29-1:厄日は三度、扉を叩く
ポタ、ポタ、ポタ。
薄暗い店内に、気の抜けた水音が響いている。
それはシェイカーを振る音でもなければ、氷がグラスに当たる涼やかな音でもない。
天井のシミから滴り落ちた雨水が、カウンターの上に置かれたブリキのバケツを叩く音だった。
「……ひどいな、こりゃ」
カイは眉間を揉みほぐしながら、天井を見上げた。
昨晩、アステルを襲った激しい雷雨は去ったが、BAR【second】に遺した爪痕は深かった。
カウンターの中に入り、足元の床板を踏むと、グシャリと湿った嫌な音がして、木材が脆く沈み込む。
長年の湿気と、昨夜の豪雨。
それにどうやら、シロアリの仕事も加わっているらしい。
カラン、と扉が開く。
入ってきたのは客ではなく、この建物の持ち主である初老の男性だった。
彼はバケツだらけのカウンターを見て、申し訳なさそうに肩を落とした。
「すまないねぇ、カイさん。朝一番で大工に見せたんだが……」
「ああ、やっぱりダメですか?」
「土台の柱が腐っちまっててね。いつ崩れてもおかしくないそうだ。……本当に急ですまないが、今月いっぱいで取り壊すことになった」
家主の言葉は、実質的な**『退去勧告』**だった。
カイは深いため息をつきながらも、家主を責める気にはなれなかった。
この路地裏の建物が限界を迎えているのは、誰の目にも明らかだったからだ。
「分かりました。……今まで、安く貸してくれて感謝してますよ」
「そう言ってもらえると助かるよ。……本当にすまないねぇ」
家主が去った後、カイは空っぽのグラスを磨きながら、ガランとした店内を見渡した。
今月いっぱい。つまり、あと十日もしないうちに、この場所はなくなる。
次の物件を探さなければならないが、この路地裏の雰囲気と家賃に見合う場所など、そう簡単に見つかるものではない。
「……とりあえず、一旦帰って頭を冷やすか」
まだ開店時間には早い。
カイは気分転換も兼ねて、昼食をとりに自分のアパートへ戻ることにした。
◇
カイの住むアパートは、店から歩いて十五分ほどの、下町にある木造の集合住宅だ。
独り身の男が寝に帰るだけの場所としては十分だったが、ここも築年数はかなり古く、隙間風が友達のような場所だ。
アパートの入り口にある郵便受けを覗くと、一通の分厚い封筒が入っていた。
差出人は『王都都市開発局』。
表には赤字で**【重要】**とスタンプが押されている。
「……嫌な予感がするな」
部屋に入り、封を開ける。
中から出てきたのは、役所特有の堅苦しい文面で書かれた通告書だった。
『拝啓 アステル市民の皆様におかれましては――』
長ったらしい前置きを飛ばして要点を読む。
内容は**『老朽化した建造物の撤去、および新規住民向け集合住宅の建設事業について』**
要するに、このボロアパートを含む一帯を取り壊し、新しくて綺麗な――そして家賃も高いであろう――住宅街に作り変えるという計画だ。
『つきましては、本計画に伴う立ち退きにご協力をお願い申し上げます。なお、着工は来春を予定しておりますが――』
カイは手の中の紙を見つめたまま、ふぅ、と息を吐いた。
来春。
まだ半年以上の猶予はある。
今すぐ追い出されるわけではない。
だが、「いずれ確実に追い出される」ことが決定したわけだ。
「……店は今月終わり。家も遠くないうちに終わり、か」
職場は即座に消失。
自宅も余命宣告済み。
生活の基盤が足元からガラガラと崩れていくような感覚に、カイは苦笑するしかなかった。
この際だ。
店の移転に合わせて、こっちも早めに引き払ってしまうのが賢いかもしれない。
二回も引越しの手続きをするなんて御免だ。
◇
夕方。
重い足取りで店に戻ってきたカイは、店の前で立ち尽くしている人影を見つけた。
銀色の髪に、豪奢なドレス。
見間違えるはずもない、この店のオーナー、リンドだ。
しかし、様子がおかしい。
いつもなら優雅に扇子を使っている彼女だが、今日はドレスの裾が焼け焦げ、美しい銀髪も煤で黒ずみ、頬には灰がついている。
「……どうした、リンド。焼き討ちにでもあったか?」
カイの冗談に、リンドはいつもの不敵な笑みを浮かべることもなく、真顔で頷いた。
「うむ。隣の家の魔術師が実験に失敗してな。大爆発じゃ」
「は?」
「余の寝床……借りていたあの屋敷まで火が回った。全焼じゃ」
カイは言葉を失った。
リンドは煤けた顔をハンカチで拭いながら、つまらなそうに続ける。
「幸い、余のコレクションや家財道具は『収納』に入れて持ち出したが……帰る家が物理的に消滅した。宿屋は狭くて匂いがつくから嫌だ。カイ、貴様の部屋に泊めろ」
当然の権利のように言い放つリンド。
カイは頭を抱えたくなった。
店はない。
リンドの家もない。
そして自分のアパートは……まあ、あるにはあるが、いずれなくなるし、何よりリンドのようなワガママなドラゴンを満足させる設備なんて何一つない。
「……悪いが、俺の部屋も近いうちに都市計画で取り壊しだ。まだ猶予はあるが、お前が気に入るような風呂もなければ、客間もないぞ」
「なんと。……では、余に野宿せよと言うのか?」
リンドが不機嫌そうに目を細める。
カイは、雨漏りする天井を見上げ、次に手元の『都市計画の通知書』を見つめ、最後に目の前の煤けたドラゴンを見た。
店は探さなきゃならない。
家も、どうせいずれ探さなきゃならない。
リンドの家は、今すぐ必要だ。
……別々に動くのは、あまりにも非効率だ。
「……なぁ、リンド。新しい店を探して、俺の新居を探して、さらにあんたの新しい屋敷を探す。三つ別々に探して契約するなんて、あまりに面倒だと思わないか?」
「うむ、面倒だ。余は人間界の手続き事など大嫌いじゃ」
「なら、話は早い」
カイは覚悟を決めたように言った。
「**『店舗兼住居』**を借りよう。一階を店にして、二階を俺たちの住処にする。それなら探す物件は一つで済むし、家賃も折半できる。俺の引越しも一度で済む」
リンドはきょとんと目を丸くした。
真紅の瞳が、カイの真意を探るように細められる。
やがて、彼女はニヤリと、いつもの傲岸不遜な笑みを浮かべた。
「ほう……下僕の分際で、余と同じ屋根の下に住もうとは。いい度胸ではないか」
「嫌ならいいんだぞ。俺は適当な安宿を探すから」
「よい。許可してやろう」
リンドは煤けたドレスを払うと、鷹揚に頷いた。
「ただし、条件がある。余の鱗が乾かぬよう、足が伸ばせる広い風呂があること。そして、日当たりが良いことだ。……それが満たされるなら、貴様の作る朝食を毎日食べるのも、悪くはない」
カイは苦笑いして、雨漏りを受け止めるバケツの横に、自分と彼女のためのグラスを置いた。
「……交渉成立だな」
こうして、全てを失った(あるいは失う予定の)二人の、新たな拠点を巡る物件探しが幕を開けることになった。




