない。

無表情。淡々としている。


なのに。


握る力だけが、やけに強い。


(……怖がってる)


華は、はっきりと感じ取った。

怒ってるんじゃない。嫌ってるんでもない。


ただ――怯えている。


少女は何も言わず、くるりと背を向ける。


そして。

バタン。


重たい音を立てて、ドアが閉まった。


まるで、

世界ごと遮断するみたいに。




****************************************************




「驚かれたでしょう」


門の前まで見送ってくれたクリスチャントが、穏やかな声で言った。

さっきの怒鳴り声が嘘みたいに、庭には静かな空気が戻っている。


「別に。ただ、あぁいうのは許せないだけ!」


華は吐き捨てるように言う。

拳を握ったまま。


クリスチャントは、そんな華を横目に小さく微笑んだ。


「……貴女は、まっすぐなお方だ」


後ろで手を組み、屋敷を見上げる。

白い外壁が夕陽に照らされ、やけに冷たく光っていた。


「旦那様も…以前は、あのような方ではありませんでした」


少しだけ間が落ちる。


「奥様が亡くなられてからです」


静かな声。

感情を押し殺した、淡々とした報告のような口調。


「旦那様も……屋敷の空気も、変わってしまったのは」


風が吹き、庭木が揺れる。

葉擦れの音が、やけに寂しく響いた。

まるで家そのものが、息苦しそうに軋んでいるみたいだった。


「奥様は、不治の病でして」


クリスチャントは淡々と続ける。


「四十八という若さで……お亡くなりになられました」

「……若っ」


思わず華が呟く。


「それから旦那様は仕事に没頭なさるように。家を空ける日も多くなりました」

「ふーん。普段いないんだ」


なのに、あの怒鳴り声で、あの圧。


(どの口で父親ぶってんだよ……)


