30:開かずの扉と、地下室の掃除人
運河沿いの新店舗、『Bar Second』がオープンしてから数日が経った。
石造りの館は雰囲気も良く、客足も順調……と言いたいところだが、一つだけ致命的な問題が発生していた。
ザザザザザ……。
乾燥した風の音と共に、大量の砂が店内に流れ込んでくる。
「……またダメか」
カイは呆れた声を出し、手に持っていたモップを握り直した。
店の入り口の扉。
そこは今、アステルの路地裏ではなく、どこかの熱帯の砂漠へと繋がってしまっている。
「ええい、おかしいのう! イメージは完璧なはずなのだが!」
扉の前で杖を振り回しているのは、オーナーのリンドだ。
彼女は今、**『転移扉』**の復旧作業を行っていた。
前の店では、常連客に持たせた鍵を使えば、大陸のどこからでもこの店の扉に繋がる魔法がかかっていた。
この新店舗でもそれを再現しようとしているのだが……。
「お前、前の時はどうやったんだ?」
「知らん。あの時は泥酔しておったからな。起きたら繋がっておった」
「天才かよ」
要するに、シラフの今、リンドは感覚だけで再現しようとしてドツボにハマっているのだ。
さっきは泥沼に繋がり、その前は吹雪く雪山に繋がり、今は砂漠だ。
せっかくピカピカに磨いた床が、砂だらけになっていく。
「……ダメだ。俺は地下の片付けをしてくる。ここが片付く頃に戻るよ」
「むっ、逃げるのかカイ! 待て、次は魔界の毒沼に繋いでみるから!」
「絶対に行かねえよ!」
カイはリンドの危険な実験から避難するように、カウンター奥の階段を降りて地下セラー(倉庫)へと向かった。
◇
地下セラーは、ひんやりとした静寂に包まれていた。
かつて錬金術師が薬品庫として使っていたこの場所は、今はカイが集めた酒の貯蔵庫になっている。
手前にはワイン樽や棚が整然と並んでいるが、奥の方にはまだ前の住人が残したガラクタの山――怪しげな木箱や、布を被った家具のようなもの――は放置されたままだった。
「さて、こいつらを片付けて、スペースを空けるか」
カイは腕まくりをして、ガラクタの整理に取り掛かった。
重い木箱を動かし、舞い上がる埃を手で払う。
その時だった。
ガツン。
足元の古い木材に躓き、カイは抱えていた酒瓶のケースを大きく傾けてしまった。
ガシャーン!!
派手な破砕音が地下室に響き渡る。
ケースから滑り落ちた一本の高級ワインが床に叩きつけられ、赤い液体とガラス片を撒き散らした。
「……あーあ。やってしまった」
カイが深いため息をついた、その瞬間。
ガラクタの山――布を被った大きな「何か」の中から、無機質な声が響いた。
『――汚損、検知。』
「へ?」
バサッ!
布が内側から弾け飛び、中から一体の**「人形」**が飛び出した。
金属と磁器で作られた肌、精巧な関節、そして古臭いメイド服。
埃を被っていたはずのそれは、カカカッ!と不気味かつ高速で動き出すと、割れた酒瓶の前に滑り込んだ。
『直チニ、清掃ヲ開始シマス』
その動きは、熟練のバーテンダーであるカイですら目で追えないほどだった。
彼女(?)はスカートの中から取り出した塵取りでガラス片を一瞬で回収し、床に広がったワインを特殊な布で吸い取り、最後に何らかの薬剤を噴射して拭き上げる。
ものの十秒。
床は新品同様に輝いていた。
「な、なんだこいつ……?」
カイが呆気にとられていると、人形は首をギギギと回し、天井――つまり一階の店舗の方角を見上げた。
『広域汚損、多数検知。……排除シマス』
言うが早いか、人形は階段を猛スピードで駆け上がっていった。
「お、おい待て!」
カイが慌てて追いかけ、一階に戻ると、そこには信じられない光景があった。
リンドが砂漠から呼び込んでしまった大量の砂。
それを、あの人形が人間離れした速度で掃き清め、袋詰めし、外へ放り出しているのだ。
モップ捌きは残像が見えるほど速く、まさに嵐のような掃除だった。
「……な、なんじゃこやつは?」
杖を構えたまま、リンドも呆然と立ち尽くしている。
一分もしないうちに、砂まみれだった店内は一点の曇りもない状態になっていた。
掃除を終えた人形は、二人の前まで来ると、直立不動の姿勢を取り、ガクンと首を垂れた。
『魔力、残量低下。……スリープモードニ、移行シマス』
プシュゥ……と蒸気を吐き出し、人形は動きを止めた。
静まり返った店内で、カイとリンドは顔を見合わせた。
「……なあリンド」
「なんじゃ」
「もしかして俺たち、とんでもない掘り出し物を起こしちまったんじゃないか?」
◇
カウンターの椅子に、動かなくなったメイド人形がちょこんと座らされている。
リンドが興味深そうに、その陶器のように白い頬をつついた。
「ふむ。構造を見るに、前の住人が作った自動人形だな。家の魔力パイプから漏れ出した余の魔力を吸って、一時的に起動したようじゃ」
「俺が瓶を割った音に反応してたぞ。『汚れ検知』とか言って」
