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3:ギルドマスターの胃痛と虹色の勘違い



 静かな夜だった。



 店内に満ちるのは、低く流れるジャズの音色と、古い木材が放つ落ち着いた香りだけ。


カイはカウンターの内側で黙々とグラスを磨き、オーナーであるリンドは、定位置である一番奥の席で静かに本を読んでいた。


針の落ちる音さえ聞こえそうな、穏やかな静寂。



 その静寂は、店の扉にかけられたベルが重々しく鳴ったことで破られた。



 入ってきたのは、まるで全身で疲労を体現したかのような、厳つい顔つきの男。


その肩には、一つの街の冒険者たちを束ねるという重圧が、目に見えるかのようにのしかかっている。


冒険者ギルド・アステル支部長、ゼノンその人だった。



 彼はカウンターに深く腰掛けるなり、まるで呪文でも唱えるかのように、こめかみを強く押さえた。



「……カイ、いつものやつをくれ」


 絞り出すような声に、カイは磨いていたグラスを置き、やれやれと肩をすくめる。



「いらっしゃい、ゼノンさん。また胃を押さえて。あんたも本当に好きだねえ、その胃の痛くなる役職が」



 軽口を叩くカイ。



 その時だった。



 それまで物語の世界に没頭していたはずのリンドが、本から目を離さないまま、くすりと喉の奥で笑った。



「人間の男というのは面白い。そうやって眉間に皺ばかり寄せていると、頭の森が枯れて、やて砂漠になるというのに。……禿げるぞ、小僧の先輩とやら」


 その言葉は、まるで鋭い矢のようにゼノンの心臓を射抜いた。



 彼はギクリと肩を震わせ、まるで確かめるかのように、無意識に自分の頭頂部へと手をやる。


そして、百戦錬磨の元冒険者とは思えないほど弱々しい声で、悲痛な表情を浮かべた。



「……リンド殿。心做しか最近、分け目が寂しくなってきた自覚があるんだ。頼むから、その真実を口にするのはやめてくれ……」


「あんたも大変だな」


 カイは心底同情したように苦笑しながら、カウンターの後ろの棚から一本のボトルを取り出す。


胃に効くという数種類のハーブを漬け込んだ、自家製の薬草酒。


琥珀色に輝く液体がグラスに注がれると、ゼノンはそれをひったくるように掴み、一気に呷った。



「……っはあ……」


 喉を焼くアルコールと共に、薬草の香りが鼻腔を抜けていく。


ゼノンは深く、長い溜息をついた。



 胃薬代わりの一杯で、ほんの少しだけ正気を取り戻したゼノンが、ぽつりぽつりと愚痴をこぼし始める。



「近頃、ギルドで一番の頭痛の種がいてな。とある駆け出しの錬金術師なんだが……。あいつ、ギルドの許可も取らずに『妖精の寝床』の奥で勝手にポーション開発の実験を繰り返してるんだ」


 そのせいでダンジョンの一部が奇妙な色の煙や、甘ったるい匂いで汚染され、他の冒険者パーティーから苦情が殺到しているのだという。


カイは黙って相槌を打ちながら、ゼノンのグラスが空になるのを見ている。



「いつか大爆発でも起こしてダンジョンを一つ崩壊させかねん。あいつが次に何かやらかす前に、一度捕まえて説教しないと……」


 ゼノンがそう言って、空のグラスをカウンターに置いた、まさにその瞬間だった。



 ガタガタガタッ!