華は小さく舌打ちした。


「きっと」


執事が静かに言葉を継ぐ。


「失って初めて、気づかれたのでしょう」

「……?」

「大切なものの重さに」


わずかな間。


「ですから冷様を、奥様以上に守ろうとなさっている」

「守る、ねぇ」


華は鼻で笑う。


「縛ってるだけじゃん、それ」


クリスチャントは否定しなかった。

ただ目を伏せる。


「……見えておらんのですよ」


ぽつり、と落ちる声。


「守ることと、閉じ込めることの違いが」


ぽつり、と落ちた言葉。

軽いはずなのに、やけに胸に残った。長年この家を見てきた人間だからこそ出てくる声だ。


きっと、嘘じゃない。


「……すいません。こんな話を」

「いいって、別に」


華は肩をすくめる。


「みたところ、貴女はお嬢様のお友達ではなさそうですね。この街の方でもない気配が」

「んー、まあ。ちょっと用事があって寄っただけ」


そう答えた、その時だった。


――ひやり。


首筋を、冷たい風が撫でた。

さっきまで暖かかったはずの空気が、急に温度を失う。


庭木が揺れる。

けれど、風は吹いていない。


「……?」


華の眉がぴくりと動く。

耳鳴りみたいな、低いノイズ。遠くで誰かが囁いているような不快なざわめき。

そして地面に伸びる影が、わずかに歪んだ。




**************************************************





同時刻――

富谷邸、二階の自室。


ベッドの端に、少女は静かに腰かけていた。

白いスマートフォンの画面が、暗い部屋の中でぼんやり光っている。


ロック画面。

ずらりと並ぶ、不在着信。


20件以上。


同じ名前。同じ番号。同じ時間帯。

規則正しく、何度も、何度も。


まるで――追い詰めるみたいに。


「……」


冷は、ただそれを眺めていた。消すことも、折り返すこともせずに。


脳裏に浮かぶ。

駅前で出会った、あの少女の顔。




――子供に手ぇ上げるヤツが“親ヅラ”して偉そうにしてんの、普通にダサいよ—




強くて、まっすぐな声。自分には絶対に言えない言葉。

胸の奥が、ちくりと痛む。


ふと顔を上げる。


机の横のコルクボード。

そこには写真が何枚も貼られていた。


修学旅行。笑っている自分。友達に囲まれている自分。

今より、ずっと表情があった頃の自分。


もう連絡も取っていない。

皆とは別々の高校で、別々の生活。


――おまえは、私立に行け。


低い声が蘇る。


あれは「相談」じゃなかった。


命令だった。


反論した瞬間、視界が揺れて頬に熱が走って、気づけば、進路は決まっていた。


それから、学校に行く日が減った。


体が重い。

朝が来るのが怖い。

家にいるのも、怖い。


怒鳴り声が響くたび、胸が縮む。


いつからだろう。

泣かなくなったのは、怒らなくなったのは。


何も感じないふりが上手くなったのは。


「……つらい」


こぼれた声は、自分でも驚くほど小さかった。

誰にも届かない、助けも来ない。


この家は、きれいで、広くて、


――牢屋みたいだ。


冷はスマホを胸に抱きしめ、俯いた。


どうすれば。

どうすれば、ここから抜け出せるのだろう。


答えは、どこにもなかった。


――コンコン。乾いたノック音。


冷の肩がびくりと跳ね、反射的に立ち上がった。

布団を整え、椅子に座り、教科書とノートを広げペンを持つ。


いつもの姿勢。

”ちゃんとしている娘”の形。


「……どうぞ」


声が、少しだけ震えた。


ドアノブが回る。


ゆっくり。きぃ、と嫌な音を立てて開いた。

入ってきたのは、父だった。

浴衣姿のまま無言で部屋を見渡す視線。それだけで、胸が締め付けられる。


「冷」


低い声。


「話がある」


沈黙。

時計の秒針だけがやけに響く。


「オレが仕事場に戻るタイミングでな」


淡々とした口調。感情のない、決定事項を告げる声。


「お前も、これからオレと住む」

「……え」


思考が止まった。

言葉の意味が、すぐに入ってこない。


「……一緒に?」

「そうだ」


即答だった。


「こっちにはもう住まん」


心臓が、どくんと鳴る。冷たいものが背中を伝う。


「な、なんで……?」


かろうじて絞り出した声。


「いいから住むんだ!」


怒鳴り声。

びくり、と体がすくみ反射で視線が下がる。


「ど、どうして……この家は……?」

「別荘扱いだ。クリスチャントに管理させる」


当たり前のように言う。まるで家具の配置を変えるみたいに。

冷の喉がひゅっと鳴った。


(……逃げ場が、なくなる)


自由が、奪われる。

胸の奥が、ぎゅっと握り潰される。


「……」


声が出ない。


助けて。そう言えたら、どれだけ楽だろう。

けれど言ったところで、届かない。


最初から、決まっている。


この人の中では、もう全部。


「返事は!」


怒号、鼓膜がびりと震える。

肩が跳ねる。


指先が冷たくなる。


「……ここ……」


やっと絞り出す。

喉が、うまく動かない。


「ここ、お母さんと……思い出のある家、だよ?」


縋るみたいない声。自分でも情けないと思う声。

父は一瞬も迷わなかった。


「関係ない」


即答だった。

刃物みたいに、短く。


「アイツはもういない」


――ガン。頭の奥で、何かが割れた気がした。


呼吸が止まる。


耳鳴り。


視界が揺れる。

あんなに母を大事にしていた人が、あんなに笑っていた人が。


目の前にいるのは、もう知らない男だ。


(……あぁ。もう、無理だ)

「それで、返事は?」


低い声。逃げ場を塞ぐ声。


「返事はどうしたと言っているんだ!!」


怒鳴り声が落ちてくる。

圧力みたいに。空気ごと押し潰される。


「――っ」


息が吸えない。視界が暗くなる。


その時だった。


「……ウッ」


父の顔が歪み眉間に深い皺。

胸元を掴み苦しそうに、息を詰まらせる。


「が……ッ」


ドサッ。

重たい音。

父の身体が、その場に崩れ落ちた。


「お父さん?!」


思わず声が漏れ、冷は一歩踏み出しかける。


その瞬間だった。


父の足元。

床に落ちた影が――


ドクン。

心臓の鼓動のように、脈打った。


「……なに……?」


ぞわり、と背筋を冷たいものが走る。反射的に、冷は後ずさった。


影は再び、

ドクン、ドクン、と。

鼓動を刻むたび、脈動は速く、強くなっていく。


「……っ!」


父の身体が、びくりと跳ね起きる。白目を剥き、喉を引きつらせたまま。その胸元――皮膚を押し上げるように、紫色の水晶が埋め込まれていた。


「……え……?」


理解が追いつかない。


次の瞬間。

紫の水晶が、不気味に光った。


そこから――

黒い帯のようなものが、いくつも、いくつも噴き出す。


「――っ!!」


帯は生き物のように蠢き、父の身体に絡みついた。


グチッ。グチ、グチ、グチッ――

肉を裂く、水音。


布が破れ、皮膚が裂ける音。

冷の喉から、悲鳴にもならない息が漏れる。


「……いや……」


視界が揺れる。

考えるより先に、身体が動いた。

冷は窓に駆け寄り、力任せに開け放つ。

冷たい外の風が、部屋に流れ込む。そのまま、バルコニーへ――


その時だった。


ドンッ――!!


