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BAR【second】~路地裏の交差点へ、ようこそ~  作者: 水縒あわし


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27:伝説の酒と店長の包丁



 その日のBAR【second】は、昼下がりの穏やかな陽光が差し込む中、珍しく学術的な雰囲気に満ちていた。



 いや、満たそうと努力している客が一人だけ、カウンターに陣取っていた。



「……なるほど。この淡い翠色は、月光花の蜜に微量の銅イオンが反応した結果か……。だが、この粘性を維持しつつ、揮発性の芳香を閉じ込める理論が……ぶつぶつ……」


 錬金術ギルドの学生フィリアが、カイの作ったノンアルコールカクテルを前に、魔力分析用のルーペを覗き込みながら、難解な理論を呟き続けている。


彼女にとって、カイの作る飲み物はすべてが未知のポーションだった。



 カイは、そんな彼女の独り言をいつものように聞き流し、夜の仕込み用の野菜を淡々と刻んでいた。


その時、その静寂を破ったのは、店の扉が勢いよく開け放たれた音だった。



「カイさーん! 大変だ! 大変だぞー!」


 息を切らして駆け込んできたのは、ギルド公認の運び屋、ミーナだった。


彼女の目には、獲物を見つけた狩人のような、あるいは、食べ放題のビュッフェ会場を見つけたかのような、強烈な輝きが宿っている。



「どうした、騒々しい。そんなに腹が減ってるのか」


「それもあるけど、違う! これだ!」


 ミーナは、カイの気だるげな返事を遮り、一枚の大きなポスターをカウンターに叩きつけるように広げた。



『開催決定! 第一回アステル料理コンテスト!』



 派手な見出しと共に、優勝賞品らしき豪華な料理の数々が描かれている。



「アステルの広場で、今週末に開かれるんだ! 屋台もいっぱい出るって! カイさんもこれに出るだろ!?」


「なんで俺が。うちはバーだ。飯屋じゃねえ」


 カイは、ポスターを一瞥しただけで興味を失い、再び手元の作業に戻る。


その反応は想定内だったのか、ミーナは「ふっふっふ」と得意げに笑うと、ポスターの隅、小さな挿絵の部分を指さした。



「優勝賞品は、これだ!」


 そこに描かれていたのは、星屑を溶かし込んだかのように淡く輝く液体が満たされた、小さな酒瓶の絵だった。



『優勝賞品:幻の酒――星降りのほしふりのしずく



 その文字列が視界に入った瞬間、それまでカウンターの奥で退屈そうに爪を眺めていたリンドの動きが、ぴたりと止まった。



 彼女は音もなく立ち上がると、ポスターを覗き込む。


その宝石のような碧眼が、信じられないものを見るかのように、カッと見開かれた。



「……小僧。これは……これは、『神々の雫』ではないか……!」


 リンドの声には、いつもの尊大さとは違う、焦燥と渇望が入り混じった熱がこもっていた。



「数千年前、まだこの大地が煮えたぎっておった頃……。儂があの火口で、ただの一度だけ口にした、幻の酒じゃ……! あれが、なぜこんな場所に……!」


 次の瞬間、リンドはカイの両肩を掴んでいた。


その指先には、獲物を逃がすまいとする古龍の膂力が込められている。



「出場するぞ、小僧」


 それは、店のオーナーとしての命令ではなかった。


ただの酒好きが放つ、純粋で強欲な、絶対の宣言だった。



「あの酒は、儂のものじゃ」



(……また、厄介事が増えた……)



 カイは、肩に食い込む指の痛みと、すでに面倒なことになった未来を予感して、誰にも聞こえない深いため息をついた。



 コンテスト当日。


アステルの中央広場は、これまでにないほどの熱気に包まれていた。



 香ばしい肉の焼ける匂い、スパイスの刺激的な香り、そして人々の歓声が混じり合い、祭りの喧騒を作り出している。



 カイは、その一角に設けられた特設調理台の前に、心底不本意といった顔で立たされていた。


隣では、リンドが「あの酒はまだか」と、子供のようにそわそわしている。



 カイが周囲を見渡すと、そこには見慣れた顔が奇妙な配置で揃っていた。



「ふははは! カイ殿! まさか貴殿も出場するとはな!」


 カイの数台隣で、ひときわ巨大な調理台を占拠し、凄まじい威圧感を放っているのは、農夫姿の元魔王、マグナスだった。


彼の台には、闇を凝縮したかのような『闇属性トマト』や、光り輝く『光属性トウモロコシ』が、山と積まれている。



「料理の腕も結構だが、今日は素材の『格』が違うということを、我が野菜たちで教えてやろう!」


 一方的にライバル視され、カイはますます顔をしかめる。



 そして、その勝負を裁く審査員席。



「……なぜ私が、こんな公衆の面前で……」


 貴族代表として無理やり担ぎ出されたらしいイザベラが、完璧な笑みの仮面の下で小さくため息をついている。



「……俺の胃が……すでに痛い……」


 ギルド代表として座らされたゼノンは、始まる前からすでにこめかみを押さえていた。



 さらに、一般試食コーナーの最前列。



 そこには、マイ皿とマイフォークを両手に構え、いつでも走り出せる体勢のミーナと、その隣で「今日のターゲットは、甘味系屋台三軒、メイン屋台五軒」と冷静に分析しているノインの姿があった。



