28:愚痴の行方
その日のアステルは、朝から妙に騒がしかった。
普段は見慣れない王都の紋章をつけた衛兵や、物々しい鎧に身を包んだ騎士たちが、隊を組んで路地裏まで捜索を行っている。
街全体が、ピリピリとした緊張感に包まれていた。
その影響は、BAR【second】もまともに受けていた。
カイが夕刻に店の扉を開けても、いつもの常連客たちさえ顔を出さない。
たまに扉が開くかと思えば、捜索中らしい衛兵が「失礼する。怪しい人物を見なかったか?」と、苛立った様子で中を覗き込む。
カイは、そのたびに気だるげにカウンターの中を顎でしゃくった。
「見ての通りだが。この狭い店に、誰か隠れられるとでも?」
無言でそう尋ね返すと、衛兵たちはカウンターの奥に鎮座するリンドの、値踏みするような視線に気圧され、「し、失礼した……」と困ったように店を後にしていく。
これが、今夜に入ってから、もう五回は続いている。
「……今日はもう店じまいにするか」
カイがそんなため息をついた、まさにその時だった。
カラン、と控えめに扉が開き、くたびれた外套を目深にかぶった、初老ほどの男性が入ってきた。
彼は、店内の様子を一瞥すると、カイの顔を見て、わざとらしい猫なで声で言った。
「おや、カイちゃん、お店やってるぅ? 相変わらず暇そうだねえ」
カイは、その声に今日一番深いため息をついた。
「……リチャードさんか。頼むから、他の客がいる時はその呼び方やめてくれって言っただろ」
一方、カウンターの奥のリンドは、この珍しい来客に目を輝かせている。
「おお、リッキーではないか! 生きておったか、久しぶりじゃのう!」
「やあ、リンド様。相変わらずお美しい。このシワシワの爺とは大違いだ」
リチャードと呼ばれた男は、外套を脱ぎながら、軽口で返す。
その風貌はどこにでもいそうな、人生に少し疲れた初老の男性にしか見えない。
カイは、何も注文を聞かず、彼専用の――カウンターの棚でも一際目立つ、職人の手による最高級のカットグラス――を取り出した。
まず、チェイサーと、素朴だが手の込んだお通し――マグナスが持ってきたラデイルを使ったピクルス――を出す。
リチャードは、カイが酒を注ぐ間、リンドと楽しげに昔話や、インキュバスが流行らせたナッツブームのことなど王都の最近の流行りについて、軽妙な会話を交わしていた。
カイが、琥珀色のエールが完璧な比率で注がれた専用グラスを差し出すと、リチャードはそれを一口飲み、心の底から満足したように息を吐いた。
「……ああ、これだ。これのために、わざわざ抜け出してきたようなもんだ」
リンドとの話をひとしきり終えると、彼は向き直り、今度はカイに対して堰を切ったように愚痴をこぼし始めた。
カイが「そういや、外の連中、誰かお偉いさんを探してるみたいだったぜ。今日は一段と厳重だ」と伝えようとしたが、リチャードはそれを手で遮った。
「聞け、カイ! もう我慢ならん! あの堅苦しい連中はな、『お立場というものが』だの『威厳を保たねば』だの、朝から晩までうるさくてかなわん! 先日の大規模な式典が無事に終わったのは、一体誰のおかげだと思っておるのだ! こちとら、ちっとは息抜きがしたいだけだというのに!」
彼は、まるで子供のように足をばたつかせる。
どこかの屋敷の執事か、あるいは厳格な家長に管理されている隠居老人のような口ぶりだ。
「だいたい、あの農家のマグナスとかいう男! お前から『いつでも相談に乗る』などと伝言を寄越されて、親族会議……いや、議会がどれだけ紛糾したか分かっておるのか! 『あの方は例の魔王と繋がりがあるのでは!』だぞ! 冗談ではないわ!」
「ああ、もう疲れた! あんな責任重大な仕事、辞めてしまいたい! いっそこの店で副店長として雇ってくれんか、カイちゃん!」
カイが「あんたみたいな給料泥棒、雇うわけねえだろ」と、リチャードの愚痴を適当にあしらっている、その時だった。
バァン!!
店の扉が勢いよく開き、捜索で疲れ切った衛兵の一人が飛び込んできた。
彼は店の中央で愚痴をこぼしているリチャードの姿を認め、顔面蒼白になる。
「た、大変だ! いらっしゃったぞ!」
慌てた様子で仲間を呼ぶ衛兵。
すぐさま、店の外を固めていた騎士団の隊長格が、重厚な甲冑を鳴らして店になだれ込んでくる。
店内は一触即発の空気に包まれた。
リチャードのような老人が捕まれば、ただでは済まないだろう。
しかし、騎士隊長は、カウンターで酒を飲んでいるリチャードの前まで来ると、その場でガシャンと音を立てて片膝をつき、深く頭を垂れたのだ。
「陛下!! このような場所におられましたか! どれほどお探ししたことか……! さあ、城へお戻りください!」
店内にいた衛兵たちも、一斉にその場に跪く。
その光景に、くたびれた外套の老人は――いや、国王リチャードは、盛大にため息をついた。
「……ああ、見つかったか。せっかく、一番いいところだったというのに」
彼は名残惜しそうに、飲みかけだったエールのグラスを掴み、一気に飲み干した。
そして立ち上がり、再びくたびれた外套を羽織る。
その所作には、先ほどまでとは違う、隠しきれない威厳が漂っていた。
「すまんな、カイ。少し愚痴を話せて楽になったわい」
そして、リンドに向き直る。
「リンド様も、お達者で。今度はぜひ、城の方へ。堅苦しい場所だが、酒だけは良いものを揃えておるゆえ」
「フン、気が向いたらな。達者でな、リッキー」
リンドは、相手が国王であろうと変わらず、楽しそうに手を振った。
リチャードが騎士たちに厳重に守られながら店を出ていくと、入れ替わるようにして、息を切らした侍従が一人、カウンターの前に進み出てきた。
彼はカイとリンドに深々と頭を下げた。
「この度は、主がご迷惑をおかけいたしました。心より、感謝申し上げます」
そう言って、小さな金袋をカウンターに置く。
カイは、その金袋を受け取りながら、ため息混じりに侍従に告げた。
「来るのが早すぎるんだよ。どうせ、この店にいるのは分かってたんだろ。あのおっさん、かなり溜まってたぞ。もう一時間くらい、ゆっくりさせてやれなかったのか」
侍従は、カイの言葉に、心底困り果てたような顔で、再び深々と頭を下げることしかできなかった。