 店の扉が、内側から蹴破られるのではないかというほど激しく揺れ、次の瞬間、バタンと勢いよく開け放たれた。



 流れ込んできたのは、七色の奇妙な煙と、焦げた砂糖のような鼻につく匂い。


そして、煙の中から派手な錬金術師のローブをボロボロにした若い男が一人、盛大に咳き込みながら床の上へと転がり込んできた。



「だ、大失敗だ! また配合を間違えたー!」


 やかましい叫び声が店内に響く。



 転がり込んできた男が、煤だらけの顔を上げた。


その顔を見たゼノンが、こめかみを深く、深く、めり込むほどに強く押さえる。


そして、まるで地獄の底から響いてくるかのような、絞り出す声でカイに呟いた。



「……カイ。噂の馬鹿は、こいつだ。……ラセル……」



 自分の正体がギルドマスターに特定されているとは露知らず、駆け出しの錬金術師ラセルは、目の前に広がる光景に目を奪われていた。



 薄暗く神秘的な空間。壁一面に並んだ、様々な液体が満たされた怪しげな瓶の数々。


そして、カウンターの向こう側から、全てを見透かすかのように冷静に自分を見下ろす、伝説の賢者のごとき風格を持つ男。



(ま、まさか……こんな場所に、これほどまでの達人が隠棲していたとは!)



 ラセルの視線が、カイが別の客のために作り始めていたカクテルに釘付けになる。


グラスの中で、赤、青、黄、緑と、七色の液体が混ざり合うことなく美しい層を成していた。



「な、なんだあの液体は……! 比重の違う液体を、魔法的な処理なしでこれほど安定させているだと? まさか、これは……伝説の賢者の石に繋がる秘薬、『虹の源泉』に違いない!」


 完全に、盛大に、勘違いしていた。



 ラセルはカイを人里離れた場所で研究を続ける伝説級のポーションマスターだと信じ込み、目を輝かせてカウンターに駆け寄った。



「師匠! どうか俺を弟子にしてください!」


 カイは無言でシェイカーを振る。


そのリズミカルな動きを、ラセルは食い入るように見つめた。



「そ、その動きは……遠心分離を利用した超高等合成術! なんて無駄のない所作なんだ!」


 彼の視線が、傍らで静観するリンドへと移る。



「そして、その隣に控える方は……なんと美しい。師匠の使い魔か、あるいは叡智の結晶たる美しきホムンクルスに違いない!」


「気色が悪い」


 リンドは心底軽蔑したように一言だけ呟き、再び本へと視線を落とした。



 カイは面倒くさそうにラセルをあしらい、リンドは彼を視界に入れることすら拒絶する。


そしてゼノンは、自らの胃痛の種が目の前で元気に跳ね回るという悪夢のような光景を前に、ついに限界を迎えた。



「……俺の胃が……リアルタイムで削られていく……」


 そう呻くと、カウンターの上に突っ伏したまま、ぴくりとも動かなくなった。



 ひとしきり騒いだ後、ラセルはカイが客に出した後のカクテルグラスに残ったレモンの皮を、「師匠の秘薬の搾りカスにございますな!」とありがたそうにハンカチに包み、懐にしまった。



「師匠の技、確かにこの目に焼き付けました! 俺、やります!」


 彼はカイの制止も聞かず、一方的にそう宣言すると、再び元気よくダンジョンへと繋がる扉の向こうへと消えていった。


 嵐が去った後の店で、カウンターに突っ伏していたゼノンが、亡霊のようにおぼろげな声で顔を上げた。



「……カイ。あいつのギルド登録、今すぐ取り消してもいいと思うか……?」


 カイは何も言わず、ゼノンの空いたグラスに、もう一杯だけハーブ酒を静かに注ぐ。



「で、胃の調子はどうなんだ?」


 問いかけに、ゼノンは差し出されたグラスを手に取り、それを静かに一口飲んだ。


そして、ふっと長い息を吐く。



「……不思議なもんだ。現役の頃もそうだったが、お前といると、少しだけ厄介事を忘れられる」



 かつて背中を預け合って数多のダンジョンを駆けた、そんな月日を思い出させるような、穏やかな空気が二人の間に流れる。



 リンドは、そんな男たちの静かな時間を邪魔するでもなく、ただ面白くなさそうに本へと視線を戻した。


2人の昔を懐かしむ声が店の薄闇に静かに溶けていく夜だった。



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