爆音。

世界が、弾けた。


視界が真っ白に染まり、衝撃が全身を打ち抜く。


「――――っ!!」


冷の身体が宙に浮く。


重力が消え、落ちる。


死ぬ。

そう理解した――その瞬間。


ふわり、と誰かに抱き止められた。


「……え?」


次に視界が戻ったとき。

冷は、屋敷の庭にそっと降ろされていた。


芝生の匂い。

夜風の冷たさ。

ちゃんと地面を踏んでいる感触。


生きている。


「あぶないあぶない、間一髪だったね」


頭上から、軽い声。


見上げると――そこに立っていたのは、桐灰華だった。

まるで散歩の途中みたいな顔で。


「い、今……わたし……どうなって……」


状況が飲み込めない。

言葉がうまく繋がらない。


華はそんな冷の前に一歩出ると、片手をすっとかざした。


「下がってて」


短い一言。


それだけなのに、不思議と逆らえなかった。

その横顔は――さっきまで駅で会った同年代の少女とは、別人みたいに頼もしく見えた。


視線の先。

爆発で穿たれた、冷の部屋。


そこから。


ずるり、と。


“影”が、這い出してくる。人の形をしているのに、人ではない。

サイズは3メートルほどだろうか。

黒紫の皮膚にひび割れた肉体。

胸の中央に埋め込まれた、脈打つ紫の水晶。


それが鼓動するたび、空気が震える。

存在そのものが、重い。立っているだけで、息が苦しくなる。


「……なに、あれ……」


震えた声が、夜気に溶ける。

冷の視線は、爆ぜた自室の穴から這い出してくる“それ”に縫い付けられていた。


黒紫の皮膚。

胸に埋まった紫の水晶。

人の形をしているのに、人間とは決定的に何かが違う。


理解が、本能的に拒絶する。


「……っ」


息がうまく吸えない。


その隣で。

華は、ただ静かにそれを見据えていた。


目を逸らさない。瞬きすら、しない。

そして、短く告げる。


「――影喰かげばみ


その声には、迷いも恐怖もなかった。


ただ。

敵を見つけた者の、冷えた声。


「人の絶望に寄ってくる害虫みたいな連中。憎しみとか、後悔とか……そういう感情を餌にしてさ」


一歩、前に出る。

芝生を踏む音が、やけに軽い。


「心を食って、壊して、最後は人ごと乗っ取る」


拳を軽く握る。

関節が、小さく鳴った。


「だから私は――」


視線が鋭く細まる。


「“こいつ”を、ずっと探して回ってる」


風が吹く。

爆煙の向こうで、影喰がゆっくりとこちらを向いた。


華の横顔は。

不思議なくらい、頼もしかった。


「この街に来たのも、それが理由でね」

「貴女……一体――」


冷が問いを口にしかけた、その瞬間だった。

影喰が、動いた。


「娘をっっっ!かえせえええええええっっ!!!」


巨体が軋む音を立て、地面を蹴る。

黒紫の肉塊が殺意そのものになって突進してくる。


――速い。


反射的に、冷とクリスチャントは身を引いた。

逃げなければ死ぬ、と本能が叫ぶ。


だが。

華だけは、違った。


ドン――ッ!


