7:英雄の苦悩と見えざる恋心
先日の嵐の夜から数日後。
店の扉が静かに開き、一人の青年が入ってきた。
普段の輝く鎧ではなく、フードを目深にかぶった地味な旅装。
だが、その佇まいや真っ直ぐな瞳は、彼が伝説の勇者アランであることを隠せていなかった。
彼はカウンターに腰掛けるなり、人知れず深く大きなため息をつく。
その顔には、討伐対象の魔物と対峙する時とは違う、もっと内面的な疲労の色が濃く浮かんでいた。
「いらっしゃい。今日はまた、ずいぶんとやつれた顔だな」
カイが黙って差し出したエールを、アランは美味そうに一口煽る。
「……少し、疲れてしまって」
彼はぽつりぽつりと、その胸の内を語り始めた。
街を歩けばすぐに人だかりができ、困っている人を見過ごすこともできず、プライベートな時間が全くないこと。
誰もが自分に「完璧で、私心のない、慈悲深き英雄」という理想を押し付けてくることの息苦しさ。
「僕はただ、時々でいいから……誰でもない『アラン』として、静かにエールを一杯飲みたいだけなんですけどね」
自嘲気味に笑うアラン。
カイは黙って、彼の言葉に耳を傾けていた。
だが、その時カイの視線は、カウンターの端に置かれたナッツの皿が、ひとりでに僅か数ミリ滑るのを捉えていた。
アランの背後、誰もいないはずの席で、古い椅子が軋む音も。
カウンターの奥では、リンドが面白そうに口の端を吊り上げている。
(……また面倒事が、すでに店の中にいやがるな)
カイが内心でため息をついた、その時だった。アランが力なく呟く。
「誰にも姿が見られない場所で、ゆっくりしたいものです……」
すると、何もないはずの空間から、物悲しい声が響いた。
「姿が見えないからといって、幸せとは限らんのだぞ、英雄殿……」
「うわっ!?」
突然の声に、アランは素っ頓狂な声を上げて飛び上がる。
声は、彼の隣の空席から聞こえてきていた。
声の主は、生まれつき姿が見えないという魔物だった。
彼はアランの悩みを聞いて、同じ「見られること」「見られないこと」に苦しむ者として、つい同情してしまったのだという。
「私は、ある女性に心を奪われてしまったのだ。だが、この姿では……彼女に想いを伝えることすら叶わない」
そのあまりに純粋で悲しい恋の話に、心の綺麗なアランはすっかり同情してしまった。
「なんて悲劇なんだ……! カイさん、彼のために何かしてあげられないでしょうか!」
「へえ」とカイは気のない返事をすると、見えない客に向き直った。「その恋しい相手というのは、どんな人なんだ?」
カイに話を振られたのが嬉しかったのか、見えない客の声は急に弾んだ。
「よくぞ聞いてくれた! ヒルダ殿は、それはもう素晴らしいお方だ! 彼女のことは、何から何まで知っているとも!」
彼は、うっとりとした声で語り始める。
「彼女はまるで戦場の女神……夕陽のように燃える赤い髪をなびかせ、大剣を振るう姿は鋼の舞踏のようだ。特に朝の訓練場での彼女は最高でね、私はいつも茂みの中からその雄姿を見守っているのだ!」
「し、茂み……?」アランの顔が微かに引きつる。
「ああ! それに、とても健啖家でいらっしゃる! 好物が猪の丸焼きというのも、実に彼女らしくて愛らしいだろう? 酒場の窓から、いつも美味しそうに召し上がっているのを拝見していてな……」
アランの同情に満ちた表情が、みるみるうちに困惑へと変わっていく。
彼はまだ、目の前の存在を善意で解釈しようと、恐る恐る尋ねた。
「あ、あの……でしたら、一度勇気を出して、お声をかけてみてはいかがでしょうか……?」
その提案に、見えない客は心底驚いたように声を裏返らせる。
「そ、そんな恐れ多いこと、できるわけがないだろう!」
そして、恍惚とした声で続けた。
「私はただ、彼女の雄姿を遠くから見つめ、彼女が通り過ぎた後の残り香を感じる……それだけで、幸せなんだ……!」
「のこりが……」
その言葉に、アランの顔は完全に青ざめた。
純粋な悲恋の物語は、ここで完全に気味の悪い独白へと変貌を遂げる。
店の空気が変わったことに気づかない見えない客は、彼らの沈黙を深い感動と勘違いし、さらに続けた。
「見てくれよ! これは訓練中に落ちた彼女の髪だ! 私の宝物なんだ!」
見えない手によって、一本の赤い髪の毛が、カウンターの上にそっと置かれた。
その瞬間、店の空気は完全に凍りついた。
長い沈黙を破ったのは、カイの静かな声だった。
彼はゆっくりと立ち上がり、いつもの面倒くさそうな、しかしどこか凄みのある表情で言った。
「……分かった。あんたの恋が実る、特製のカクテルを作ってやる」
「本当か!」
「ああ」
カイはシェイカーを手に取ると、甘いリキュールや果汁ではなく、棚の奥から取り出した、ラベルもない怪しげな瓶を次々と開けていく。
この世の物とは思えないほど苦い薬草酒。
罰ゲームで使うためにゼノンが置いていった、強烈な香りの蒸留酒。
やがて完成したのは、沼のように淀んだ緑色で、言葉では形容しがたい匂いを放つ液体だった。
カイはそれを、見えない客の前に置く。
「おらよ。『正直者になれる薬』だ。一気にいけ」
「おお、ありがとう!」
見えない客は、それが恋を叶える魔法の薬だと信じ込み、躊躇なく一気に飲み干した。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、腹の底から響くような「ぐぎゅるるる……」という音と、この世の終わりのような嗚咽が店内に響き渡った。
見えない客は汚いコインを数枚カウンターに投げ捨てると、猛烈な勢いで店から逃げ出していった。
アランが呆然としながらカイに尋ねる。
「か、カイさん、あれは……」
カイはカウンターに置かれた赤い髪の毛を慎重につまんでゴミ箱に捨てると、布巾でカウンターを拭きながら、平然と答えた。
「一部の厄介事にはな、英雄の剣より、苦い酒の方がよく効くんだよ」
自分の悩みが、あの珍客に比べればずいぶんと些細なものに思えてきたアランは、思わず苦笑いを浮かべる。
カウンターの奥で、リンドが心底楽しそうに、静かに拍手を送っていた。