 開始のゴングが鳴り響く。



『お題は! アステル近郊の食材を使った、自由な発想の一皿です!』


 その声と共に、マグナスが動いた。



「見よ! 我が魔導農法が育てたトマトの力!」


 彼はトマトを無駄に高く放り投げると、掌から放った小さな火球でそれを瞬時に焼きトマトにするという、調理というより曲芸に近いパフォーマンスを始めた。



 他の料理人たちも、それぞれの自慢の腕を振るい始める。



 そんな中、カイの調理台の上には、アステルの市場で今朝仕入れたばかりの、平凡な野菜と鶏肉しか並んでいなかった。



(……おかしい。師匠ほどの人物が、あの平凡な素材から『未知のポーション(料理)』を生み出すというのか……?)



 会場の隅、木陰からフィリアが双眼鏡でカイの手元を食い入るように見つめている。



(理論が追いつかない……! 一体、何を触媒にして『分解』と『再構築』を……!)



 その時、カイがリンドにだけ聞こえる声で呟いた。



「おい、例のやつを」


「うむ、待っておったぞ」


 リンドの口元に、楽しそうな笑みが浮かぶ。



 彼女は「少し風に当たってくる」と、会場の物陰にすっと消えた。


店のバックヤードにある『秘密の扉』を使い、二人がかつて死闘を繰り広げた、あの火山の火口へと飛ぶために。



 わずか数十秒後。



 何事もなかったかのように戻ってきたリンドの手には、アステルの人々が見たこともない食材が握られていた。



 地熱だけで育った、傘が淡い光を放つ『溶岩キノコ』。



 そして、マグマの近くでのみ自生するという、強烈な芳香を放つ『火口ハーブ』。



 反則級の食材が調理台に置かれた、その瞬間。



 カイの雰囲気が変わった。



 面倒くさそうなバーテンダーの顔が消え、かつて最強と謳われた剣士の、研ぎ澄まされた集中力がその身を支配する。



 トトトトトトトッ!



 包丁を握ったカイの手が、常人には目で追えないほどの速さで動き始めた。



 それは乱暴な力任せの速さではない。


野菜の繊維の一本一本を見切り、素材が持つポテンシャルを最大限に引き出すための、完璧な精度を持った剣戟。



 鶏肉が、まるで最初からそうであったかのように均一な大きさに切り分けられ、溶岩キノコが、その香りを最も引き立てる薄さにスライスされていく。



 それはもはや料理ではなく、一つの「型」を見ているかのような、流麗な演舞だった。



 やがて、火口ハーブがフライパンに加えられた瞬間、それまで会場を支配していた他の料理の匂いを全て塗りつぶすような、芳醇で、しかしどこか猛々しい香りが、広場全体に爆発的に広がった。



 カイが完成させた一皿は、驚くほどシンプルだった。



 鶏肉とキノコのソテーに、ハーブのソースをかけただけ。



 だが、その一皿が審査員席に運ばれた時、ゼノンはまず、その香りを吸い込んだだけで、長年彼を苦しめていた胃痛がすっと消えていくのを感じた。



「こ、これは……」


 恐る恐る一口、フォークで運ぶ。



 次の瞬間、ゼノンの脳裏には、故郷の雄大な山々と、温かい暖炉の記憶が駆け巡った。



「う、美味い……! 美味すぎる……!」


 隣のイザベラも、その一口を運び、貴族令嬢として完璧に保ってきた仮面が、音を立てて崩れ落ちた。



「……ああ……。こんな……こんな充足感が、この世にあったなんて……」


 彼女は、人目もはばからず、恍惚とした表情で二口、三口と皿を貪っている。



 試食コーナーでは、ミーナとノインが、無言で天を仰いでいた。


ミーナは感涙にむせび、ノインは「……スイーツハンターから、グルメハンターに転向する」と静かに決意を固めていた。



 結果は、火を見るより明らかだった。



 カイの圧勝。



 マグナスは「むう……! この野菜の敗北ではない! カイ殿の、あの不可解な調理法が、我が野菜のポテンシャルを上回っただけのことだ!」と、潔いのか負け惜しみなのか分からない台詞を残して、リベンジを誓っていた。



 カイは、審査員から渡された優勝賞品『星降りの雫』を、まるで興味がないかのように、待機していたリンドへと放り投げる。



「ほらよ。約束の酒だ」 


「うむ! よくやった、小僧!」


 リンドは、数千年ぶりの再会に打ち震えながら、栓を開けると、そのままラッパ飲みを始めた。


その表情は、まさに至福。



 その光景を、フィリアだけが、遠くの木陰で一人、わなわなと震えながら見つめていた。



(ま、間違いない……! あの食材、魔力炉に匹敵するほどの膨大な熱量を内包していたわ……!)



(そして、あの包丁さばき……。あれは、錬金術師が追い求める秘儀、『万物の分解』と『概念の再構築』そのもの……!) 



(師匠は……カイ師匠は、やはり料理という行為に偽装して、神の領域の錬金術を……!)



 またしても新たな、そして決定的な誤解を深めた自称・弟子の姿に気づくこともなく、カイは、ようやく手に入れた静寂の中で、いつもの疲れた顔で深くため息をついた。



「……やっと、帰れる」



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