23:幸運と不運のサイコロ
その日のBAR【second】は、珍しく埃っぽかった。
店の定休日、カイはリンドに無理やり言いつけられ、2階の隅に積まれたままになっていた古い荷箱の整理をさせられていたのだ。
「なんで俺が、自分の店の掃除でこんな……いや、これ俺の荷物か」
独りごちながら、カイは埃をかぶった木箱の蓋を開ける。
中に入っているのは、彼がアステルに来る前に使っていた、今となってはガラクタ同然の品々だった。
「おい小僧、なんぞ面白いものは見つかったか?」
退屈を持て余したリンドが、優雅な仕草で2階へと続く階段の下からひょっこりと顔を覗かせた。
カイが「ガラクタしかねえよ」と答えるより早く、彼女の碧眼が、箱の隅で鈍い光を放つ小さな革袋を捉えた。
リンドがそれをひょいとつまみ上げ、中身を手のひらに転がす。
現れたのは、黒曜石で作られた一対のサイコロだった。
それぞれの面には、星とも紋様ともつかぬ、奇妙な意匠が刻まれている。
カイはそれを見て、顔をしかめた。
「……ろくでもない代物だ。捨てようと思ってたんだがな」
「ほう、ただのサイコロではないな。微かじゃが、運命を弄ぶ気配がするわい」
リンドは、カイが制止するのも聞かず、面白そうにそのサイコロをドレスのポケットに滑り込ませた。
その夜、店にはゼノン、ミーナ、ノインといった、いつもの常連客が集っていた。
穏やかな時間が流れる中、カウンターの奥で退屈そうにしていたリンドが、不意にポケットからあの黒いサイコロを取り出した。
「さて、今宵の運勢でも占ってやろうかのう」
「やめとけ、ろくなことにならねえ」
カイの忠告を柳に風と受け流し、リンドは楽しげにサイコロをカウンターの上で転がした。
コロコロと乾いた音を立てて、サイコロは「一」の目を出す。
その瞬間、ゼノンが口にしようとしていた草酒のグラスは水滴で手から滑り落ち、ガチャンと音を立ててカウンターに落ちる。
カイにより調整された薬草酒の香りが店内に漂うが、ゼノンの口には一口も入らずこぼれ落ちてしまった。
「……おお……我が癒しが……」
絶望に打ちひしがれるゼノンの前で、リンドは構わず二投目を振る。今度は「六」の目が出た。
すると、ギルドの依頼書を確認していたミーナが、何気なく自分の鞄に手を入れると、指先に硬い感触が当たった。
「あれ? こんなところに銀貨が一枚……ラッキー!」
すっかり面白くなったリンドは、カイの呆れた視線を無視して、何度もサイコロを振り始めた。
賽が転がるたびに、店内で奇妙な現象が連鎖していく。
サイコロが「二」の目を出す。
ノインが、まさに口にしようとしていたチョコレートパフェのサクランボを、どこからともなく店に迷い込んできた蛾が、ふわりと掠め取っていった。
ノインは、空になったスプーンを咥えたまま、静かに固まる。
サイコロが「五」の目を出す。
カイが、適当にシェイカーを振って作ったカクテルが、彼自身も「……なんでこんな味が?」と首をかしげるほどの、人生で一度あるかないかの奇跡的なバランスで完成した。
運命は、さらに加速する。
リンドが振ったサイコロが「一」を示すと、ゼノンが座っていた椅子の脚が、ミシッと鈍い音を立てて根元から折れた。
尻餅をついたギルドマスターの、情けないうめき声が店内に響く。
すかさず振られたサイコロが「六」を示すと、店の扉がカランと開き、道に迷ったという見るからに裕福な旅人が来店した。
「この店で一番高い酒を」という、店にとっては望外の幸運が舞い込む。
幸運と不運が、デタラメな順番で、しかし確実に客たちを翻弄していく。
店内は、もはや悲鳴と歓声が入り乱れる、奇妙なカオスに包まれていた。
そして、ついにリンドが、その夜最後の一投を放った。
黒曜石のサイコロは、カウンターの縁でカタカタと激しく回転し、今まさに、どちらかの目に定まろうとしていた。
店内の全員が、固唾を飲んでその小さな黒い塊を見守る。
しかし、それが止まる寸前だった。
それまで黙って一部始終を見ていたカイの手が、残像を引くほどの速さで動いた。
バーテンダーの流麗な所作で、しかし獲物を狩る獣のような鋭さで、彼はシェイカーを逆さにし、回転するサイコロの上に音もなく被せた。
「……もう十分だろ。客の運命で遊ぶんじゃねえよ、オーナー」
カイは、シェイカーの下で、黒曜石のサイコロを躊躇なく握りつぶした。
硬い石が、彼の握力で砂のように砕ける音が、静かに響く。
「うちの店ではな、客の幸運も不運も、俺が出す酒と、てめえらのその日の気分で決まるんだ。こんなガラクタに左右されてたまるか」
その言葉に、ゼノンやミーナたちは、何が起こっていたのかを朧げに察し、呆然とカイを見つめている。
カイは、シェイカーを上げ、カウンターの上に散らばった黒い砂を、まるで何でもないことのように、静かに布巾で拭き取った。
「フン、つまらぬことをしおって」
リンドは、そう言いながらも、その口元にはどこか満足げな笑みが浮かんでいた。
BAR【second】の夜は、こうしてバーテンダーの矜持によって、いつもの「運否天賦」な日常へと戻っていくのだった。




