24:未来視のゴブレットと、確定した二日酔い
パリン。
乾いた音が、まだ静かな開店前のBAR【second】に響いた。
カイは、床に散らばった愛用のコーヒーカップの破片を、忌々しげに見下ろしていた。
手を滑らせた、ただそれだけのこと。
だが、朝からこの調子では、今日は一日ろくなことがないような気がした。
「ついてねえな……」
彼がほうきと塵取りを手に、破片を片付け始めた、まさにその時だった。
店の扉が軽やかに開き、銀色の髪を揺らしながらリンドが入ってきた。
「朝から騒々しいのう、小僧。何を壊した?」
「……別に。あんたには関係ないだろ」
「フン、威勢だけは良いことじゃ。まあ、その様子だと、今日は厄日かもしれんな。そうだ、昨日お主が買っておったあれで、運試しでもしてみるかえ?」
リンドがそう言って、カウンターの上に置いたのは、古びた金属製のゴブレットだった。
表面には奇妙な紋様が刻まれ、鈍い光を放っている。
昨日、店の開店準備中に、以前曰く付きの絵画を売っていったあの胡散臭い行商人が再び現れた。
「先日はどうも!」と馴れ馴れしく声をかけてきた男の荷物の中に、なぜか妙に惹かれるこのゴブレットを見つけ、カイは僅かな金で買い取ったのだった。
行商人は「へへ…こいつぁお宝でね…未来が見えるんだぜ…」などと嘯いていたが、カイは全く信じていなかった。
「未来視、ね…。ろくな未来じゃなさそうだと思ったが」
カイは、ゴブレットを手に取ると、カウンターの内側で丁寧に拭き上げる。
そして、試しに自分のためのチェイサー(水)を注ぎ、一口飲んでみた。
すると、ゴブレットの内側、残った水の表面が微かに揺らめき、そこにぼんやりとした映像が映し出された。
一瞬、カウンターに突っ伏し、リンドらしき人物に何やら説教されてうんざりしている男の姿が見えた気がしたが、すぐに消えた。
(……なんだ今の。気のせいか。安物の魔道具によくある幻覚の類だな)
「ほう! 何か見えたか、小僧!」
リンドが目を輝かせた、その時だった。
店の扉が開き、ゼノン、ミーナ、アラン、ノインといった、いつもの常連客たちが次々と顔を見せた。
リンドは待ってましたとばかりに、ゴブレットを高々と掲げる。
「さて、お主ら。今宵は特別な杯で一杯やらんか? なんでも、何かが見えるそうじゃぞ」
カイの「やめとけ」という制止も聞かず、リンド主導で奇妙な幻覚体験会が始まってしまう。
最初に犠牲になるのは、やはりゼノンだった。彼は恐る恐る自分の薬草酒を、リンドが差し出すゴブレットに注いでもらい、一口飲む。
「…うっ! なんだ今の幻は…!? ひどい頭痛でカウンターに突っ伏している男が見えたぞ…! 顔色が悪かったな、誰だか知らんが気の毒に…!」
好奇心旺盛なミーナが続く。
「面白そう! あたしにもやらせて!」
勢いよくエールを注いでもらい、ゴブレットを呷る。
「えーっと…あれ? 今、店の外で半泣きで探し物してる女の子が見えた! 何か大事なものでも落としたのかな? かわいそうに」
アランはゼノンとミーナの見たものに若干引き気味だが、リンドに勧められ仕方なく飲む。
「……これは……。誰かが店の床を雑巾がけしている姿が見えましたが…しかも、リンド様らしき方に叱咤されながら…。どなたか、何か粗相をなさるのでしょうか…?」
最後は冷静な情報屋ノイン。
いつものように無表情で、甘いリキュールを注いでもらい、静かに飲む。そして一言。
「……美味しそうなパフェを食べている人物が見えた。問題ない」
見えた奇妙な幻覚について、客たちが「気味が悪い」「何かの前触れか?」などと話し合っている。
カイは、そんな彼らの様子を冷ややかに見ながら、「ただの安物の魔道具だろ。変な幻覚でも見せるんじゃないか。ほら、そんな顔してたら、せっかくの酒がまずくなるぞ」と、いつもの調子で酒を出し続ける。
リンドだけが「ふむ…面白い」と含みのある笑みを浮かべていた。
そして、きっかり一時間後。
「ぐっ……頭が……!」
それまで上機嫌で飲んでいたゼノンが、突然強烈な頭痛に襲われ、カウンターに突っ伏した。
その顔色は、まさに土気色だった。
「…さっき見えたのは、俺だったのか!?」
「あれ!? 財布がない! さっきまであったのに!」
会計をしようとしたミーナが、顔面蒼白で自分の鞄やポケットを探り始める。
やがて、半泣きになりながら店の外へ探しに飛び出していった。
「うそ…あの女の子、あたしだったの!?」
「わわっ! 申し訳ありません、リンド様!」
アランが、ふとした拍子にリンドのお気に入りの高級酒のボトルを倒してしまい、床にこぼれた酒を慌てて拭き始めた。
リンドは「小僧! 雑巾じゃ! 勇者殿、そこ! 磨き方が足りん!」と、楽しそうに叱咤している。
「まさか…あの掃除してたの、私だったなんて…!」
そして、ノインだけが、カイが気まぐれで作った新作チョコレートパフェを、至福の表情で味わっていた。
「…やはり、問題なかった」
ここで初めて、あのゴブレットが「一時間後の自分の姿」を映し出す魔道具だったことが判明した。
未来は確定していたのか、あるいは、幻覚だと思ったことで油断し、かえってその行動を誘発してしまったのか。
カイは、自身が見た「リンドに説教される未来」を思い出し、げんなりする。
案の定、リンドがカイに向き直り、「小僧、さっきからたるんでおるぞ! もっと客に気を配らんか!」と小言を言い始めた。
カイは、カウンターに置かれた未来視のゴブレットを手に取り、「こんなもんで一喜一憂するなんざ、人間らしいっちゃ人間らしいがな」と呟くと、それをカウンターの隅、客の目に触れない場所にそっと置いた。
「ま、たまにはこういうのも悪くねえか。見たい奴は自己責任でな」
「さて、二日酔いのギルドマスターと、財布を探しに行った運び屋と、床掃除中の勇者に、とっておきの迎え酒でも作ってやるか」
未来よりも、今の目の前の一杯と、それによって変わるかもしれない(あるいは変わらないかもしれない)すぐ先の気分の方がよほど大事だ。
BAR【second】らしい、少し皮肉で、どこか優しい夜が更けていくのだった。




