5:給料に含まれる幽霊たち
その夜は、奇妙なほどに静かだった。
店の扉が開かれる気配はなく、常連客の顔も見えない。
ただ、いつもより少しだけ冷たく、澄み切った空気がカウンターの内側まで満たしている。
カイは黙々とグラスを拭きながら、ふと、その静寂の中に混じる些細な不協和音に気づいた。
誰もいない席で、椅子の木が微かに軋む音。
棚に並んだグラスが、ひとりでにカタリと鳴る。
そして、古い上質な香水のような、あるいは遠い昔に燻らせた葉巻のような、この店にはそぐわない香りがふと鼻をかすめては消える。
カウンターの奥では、リンドが酒を飲むでもなく、本を読むでもなく、ただ静かに店の空間を見つめていた。
その赤い瞳は、まるでカイには見えない何かを捉えているかのようだ。
「どうしたんだ?」
カイが尋ねると、彼女はゆっくりと視線を彼に向け、その美しい唇を微かに綻ばせた。
「……空気が、過去を記憶しておるのじゃ」
リンドがそう呟いたのと、店の古時計の鐘が夜半を告げたのは、ほぼ同時だった。
ゴーン、と厳かな鐘の音が響き渡った瞬間、店のあちこちから、陽炎のように半透明の人影がすうっと湧き出すように現れた。
燕尾服や豪奢なドレスを身にまとった、古風で華やかな装いの男女。
彼らはカイやリンドの時代とは、明らかに違う時を生きていた。
幽霊たちは、現在のバーの内装など全く意に介していない。
カイのいるカウンターを、まるで何もないかのようにすり抜けて歩き、今はもう存在しないはずの大きな暖炉の前に集まって、声なく談笑する。
彼らの会話は、まるで遠い風の音のように、カイの耳には意味のある言葉として届かない。
彼らは、百年以上も前にこの街に建っていたという屋敷の住人たち。
年に一度の夜会を、ただひたすらに繰り返している、この土地の古い記憶だった。
カイは最初、元冒険者だった頃の癖で、咄嗟にカウンターの下に隠した得物に手を伸ばしかけた。
だが、すぐにその手を下ろす。
彼らに敵意や害意は一切なく、ただ在りし日の幻影として、そこに存在しているだけだと理解したからだ。
彼は静かに、その不思議な光景を見守ることに決めた。
やがて、カイの目に、幽霊たちの輪から少し離れた場所に、ただ一人佇む貴婦人の姿が留まった。
彼女は、他の者たちのように談笑することもなく、ただ俯きがちに、自分のレースの手袋を見つめている。
その表情は悲しいというよりも、むしろ孤独。
周りの声なき喧騒が、かえって彼女一人の寂しさを際立たせていた。
まるで、この華やかな夜会に、彼女だけが招かれていない客であるかのようだ。
(……ただの記憶だ。だが、記憶の中でも独りぼっちというのは、あんまりじゃないか)
カイはその姿に、過去に店を訪れた孤独な客たちの面影を重ねていた。
バーテンダーとして、自分の店で客を独りにさせておくことはできない。
たとえその客が、百年以上前に死んだ幽霊だとしても、その矜持は変わらなかった。
カイは棚に並ぶグラスの中から、彼女が生きていたであろう時代を思い描き、古風で繊細なカットが施されたものを選び出す。
それを丁寧に磨き上げると、氷を入れるのではなく、ただ清冽な天然水を静かに注いだ。
そして、貴婦人が見つめる空間――カウンターの何もない場所へ、敬意を込めて、そっとそのグラスを滑らせた。
磨き上げられたカウンターの上を、グラスは音もなく進み、彼女の正面でぴたりと止まる。
もちろん、グラスが彼女の手に触れることはない。
しかし、それが止まった瞬間、俯いていた貴婦人がふっと顔を上げた。
彼女の半透明の瞳が、確かにカウンターの上のグラスを捉えたように見えた。
そして、その寂しげだった唇に、百年ぶりとなるかのような、はにかむような淡い微笑みが浮かぶ。
彼女はカイのいる方へ、優雅に、そして深く一礼すると、すっと体の向きを変え、今度は迷うことなく、仲間たちの輪の中へと溶け込んでいった。
カイの一連の行動を、リンドは黙って見ていた。
彼女は珍しく揶揄うでもなく、静かに呟く。
「……記憶に酒を注ぐか、小僧。酔狂な、じゃが、悪くない趣向じゃな」
夜会はそれからもしばらく続いたが、東の空が白み始めると、幽霊たちは光の中に溶けるように、一人、また一人と姿を消していった。
やがて、店内にはカイとリンド、そしてカウンターの上にぽつんと残された水入りのグラスだけが残される。
カイはその誰も触れなかったグラスを手に取った。
水面は、夜の間に起きた不思議な出来事を映すように、静かに揺れていた。
「まあ、給料に幽霊対応分も含まれてると思えば、悪くないか」
彼はそう独りごちると、グラスを丁寧に洗い、棚に戻す。
いつもと変わらない、Bar "Second"の朝が始まろうとしていた。
*
そして、次の日の夜。
店にはアランが訪れ、昨夜の出来事など何も知らずにカイと談笑していた。
いつも通りのBar "Second"の光景が戻ってきたことに、カイは内心で安堵する。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
会話の途中、カイはふと、昨夜と同じような空気の冷たさを店の隅に感じる。
彼がそっと視線を向けると、奥のボックス席に、新たな半透明の人影が現れつつあった。
今度の幽霊たちは、昨夜の優雅な貴族とは似ても似つかない。
使い古された革鎧を身につけた、屈強な冒険者の一団だった。
彼らは見えない酒ジョッキを豪快に打ち付け、声なく笑い合っている。
おそらく、この土地に屋敷が建つよりもさらに昔、ここに存在したという古い酒場の記憶。
その光景を前に、カイは表情を変えないまま、静かに一つの真実を悟った。
土地には、一つの時代の記憶だけではない。
幾重にも重なった、様々な時代の記憶が眠っているのだと。
(……一日ごとに時代の違う幽霊が出てくるのか? 俺の給料、この業務内容に見合ってなさすぎやしないか……?)
カイは静かに天を仰ぎ、オーナーであるリンドの顔を思い浮かべながら、新たな心労の種に深く、長いため息をつくのだった。




