29-3:ドラゴンとバーテンダーの引越し戦争
運河沿いに建つ、古びた石造りの館。
今日からそこが、新生『Bar Second』であり、カイとリンドの新たな城となる場所だ。
朝霧が晴れる頃、その館の前には、なぜか頼んでもいない面々が腕まくりをして集まっていた。
「おう、カイ! 聞いたぞ、やっと店が決まったんだってな!」
豪快に笑うのは、冒険者ギルドのマスター、ゼノン。
その横には農夫姿の元魔王マグナスといったいつもの面子がいる。
だが、今日はそれだけではなかった。
「ガハハ! 店長、俺の怪力が必要だろ?」
「へへっ、鍵開けや罠の解除なら、元盗賊の俺に任せな」
「あ、あの……私、魔法でお掃除くらいなら……!」
身長二メートルを超える狼の獣人、ガロ。
路地裏育ちの軽薄な盗賊、トニオ。
そして、最近店に来るようになったドジな新人魔術師、ルナ。
普段はカウンターで飲んでいる常連たちまで、なぜか勢揃いしているのだ。
「……お前ら、暇なのか?」
カイが呆れて尋ねると、獣人ガロがニカッと牙を見せた。
「馬鹿野郎、お前が店を開けてくんねえと、俺たちの喉が干からびちまうんだよ! ……あと、ほら、引越しを手伝えば、溜まってるツケを少しは負けてくれるんじゃねえかってな!」
「そういうこった。俺の技術料は高いぜ?」
要するに、彼らは「ツケの減額」と「タダ酒」が目当てなのだ。
カイは苦笑しつつ、彼らの厚意(と下心)に甘えることにした。
「分かったよ。働きぶりを見て、新店での最初の一杯くらいは奢ってやる。……よし、やるか!」
◇
かくして、常連客総出の大掃除&リフォーム作戦が始まった。
建物の構造は、地下がかつての薬品庫、一階が元工房(店舗)、そして二階が居住スペースとなっている。
まずは地下と一階の掃除だが、不動産屋が言っていた「前の住人(錬金術師)が残した仕掛け」は、伊達ではなかった。
「うおっ!? なんだこれぇぇ!?」
地下倉庫を掃除していたゼノンが悲鳴を上げる。
彼が不用意に開けた木箱から、ヌルヌルとした緑色の触手が無数に飛び出し、ゼノンの屈強な肉体に絡みついたのだ。
「ちょ、助けろ! この粘液、服が溶ける!?」
「動くなゼノン! 俺がやる!」
狼人ガロが飛び込み、自慢の爪で触手を引きちぎる。
その横で、新人魔術師のルナが、興味津々といった様子で棚の上の小瓶に手を伸ばした。
「わぁ、綺麗な色の小瓶……これ、ポーションでしょうか? 拭いておきますね、キュッキュッ――」
ボンッ!!
ルナが瓶を磨いた拍子に、ピンク色の煙が爆発した。
煙が晴れると、そこには見事なアフロヘアになり、顔面を真っ黒にしたルナが涙目で立ち尽くしていた。
「……うぅ、前が見えません……」
「おいトニオ! 盗賊なら先に罠を見つけろよ!」
カイが怒鳴ると、盗賊トニオは肩をすくめた。
「いやぁ、魔法の罠は専門外でね」
ドタバタと騒がしい一階。
そんな中、リンドはどうしているかと言えば。
片付いたスペースに豪奢な椅子を置き、優雅に脚を組んでカイが淹れた紅茶を飲んでいた。
「ふむ。ゼノン、腰が入っておらんぞ。ガロ、壁を壊すな。……マグナスよ、余の風呂はどうなった?」
「ああ、完璧だ。石を組み直して、ろ過装置も自作しておいた。湯加減の調整も魔石で自動化済みだ」
元魔王、有能すぎる。
彼だけはトラブルとは無縁に、裏庭をあっという間に最高級の露天風呂へと改造していた。
◇
夕方になり、常連たちが「じゃあな店長! オープン楽しみにしてるぜ!」と嵐のように去った後。
一階の店舗と、地下のセラー兼倉庫は見違えるように片付いていた。
だが、まだ戦いは終わっていなかった。
二階、居住スペースでの**『部屋割り戦争』**である。
二階には四つの部屋がある。
1.運河に面した、日当たりも眺めも広さもある最高な部屋。
2.通りに面した、そこそこの広さの部屋。
3.残りの二つは、物置程度の小部屋。
争点は当然、運河沿いの「一番いい部屋」だ。
その部屋の前で、リンドが仁王立ちしていた。
「ここを余の寝室とする」
「待て。そこは俺が使う」
即座にカイが待ったをかける。
リンドは不愉快そうに真紅の瞳を細めた。
「あ? 余はこの店のオーナーだぞ? 金を出した余が、一番良い部屋を使うのは道理であろう」
「なら、あの時の**『飲み比べ』はどうなる。勝ったのは俺だ。理屈で言えば俺が『主』**だろうが」
カイが切り札を切る。
かつて二人で行った、主従を賭けた勝負の記憶だ。
だが、リンドは悪びれる様子もなく、ニヤリと笑った。
「ククク、そうであったな主殿。だが、ここはビジネスの世界だ。古臭い勝負の結果より、今ここで金を出したオーナー権限の方が強い!」
「……金で解決かよ」
「不服か? ならば力で決めるか? 余は構わんぞ」
リンドの背後に、揺らりと赤い闘気が立ち昇る。
カイは一瞬、腰の剣に手を伸ばしかけ――磨き上げたばかりの床と、修理したての窓枠を見て、深いため息をついた。
「……やめだ。ここでやり合ったら、新居が瓦礫の山になる」
「賢明な判断だ。命拾いしたな、主殿」
リンドは上機嫌で喉を鳴らす。
こうして、あっさりと勝負はついた。
カイは肩をすくめ、隣の部屋へと向かった。
「へいへい。……じゃあ、俺は通り沿いの部屋を使う。残りの小部屋二つは客用と物置だ」
◇
夜。
荷解きもそこそこに、少しだけ家具が運び込まれたリビング。
窓からは、月明かりに照らされた運河の水面が揺れているのが見える。
繁華街の喧騒は遠く、風の音と水音だけが聞こえる静かな夜だ。
カイは二つのグラスにバーボンを注ぎ、一つをソファに座るリンドに手渡した。
「……引越し祝いだ。何とか今日中に終わったな」
「うむ。騒がしい一日であった」
リンドはグラスを傾け、満足げに真紅の瞳を細める。
昨日までは、店が終われば「お疲れ様」と言って別々の家に帰っていた。
だが、これからは違う。
この一杯を飲み干した後も、二人は同じ屋根の下にいるのだ。
「……前の店より、少し広くなったな」
カイが部屋を見渡して言うと、リンドはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「広かろうが狭かろうが、貴様の作る酒が飲めるなら、城としては及第点だ」
「そりゃどうも」
カイは苦笑して、自分のグラスをリンドのグラスに軽く当てた。
カチン、と澄んだ音が、何もない部屋に響く。
「これからよろしく頼むよ、オーナー」
「フン、精々余を楽しませよ、主殿」
勝負上の主と、経済上の主。
奇妙にねじれた関係の二人が住まう、新生『Bar Second』の最初の夜は、静かに更けていった。




