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BAR【second】~路地裏の交差点へ、ようこそ~  作者: 水縒あわし


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31:洗い流したい夜と、真面目すぎる新入り



 開店前の静かな店内に、キュッ、キュッ、とリズミカルな音が響いていた。



「よし、完璧だ。ありがとう、サクラ」


「イエ、当然ノ任務デス」


 カウンターの中で、俺は磨き上げられたグラスを受け取った。



 一点の曇りもなく、指紋どころか空気中のホコリさえ拒絶するかのような輝き。


まさに、精密機械の仕事だった。



 俺の目の前に立っているのは、黒髪のボブカットにクラシックな黒のロングメイド服を纏った少女――自動人形オートマタのサクラだ。



 先日の騒動を経て、彼女は正式にこの『BAR【second】』で働くことになった。


「サクラ。接客は初めてだろうから、慣れるまでは俺が指示を出す。基本的にはその通りに動いてくれればいい」


「了解シマシタ。マスター・カイノ手足トナリ、稼働シマス」


 サクラは表情一つ変えず、軍人のような敬礼を返した。



 その真面目すぎる態度に苦笑しつつ、俺は視線をテーブル席へ向けた。


そこでは、もう一人の店員(?)であるリンドが、開店前の腹ごしらえとばかりに焼き菓子を齧っている。



 サクラが音もなく、滑るようにリンドへ近づいた。



「マスター・リンド。食べカスが落下中デス。清掃効率低下ノ懸念アリ」


「ん? ああ、すまんのう」 


 サクラの淡々とした指摘に、リンドは怒ることもなく、口元についた欠片をペロリと舐め取った。



 どうやらリンドは、この新しい眷属の細かさを「世話焼きな孫」か何かのように優しく受け入れているらしい。



「よし、そろそろ時間だ。店を開けるぞ」


 俺はネクタイを締め直し、店の看板を『OPEN』へと裏返した。 



     ◇



 開店と同時に、馴染みの常連客たちが数名やってきた。



 彼らはカウンターの中に立つ、見慣れないメイド姿の少女を見て目を丸くした。



「おや、マスター。新入りさんかい?」


「随分と可愛らしい子が入ったもんだ」


 俺はシェイカーを準備しながら、客たちに頷いた。



「ええ、今日から働いてもらうことになったサクラです。少しばかり“堅い”ところはありますが、根は真面目なんで、仲良くしてやってください」


 俺が紹介すると、サクラはその場から一歩踏み出し、腰を四十五度、完璧な角度で折り曲げた。



「サクラ、デス。以後、オ見知リ置キヲ」


 その動作のあまりの美しさに、客たちが「おお……」と感嘆の声を漏らす。



 サクラの仕事ぶりは、まさに完璧の一言だった。



 俺がカクテルを仕上げると、彼女はすぐさまそれを受け取り、客の前へと運ぶ。


そして、音もなくグラスを置くのだが――その際、彼女は必ずコースターの中心とグラスの底面を、ミリ単位のズレもなく一致させていた。



 何度やっても、定規で測ったかのように同じ位置。



 人間業ではないその所作に、俺は感心しながら小声で声をかけた。



「助かるよ。完璧な配膳だ」


 すると、サクラは無表情のまま俺の方を向き、



 ピコ、ピコ。



 頭のてっぺんにあるアホアンテナを、リズミカルに動かした。



 ……どうやら、それが彼女なりの「喜び」の表現らしい。



      ◇



 夜が更け、店の空気がゆったりと落ち着いてきた頃。



 カラン、コロン、とドアベルが重苦しい音を立てた。



 入ってきたのは、一人の男性客だった。


身なりからして商人だろうか。


しかしその肩は地面につくほど落ち込み、顔色は土気色だった。



 彼はカウンターの隅に座るなり、深い、深い溜息をついた。



「……いらっしゃいませ。ひどくお疲れのようですね」


 俺がお冷とお絞りを出すと、男は力なく顔を上げた。



「ああ……今日は最悪な一日だったよ。大きな商談でミスをしてね……上司には怒鳴られるし、得意先には呆れられるし……」


 男は頭を抱え、絞り出すように言った。