「なるほど。掃除に特化した使い魔か。……面白そうだ、起こしてみよう」
リンドが人形の額に指を当て、魔力を流し込む。
膨大な魔力が注がれると、人形の瞳(ガラス玉)に光が灯り、カシャリと首が動いた。
『再起動、完了。……マスター、命令ヲ』
人形は無表情のまま、カイとリンドを交互に見た。
どうやら、魔力をくれたリンドと、目の前にいるカイを主人として認識したらしい。
「名前はなんて言うんだ?」
カイが尋ねると、人形は機械的に答えた。
『個体名ハアリマセン。型番ハ、試作零号デス』
「試作零号……味気ないな」
カイは腕を組んで考え込んだ。
あの掃除の腕前を見るに、これからこの店で役に立ってくれるかもしれない。
呼びやすい名前が必要だろう。
「シサクレイゴウ……サクレイ……サクレ……」
「フン、サクレか。いまいち締まりがないな」
リンドが横から茶々を入れる。
カイは口の中で音を転がしてみた。
「サクレ……ラ、リ、ル、レ、ロ……。サクラ、サクリ、サクル、サクレ、サクロ……」
ぶつぶつと呟いていたカイが、ふと顔を上げた。
「……『サクラ』。これが一番しっくりくるな」
「ほう? サクラか」
「ああ。語感もいいし、なんとなくお前の雰囲気にも合ってる」
カイがそう提案すると、リンドも満足げに頷いた。
「うむ。悪くない響きだ。貴様の名は今日から**『サクラ』**だ」
『……サクラ。個体名、登録シマシタ』
人形――サクラは、無表情ながらも、わずかに声のトーンを上げたように聞こえた。
だが、すぐに彼女は申し訳なさそうに俯いた。
『シカシ、私ハ廃棄サレタ失敗作デス。予定サレタ性能ヲ満タシテオリマセン』
「失敗作? あんなに掃除が上手いのにか?」
不思議がるカイに、サクラは自身のスペックに存在する二つの致命的な**「欠陥」**を告白しはじめた。
一つは、『料理機能の欠落』。
味覚センサーの不具合により、食材の味を認識できず、調理を行うとすべてを「黒炭」か「未知の劇薬」に変えてしまうらしい。
そしてもう一つは、『極度の燃費不良』。
試作機として高性能なパーツを詰め込みすぎた結果、魔力消費が激しく、普通の魔術師では維持できない「魔力食い虫」なのだという。
『故ニ、私ハ役ニ立チマセン。再ビ廃棄サレルノガ妥当デス』
そう淡々と告げるサクラに、カイとリンドは顔を見合わせ――ニヤリと笑った。
「料理? それは俺がやるから、お前はやらなくていい。むしろ、掃除と配膳だけ完璧にこなしてくれれば最高だ」
「魔力だと? フン、ここには竜がおるのだぞ。余の魔力など、いくら吸っても構わん。好きなだけ働け」
二つの欠陥は、このBAR【second】においては何の問題にもならなかった。
サクラは目をパチクリとさせた。
『……私ガ、必要デスカ?』
「ああ。今日から採用だ」
カイが言うと、サクラは椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
心なしか、その表情が明るく見えた。
『了解シマシタ。……デハ、直チニ業務ヲ開始シマス。マズハ環境ノ最適化ヲ』
サクラはそう言うと、まだ砂まみれだった店の入り口――リンドが開通に失敗しつづけている**『扉』**へと歩み寄った。
そして、指先から出した極細のブラシや工具を使い、扉の蝶番や縁に溜まっていた目に見えない埃や砂を、徹底的に掃除し始めた。
「あ、そこは余が魔法をかける場所だから触るな――」
リンドが止めようとしたが、遅かった。
サクラの手によって、扉は新品以上にピカピカに磨き上げられていた。
『清掃完了。……魔力回路ノ詰マリヲ除去シマシタ』
「詰まり……?」
リンドは半信半疑で杖を構えた。
さっきまで何度やっても失敗していた転移魔法だ。
掃除くらいで直るとは思えないが……。
リンドは溜息をつきつつ、ダメ元でもう一度、魔力を流し込んだ。
カチリ。
今までとは違う、何かが噛み合ったような、小気味よい音がした。
恐る恐る扉を開けると――そこには、砂漠でも泥沼でもなく、見慣れた街外れの街道の風景が広がっていた。
「……繋がった!?」
リンドが目を剥く。
なぜ繋がったのか。
リンドの術式がようやく正解を引いたのか、それともサクラの掃除が魔法的な「詰まり」すらも解消してしまったのか。
理由は定かではない。
だが、結果として扉は直った。
「おおっ! やっと繋がったか!」
タイミングよく、空間の繋がった扉の向こうから、常連客の声が聞こえた。
どうやら、これで「どこでもドア」の問題も解決したらしい。
『イラッシャイマセ』
サクラが完璧な角度でお辞儀をして、客を出迎える。
その姿を見て、カイとリンドは苦笑しながら肩をすくめた。
「……まあ、終わりよければ全て良し、か」
「フン、余の魔力のおかげということにしておこう」
こうして、BAR【second】に頼もしい(そして燃費の悪い)従業員が加わり、新しい日常が本格的に動き出したのだった。




