29-4:BAR【second】、再始動
運河の水面が、夕焼けを浴びて茜色に染まる頃。
カイは脚立に登り、石造りの館の入り口横に、一枚の看板を掲げていた。
使い込まれ、角が少し欠けた木の看板。
そこには飾り気のない文字で**『Bar Second』**と刻まれている。
「……よし。こんなもんか」
カイは脚立を降りて、数歩下がって確認した。
重厚な石造りの壁に、古びた木の看板。
不釣り合いかと思われたが、蔦が絡まる外壁の雰囲気も相まって、意外なほどしっくりと馴染んでいる。
まるで、最初からそこにあったかのように。
「ふむ。少し右に傾いておるぞ」
背後から声がした。
振り返ると、リンドが腕組みをして見上げている。
彼女はすでに「開店モード」に入っており、豪奢なドレスを完璧に着こなしていた。
「誤差の範囲だ。……さあ、時間だぞオーナー。新しい『Second』の始まりだ」
「うむ。存分に働け、店長」
カイが重い木製の扉に手をかけ、鍵を開ける。
カチリ、という硬質な音が、静かな路地に響いた。
◇
カラン、カラン。
開店と同時に、待ち構えていたように扉が開いた。
「一番乗りィ!」
ドカドカと入ってきたのは、やはりこの男、冒険者ギルドのマスター、ゼノンだった。
その後ろから、マグナス、狼人のガロ、トニオたちが続いてくる。
昨日の引越し部隊がそのまま客として雪崩れ込んできた形だ。
「へえ! 片付くとすげえな! 前の店より広くて立派じゃねえか!」
ゼノンが店内を見回して声を上げる。
元・錬金術師の工房だった店内は、天井が高く、開放感がある。
だが、照明は以前と同じく最小限に抑えられており、落ち着いた雰囲気は変わらない。
そして、客たちの視線は、ホールの隅に設置された**「煤けた煉瓦造りの暖炉」**に注がれた。
「あん? カイ、あの暖炉……前の店にあったやつか? まさか、煉瓦を崩してわざわざ移築したのかよ」
ゼノンが呆れたように尋ねる。
新品を買ったほうが早くて安上がりだ。
だが、カイは布巾でグラスを磨きながら、短く頷いた。
「ああ。……まあ、あそこじゃないと落ち着かないっていう、面倒な客もいるんでね」
カイの視線の先、暖炉の中では、薪がパチパチと心地よい音を立てて燃えている。
その炎の揺らめきの中に、黒い小さな影が楽しげに踊っているのが見えた。
彼(?)にとって、この煉瓦と煤の具合が最高の寝床なのだ。
置いていくわけにはいかなかった。
ススカミが嬉しそうに火の粉を散らすのを、視えるカイとリンドだけが目を細めて見守っている。
そして、もう一人。
カイは、カウンターのバックバーの中央に飾られた、一枚の肖像画を見上げた。
豪奢なドレスを着た、優しげな女性が描かれた絵画。
クラリッサだ。
カイは小さなグラスに極上のシェリーを注ぐと、それを絵画の前にそっと置いた。
「……場所は変わったが、ここも悪くないだろ。もしかしたら、あんたの探してる絵描きの情報も、ここなら入ってくるかもしれないしな」
小声でそう呟き、軽くグラスを掲げる。
すると、絵の中のクラリッサの目元が、ふわりと緩み、感謝するように微笑んだ――ように見えた。
それを見ていたリンドも、手元のワイングラスを絵画に向けて軽く持ち上げ、無言で乾杯を送った。
ススカミも、クラリッサも。
この店の大切な住人たちは、誰一人欠けることなく、新しい『Second』へとやってきたのだ。
◇
夜が更けるにつれ、噂を聞きつけた他の客たちもちらほらと顔を見せ始めた。
暖炉の火が爆ぜる音、グラスの氷が溶ける音、そして客たちの笑い声。
カイは忙しく手を動かしながらも、すべてが順調に回っていることに安堵していた。
◇
「――ありがとうございました」
深夜。
最後の客であるトニオを見送り、カイは重い扉を閉めた。
店内の静寂が戻ってくる。
洗い物を済ませ、カウンターを拭き上げる。いつもの閉店作業だ。
「終わったか、カイ」
奥の席で、リンドがまだ座っていた。
以前なら、ここで「ではまた明日」と言って別れるはずの時間だ。
だが、今日からは違う。
「ああ、終わったよ。……上がるか」
「うむ」
カイは店内の照明を落とし、リンドと共にカウンターの奥にある階段を上った。
二階、リビングルーム。
まだ荷物が片付ききっていない部屋だが、運河からの風が窓を揺らし、月明かりが差し込んでいる。
リンドは中央の大きなソファに身を沈め、ふぅ、と息を吐いた。
カイはキッチンから、自分と彼女のための水を持ってくると、リンドの隣――といっても、人ひとり分ほど空けた距離――に腰を下ろした。
シン、とした静寂が部屋を支配する。
一階の店舗とは違う、生活空間特有の密室感。
仕事が終わった後も、こうして隣にいる。
ふと、カイはその状況を改めて認識し、妙な居心地の悪さを感じた。
今までなら、店を出ればそれぞれの夜があった。
だが今は、同じ空間で、同じ時間を共有している。
ふと横を見ると、リンドがじっとこちらを見つめていることに気づいた。
月明かりに照らされた真紅の瞳が、どこか妖艶に潤んで見える。
「……なんだよ」
カイが誤魔化すように声をかけると、リンドは口元だけで微かに笑った。
「いや。……貴様がそうして寛いでいる姿を見るのは、新鮮だと思ってな」
リンドの視線が、カイの首元――ボタンを外して少し緩めたシャツの襟元――をなぞるように動く。
その視線に熱を感じて、カイは無意識に喉を鳴らした。
静かすぎる部屋に、衣擦れの音だけが響く。
ただ隣に座っているだけ。それだけなのに、張り詰めたような、それでいて甘く重い空気が二人を包んでいる。
「……見世物じゃないぞ」
「フン、減るものでもあるまい」
リンドは楽しげに囁くと、ソファの背もたれに深く体を預けた。
その拍子に、彼女のドレスの裾から白い脚が覗く。
「……もう寝るぞ。明日は早起きして仕込みをしなきゃならん」
カイが立ち上がると、リンドもゆっくりと立ち上がった。
二人はそれぞれの寝室の前で立ち止まる。
「おやすみ、リンド」
「うむ。……おやすみ、カイ」
いつもなら皮肉っぽく呼ぶ彼女が、不意に名前を呼んだ。
その声色が予想以上に柔らかく、カイは心臓が一つ跳ねるのを止めることができなかった。
二つのドアが閉まる音。
それぞれの部屋の明かりが消えても、カイはしばらくの間、壁一枚隔てた向こうにいるリンドの気配を、背中に感じ続けていた。