「マスター、何か強いのをくれ。今日の嫌な記憶も、失敗も……全部きれいに『洗い流せる』ようなやつを頼む……」


 その言葉を聞いた瞬間だった。



「――『洗イ流ス』。了解シマシタ」


 サクラの瞳が、カシャリと音を立てて絞られた。



 彼女は俺が酒瓶に手を伸ばすよりも早く、スカートの中に静かに手を突っ込んだ。


 そして、どこにそんなスペースがあったのか、自身の背丈ほどもある『デッキブラシ』と、『業務用強力魔導洗剤』と書かれた毒々しい色の液体が入ったを取り出したのだ。



「え」


 男が固まる。



 サクラはズシズシと男に詰め寄ると、真顔で宣言した。



「お客様。物理的洗浄ヲ開始シマス。脳内ノ汚レ、根コソギ除去シマショウ」


 その瞳には、一点の曇りもない「善意」と、職務遂行への「意志」が宿っていた。



 男は顔を引きつらせ、椅子からずり落ちそうになった。



「ひ、ひぃっ!? な、何をする気だ!?」


「待てサクラ! ストップだ!!」


 俺は慌ててカウンターを飛び越えそうになりながら、サクラの首根っこ(襟首)を掴んで制止した。



「物理的洗浄じゃない! デッキブラシをしまえ!」


「……? 命令ト矛盾シマス。お客様ハ『洗イ流シタイ』ト発言サレマシタ」


 サクラは首を傾げ、デッキブラシを構えたまま俺を見た。


本気で理解できていない顔だ。 



「いいかサクラ。お客様が言ったのは『洗濯』のことじゃない。お酒を飲んで、気分をスッキリさせたいっていう『例え』だ。言葉の綾だよ」


「……比喩、デスか?」


「そうだ。洗剤で脳みそを洗おうとするバーテンダーがどこにいる」


 俺の説明に、サクラはパチクリと瞬きをした。



 そして「洗剤ナシデ、精神ノ洗浄ヲ……?」とブツブツ呟きながら、ゆっくりとブラシをスカートの中へ(どういう原理か不明だが)収納した。


「すいませんお客様、新入りが少々張り切りすぎまして……」


 俺は冷や汗を拭いながら、未だに震えている客に謝罪した。



 そして、改めてカウンターに戻り、シェイカーを手にした。



 このお客様に必要なのは、強力な洗剤ではない。

 


 もっと優しくて、心に風を吹かせるような一杯だ。 



 俺が選んだのは、ホワイト・ラムをベースに、ブルーキュラソーとライムジュースを加えたカクテル。



 氷と共にシェイカーに入れ、リズミカルに振る。



 シャカ、シャカ、シャカ……。



 心地よい氷の音が、店内の張り詰めた空気を溶かしていく。



「お待たせしました」


 カクテルグラスに注いだのは、鮮やかなスカイブルーの液体。



「『スカイ・ダイビング』です」


 空へ飛び込むようなその名前には、大空のような爽快感で、憂鬱を吹き飛ばしてほしいという願いが込められている。



「……綺麗な青だ」


 男は恐る恐るグラスを手に取り、口へと運んだ。


 ラムの甘みとライムの酸味、そしてブルーキュラソーの爽やかな香りが口いっぱいに広がる。



「……ふぅ」


 一口飲んで、男は大きく息を吐いた。


先ほどまでの重苦しい溜息とは違う、憑き物が落ちたような呼吸だった。



「美味いな……。なんだか、本当に胸のつかえが取れた気がするよ。……ハハ、洗剤なんて使わなくても、綺麗になるもんだな」



 男の顔に、ようやく生気が戻った。


 その様子を、サクラは少し離れた場所からじっと観察していた。



「洗剤未使用。ブラシ未使用。……ナノニ、対象ハ『スッキリシタ』ト発言」


 彼女の青い瞳の中で、何かのデータが書き換わっていく音が聞こえた気がした。



 サクラはエプロンのポケットから小さなメモ帳を取り出し、サラサラとペンを走らせた。



『酒=心ヲ洗ウ洗剤』



 ……まあ、当たらずとも遠からずか。



 俺が苦笑していると、奥の席でリンドがニヤニヤしながら頬杖をついていた。



「くくく、あながち間違いでもないかのう。よい勉強をしたな、ポンコツメイド」


 サクラはピコっとアホ毛を動かし、真剣な顔で頷いた。



「ハイ。人間ハ難解デス。精進シマス」


 真面目すぎる新入りの夜は、まだ始まったばかりだ。


 俺は心の中で「お手柔らかに頼むよ」と呟きながら、次のグラスを磨き始めた。



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