8-1:予兆と無自覚な油断
その夜、Bar "Second"は、普段よりも少しだけ賑わいを見せていた。
カウンターには、職人街の工房で働く馴染みの親方衆が数人。
奥のテーブル席では、非番らしい若い衛兵たちがカードに興じている。
彼らの視線が、時折カウンターの一番奥へと、憧れと少しの畏怖を込めて注がれていた。
視線の先には、店のオーナーであるリンドが、女王のように座している。
「姐さん、こいつは俺の奢りだ! あんたが飲むと、どんな安酒も極上の蜜になるからな!」
衛兵の一人が、少しばかり呂律の回らない口調で叫ぶ。
リンドはそれに、鷹揚に頷いてみせた。
「うむ。よかろう」
次々と差し出される酒を、リンドは楽しそうに、そして危うげなペースで飲み干していく。
人間の肉体を得てからというもの、彼女はこの魂を酔わせるという下等ながらも心地よい感覚を、たいそう気に入っていた。
やがて客たちも一人、また一人と帰り、店の古時計が閉店時間を告げる頃には、リンドはすっかり酔いつぶれ、ソファの上で僅かな衣服だけをまとった姿で、穏やかな寝息を立てていた。
カイは客の後片付けを終えると、大きなため息を一つついて、店の奥からブランケットを持ってくる。
そして、肌寒い夜気から守るように、その無防備な体にそっとかけた。
その重みで、リンドはゆっくりと目を覚ます。
「……なんじゃ、小僧か」
「ああ、俺だよ。ったく、またこんな格好で……」
カイは呆れた声で言った。
「おい。酒の量に文句を言うのはもう諦めたが、せめて服は着て寝ろ。見てるこっちの目に悪い」
それは、目のやり場に困るから面倒だという、カイなりの不器用な気遣いだった。
だが、その言葉に含まれた「目に悪い」という一言だけが、リンドの逆鱗に触れた。
彼女はゆっくりと体を起こすと、血のように赤い瞳でカイを睨みつけた。
「何じゃと、小僧! この儂の、神々が作り上げた最高傑作たる完璧な肉体が、目障りだと申すか!」
「そういう意味じゃねえよ……」
「フン!」
リンドはカイへの当てつけのように、かけられたブランケットを勢いよく蹴り飛ばした。
あらわになった白い肌が、カンテラの光を妖艶に反射する。
「あの者たちは、お主と違って真実を見る目があるようじゃな! 美を解さぬとは、憐れなことよ!」
先程の客たちの賛辞を引き合いに出し、リンドは得意満面に胸を張る。
カイはもはや何も言う気力をなくし、ただ静かに天を仰いだ。
その夜、リンドは満足げに、そして無防備なままソファで眠りについた。
明け方の冷え込みが、店の床の隙間から静かに忍び寄る。
彼女の体は、その完璧な自負とは裏腹に、無意識に小さく震えていた。
*
翌日の昼下がり。
店にはまだ客はおらず、カイが静かに開店の準備を進めていた。
カウンターの奥では、リンドが昨夜の深酒が嘘であるかのように、いつも通り優雅に葡萄酒のグラスを傾けている。
だが、その完璧なはずの貌が、不意にむず痒そうにひそめられた。
「……む?」
彼女は小さく首を傾げる。鼻の奥が、経験したことのない奇妙な感覚に襲われていた。
それはやがて、抑えようのない衝動へと変わる。
「へ、へ……」
彼女の美しい顔が、くしゃみをこらえるために奇妙に歪む。
そして。
「ハッッックション!!!」
店の静寂を木っ端微塵に破壊するような、巨大で、全く優雅さの欠片もない音が響き渡った。
カウンターの上のグラスが、その衝撃で微かに震える。
リンドは、自らの身体から発せられた未知の轟音と現象に、ただ衝撃を受け、美しい瞳をまん丸に見開いたまま、完全に固まっていた。
古龍の肉体に刻まれた、初めての異変だった。