雷が落ちたような轟音。

次の瞬間、衝撃波が円を描いて炸裂し、落ち葉と粉塵が宙へ舞い上がる。


「……え?」


冷は、恐る恐る目を開いた。


視線の先。


そこには――

影喰の拳を、片手で受け止めている華の姿があった。


「……うそ……でしょ」


声が、震える。


相手は人間の何倍もある異形だ。

その一撃は、建物すら粉砕しかねない威力だった。


それを。

少女は真正面から、止めていた。


「そんなんじゃ――」


にかっと笑う華が、静かに言う。


「私の”力”には及ばない!」


見開く華の瞳孔が開き金色の光を帯びる。

握っていた拳を、押し返す。影喰の巨腕が、軋みながら後退する。


華は一歩踏み込み、腰を落とした。


「子供はアンタの所有物じゃないんだよ!」


足が、地面を噛む。

腰だめに添えた拳に、力が集約されていく。


空気が震えた。


「――怪力拳!!」


放たれた一撃が、影喰に突き刺さる。


瞬間。


黒紫の肉壁が、爆ぜた。



内側から破裂するように弾け、肉片が四散する。

衝撃が遅れて地面を抉り、拳圧が一直線に庭を裂いた。


芝生がめくれ上がる。

木々がしなり、暴風が吹き荒れる。


冷の髪が、ぐしゃりと煽られた。


――消し飛んだ。


誰もが、そう思った。


そして。

砕け散った胸部の紫水晶が、甲高い音を立てて崩れる。


次の瞬間、中から――


「……え?」


人影が、吐き出された。

黒い残骸の中から、弾き飛ばされるように転がり出てくる。

芝生を転がり土煙を上げ、壁に当たり動かなくなる。


見覚えのある浴衣に見覚えのある体格。

芝生の上に、力なく横たわる影。


「……お父、さん……」


冷の喉が、ひくりと鳴った。


それは。

ついさっきまで怒鳴っていた、父親の姿だった。

胸が、大きく上下している。れど、動かない。


血の気が引き足が、すくむ。


その横で。

ぱんっ、と軽い音がした。

華が手についた黒い残滓を振り払う。まるで、泥でも落とすみたいに。


「大丈夫、生きてるよ」


あっさりとした声。


「ちょっと気絶してるだけ。時間がたてば普通に起きるよ」


ちらり、と冷の父親を一瞥して、


「死んでないから。安心して」


戦闘直後とは思えないほど、落ち着いた口調だった。その声に、冷の張り詰めていた呼吸が、ようやく戻る。


「……っ」


膝から、力が抜けた。

その場にへたり込む冷。


後ろでは、クリスチャントが目を見開いたまま固まっている。普段は微動だにしない老執事の顔に、はっきりと驚愕が浮かんでいた。


「……一体、何が起きたのやら……」


ぽつり、と漏れる困惑。

その横で。


「んー」


能天気な声。

華が首を軽く回し、肩をぽきっと鳴らす。


「あんま気にしないで?」

「それは無理がありますぞ?!」

「うそうそ、影喰が人に取り憑いて暴れるの。わりと定番なんだよね」


まるで、野良犬でも追い払ったかのような軽さだった。

クリスチャントの眉がぴくりと動く。


「……桐灰様。貴女はいったい――」


華は、にっと笑う。

親指で自分を指しながら。


「こういうのの専門、かな」

「専門……?」

「影喰ぶっ飛ばす係。さっきみたいに、力任せにね」


ぎゅっ、と拳を握る。


空気が、わずかに鳴った。

黒いマフラーが風に揺れる。その背中が、やけに大きく見えた。


「……怪力……」


冷は、ゆっくりと庭へ視線を落とす。


抉れた地面。

吹き飛んだ外壁に砕けた石畳。

どう見ても、人間のやった痕跡じゃない。


――この人が、やったの?


さっき自分を助けた、同い年くらいの女子が?


喉が、ごくりと鳴る。


その時だった。


ざわ……ざわ……と庭の外から、ざわめきが広がる。

視線を向けると、門の向こうに人影。

ひとり、ふたり、三人。

近所の住民たちが、恐る恐るこちらを覗き込んでいる。


そして遠くから。

ウゥゥゥゥ――……低いサイレンが、夜気を裂いた。

確実に、こっちへ近づいてくる。


「……あ」


冷が固まる。

対して。


「やっば」


間の抜けた声。

華の顔色が、初めて焦りに変わる。


「さすがにこれは説明めんどい!」


次の瞬間、ぱっと踵を返し全力ダッシュ。

黒いマフラーが大きく翻る。庭石を蹴り、芝生を跳び越え、一直線に門へ。


「ちょ、ちょっと待っ――」


思わず、冷は手を伸ばしていた。

届くはずもないのに。


華は振り返りもせず片手だけ、ひらっと上げる。


「また来るよ!」


その声だけが、やけに明るく響いた。


野次馬をするりとかき分けて、小柄な背中が、人混みの向こうに消えていく。

黒いマフラーが、最後にひと揺れして――見えなくなった。



しん、と静まり返る庭。

冷の胸の奥に、さっきまでなかった熱が残っていた。



庭には壊れた家と、倒れた父と黒い破片だけが残っている。

まるで悪い夢みたいな光景。


でも。


頬に触れる風も手の震えも、胸の鼓動も全部、現実だった。


影喰。人の絶望に取り憑く怪物。

そんなものが、この世界にいるなんて知らなかった。


知らないままで、いたかった。


でも――

もう、知ってしまった。


そして。

あの子は、その怪物に立ち向かっていた。


たった一人で笑いながら。


怖いはずなのに。

なのに、どうしてだろう。


あの背中が少しだけ、眩しく見えた。


きっと。

そして私の世界は今日、壊れた。



――それが、

“絶望を殴りに来た少女”との出会いだった。


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