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25:リンドの肖像画と、描かれたくない理由



 【マエストロ・アントニオ】



 王都の喧騒を離れ、筆休めに訪れた地方都市アステル。


マエストロ・アントニオは、古びた石畳の通りを漫然と歩いていた。


皇帝陛下のお抱えとして、数多の貴顕を描き続けてきた彼の指は、しかし近年、かつての輝きを失いかけていた。


完璧でなければならぬ――その重圧が、魂を蝕み、描くべき『美』を見失わせていたのだ。



 何か、心を揺さぶるものを。


ありふれていても、真実の輝きを持つものを……。



 彼は街角にイーゼルを立て、スケッチブックを広げた。


だが、鉛筆は虚しく白い紙の上を滑るだけだった。



 その時だった。



 ふと視界の端を横切った光景に、アントニオは息を呑んだ。



 少し気だるげな表情の黒髪の青年と、その隣を歩く、銀色の髪の女。



 女の美しさは、常軌を逸していた。


陽光を受けて絹のように輝く長い髪。


人間とは思えぬほど完璧に整った顔立ち。


そして何より、その佇まい。


数千年の時を経た古木のような、あるいは夜空に輝く星々のような、侵しがたい威厳と、儚さが同居している。



 青年が何か重そうな荷物を持って「だから重いと言ってるだろ」とぼやくと、女は「フン、これくらい持てんでどうする、軟弱者め」と、鈴を転がすような声で、しかし棘のある言葉を返す。


憎まれ口を叩き合っているが、その距離感、視線の交わし方には、長い年月を共に過ごした者だけが持つ、気安さと深い信頼が滲んでいた。



 女がふと見せた、青年に向けられた柔らかな表情の、その一瞬のギャップ。



 描かねば……!



 アントニオの枯れかけていた芸術家魂が、激しく燃え上がった。


我が生涯を懸けてでも! あの『真実の美』を、この世に留めねば!



 衝動的にスケッチブックを取り落とし、慌てて二人を追うが、彼らはすぐに雑踏に紛れて見失ってしまう。


彼は諦めきれなかった。「黒髪の青年と、銀色の髪をした、この世のものとは思えぬほど美しい女性」の情報を求めて、街の人々に聞き込みを開始する。



 そして夕刻、彼はついに目的地へとたどり着いた。



「ああ、それなら路地裏にある『Bar "Second"』の無愛想な店長さんと、その店の美人オーナーのことじゃないか? いつも仲が良さそうに言い合ってるよ」


 期待と興奮に胸を高鳴らせながら、アントニオはその古びた扉を開けた。



 【Bar "Second"】



 店に入ったアントニオは、カウンターの奥で優雅に酒を飲む、あの銀髪の女性――リンドの姿を認め、確信した。


彼は感激のあまり震えながらリンドに近づき、深々と頭を下げて懇願した。



「やはり…! マダム! 昼間お見かけした時から、私の魂は貴女に奪われてしまった! どうか、どうかこの私に、貴女の肖像画を描かせてはいただけませんか! 我が芸術人生の集大成として、生涯の最高傑作を約束いたします!」


 その、貴族さえも断れないであろう、高名な画家の情熱的な申し出に対し、リンドは普段からは考えられないほど、冷たく、そしてきっぱりと拒絶した。



「断る。儂は絵に描かれるなど好かぬ」


 その声には、単なる気まぐれではない、何か根源的な拒絶の響きがあった。



 初めての完全な拒絶に戸惑いながらも、アントニオの芸術家としての情熱は、むしろ逆境によってさらに燃え上がる。



「なぜです!? 貴女の美は、後世に伝えられるべき人類の宝なのですぞ!」


 それから数日間、アントニオは毎日店に通い詰めた。


最高級の宝石、帝国の爵位、名誉、考えうる限りの報酬を提示し、リンドを説得しようと試みる。


しかし、リンドは全く取り合わず、ただ退屈そうに欠伸をするだけだった。



「諦めろよ、じいさん。うちのオーナーは頑固なんだ」



 カイの仲裁も、老画家の情熱の前には無力だった。


リンドの苛立ちは日増しに募り、店の空気が重くなっていく。



 その夜、アントニオも帰り、カイが一人で店じまいをしていると、壁の絵画からクラリッサが話しかけてきた。



「カイ様…あの画家の方、今日もいらしてましたね」


「ああ、しつこい爺さんだ」


「あの画家の視線…ただならぬものを感じます。まるで、魂の奥底まで見透かそうとしているかのよう…。描かれた存在として、少し、怖いくらいに…」


 カイは、クラリッサの言葉と、ここ数日のリンドの尋常でない苛立ちの理由を結びつけ、アントニオがリンドにとって危険なものである可能性を察した。



 翌日、再び店を訪れ、懲りずにリンドを説得しようとするアントニオに対し、カイが静かに声をかける。



「じいさん、あんたに話がある」


 カイはアントニオをカウンターに座らせ、リンドから少し離れた場所で話し始めた。



「あんたの腕は確かだ。それは認める。だが、うちのオーナーを描くのは諦めてくれ。あれには…描かれたくない理由があるんだよ」


 カイは、アントニオの芸術家としてのプライドを尊重しつつも、きっぱりと告げる。



「あんたの執念は、あんた自身にも、うちのオーナーにも、良くない結果を招く。だから、手を引いてくれ」


 アントニオは、カイの真剣な目を見て、単なる我儘ではない、何か深い事情があることを悟る。


彼は、数日間の自分の行動が、ただの迷惑行為でしかなかったことをようやく理解し、深く頭を下げる。



「……申し訳ありませんでした。私の情熱が、皆様にご迷惑をおかけしたようです。どうか、お許しいただきたい」


 カイは、謝罪を受け入れると、壁に飾られたクラリッサの絵画を指さした。



「迷惑かけた代わりに、一つ頼まれてくれ」


 カイは、クラリッサが絵画に宿った意思であり、自分を描いた主を探していることを簡潔に説明する。



「こいつは、あんたと反対の『描かれた存在』だ。あんたほどの画家なら、この絵に込められた想いや、描き手の癖から、何か分かるかもしれねえだろ?」


 アントニオは、絵画の異質さと、そこに込められた切ない想いを感じ取り、画家の血が騒ぐのを感じる。



「……分かりました。この絵の作者…心当たりを探してみましょう。もし何か分かれば、必ずこの店に知らせに来ます」


 アントニオは、リンドに改めて謝罪すると、今度こそ潔く店を去っていった。



 店には、いつもの静寂が戻る。



 リンドが「…余計なことを」と呟くが、カイは「あんたは今だけ見ていればいい。昔のことも先のことも今は考えなくていいさ」とあっけらかんと返す。


壁のクラリッサは、絵の中から安堵したように、そして少しだけ期待を込めてカイを見つめている。



 カイは、店の隅に立てかけられていた「本日休業」の札を手に取り、そこに小さく書き加えた。



『写生・スケッチ禁止』



 BAR【second】の秘密は、今日も路地裏の奥、静かな闇の中に守られたまま、夜が更けていく。



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