表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/34

22:古龍の憂鬱と、止まり木の体温



 その夜のBAR【second】は、いつも通り常連客が数人いるにもかかわらず、どこか奇妙な静けさに包まれていた。



 原因は、カウンターの特等席にいるリンドだった。


彼女は酒を要求することもなく、客をからかうでもなく、ただ窓の外、遥か彼方の夜空を、ぼんやりと眺めている。


 その視線の先には、尾を引いて流れる、青白い光の筋。


数百年に一度だけ、この世界の夜空を通過するという「嘆きの彗星」だった。



「珍しい彗星ですね。伝承では、古い魂に過去を思い出させる、なんて言われているとか」


 お忍びで来ていたアランが、グラスを傾けながら呟く。



 カイは、リンドのあまりの静けさに違和感を覚えていた。


普段なら、アランのような客をからかって遊ぶのが常だ。


しかし、今日の彼女は、まるで魂がここにあらずといった様子で、その宝石のような碧眼は、常の輝きを失い、深い憂いを帯びていた。



「おい、どうした。酒が不味いのか」


 彼が声をかけると、リンドは力なく首を振るだけだった。


 カイは、カウンターの反対側で胃をさすっているゼノンに、新しい薬草酒を差し出しながら言った。



「ゼノンさんよ、あんた、明日はギルドの朝議があるんだろ。そろそろお開きにしとかないと、また胃に響くんじゃないのか」


「む、そうか。もうそんな時間か。では、今日はこれくらいにしておこう」


 ゼノンはカイの気遣い(という名の追い出し)に感謝し、勘定を済ませて席を立つ。続いて、カイはアランに視線を向けた。



「アラン、お前もだ。その酒、結構強いぞ。あんまり飲みすぎると、明日、頭に響くぜ」


「え、そうですか? まだ大丈夫だと思いますが……」


「いいから、今日はもう帰れ。な?」


 有無を言わさぬカイの圧に、アランは不思議そうな顔をしながらも、素直に従った。



 やがて、客が一人、また一人と帰り、店にはカイとリンドの二人だけが残された。



 カイが後片付けを始めると、リンドがふらりと特等席から立ち上がり、カイから数歩離れたカウンターの隅に、音もなく移動する。


そして、何も言わずに、ただじっとカイの仕事ぶりを見つめていた。



 カイが厨房へ行けば、彼女も厨房の入り口に佇み、カイが店の掃除を始めれば、彼女もソファの隅に移動して、その姿を目で追い続ける。


その姿は、まるで迷子の子供が親から離れまいとするかのようだった。



「おい、本当にどうしたんだ。気持ち悪いぞ」


 カイがそう言うと、リンドは初めて口を開いた。



「……小僧。今宵は、一人になりとうない……」


 その声は、いつもの尊大さのかけらもない、か細く、そして心細げな響きだった。



 カイは、彼女のただならぬ様子に、深いため息をつきながらも締め作業を続けた。



 やがて、全ての作業を終えたカイが、ソファにどかりと腰を下ろす。


すると、リンドも、おずおずとその隣に座った。


最初は少し距離があったが、やがて、彼女はゆっくりとカイの方へ身体を寄せ、その肩にこてん、と頭を預けた。



 カイの身体が、一瞬、硬直する。


しかし、肩にかかる銀髪の重さと、そこから伝わる微かな震えに、彼は何も言えなくなる。


彗星の影響か、彼女の身体は魂の芯から冷え切っているかのようだった。



「……寒い……」


 か細い声で呟き、リンドは無意識にカイの体温を求めるように、さらに身体をすり寄せる。


カイは黙って、そばにあったブランケットを、彼女と自分の肩にかけた。



 腕に触れる彼女の指先は、氷のように冷たい。


カイがその手をそっと握ると、リンドは驚いたように少しだけ身じろぎしたが、やがて、その手を弱々しく握り返してきた。



「……永すぎるのじゃ……時は……」


 窓の外の彗星を見上げながら、リンドがぽつりと呟く。



「幾つの星が流れ、幾つの国が滅び、幾人の友が……塵に還るのを見たことか……儂だけが、こうして……」



 数千年の時を生きてきた者だけが抱える、途方もない孤独の吐露。


彼女は、カイの服の袖を、迷子のようにぎゅっと掴んだ。



 カイは何も答えない。ただ、黙って、握った彼女の手に少しだけ力を込める。


そして、空いた方の手で、子供をあやすように、彼女の頭を優しく、ゆっくりと撫でた。



 しばしの沈黙の後、カイは、まるで独り言のように、静かな声で言った。



「……一人じゃねえだろ」


 その言葉に、リンドの肩が微かに震える。


カイは、彼女の顔を見ることなく、続ける。



「あんたがいなくなったら、誰が俺に無茶な酒をねだるんだ。退屈で死んじまう」


 その不器用な慰めの言葉に、リンドの身体から、張り詰めていた糸がふっと切れたように、力が抜けた。


彼女は、カイに寄りかかったまま、安心したように、静かな寝息を立て始める。



 その夜、カイはソファから動かず、ただ静かに、古龍の止まり木として夜が明けるのを待った。



 翌朝。


 

 窓から差し込む光で、カイが目を覚ます。


隣にリンドの姿はなく、彼女はいつもの特等席で、何事もなかったかのように優雅に脚を組んでいた。


空から彗星の姿は消えている。



「なんじゃ、小僧。ソファで突っ伏して寝ておったのか? みっともない奴め。さあ、喉が渇いたぞ。最高の酒を寄越せ」


 彼女は、いつもの尊大なリンドだった。昨夜の出来事など、まるで夢であったかのように。



 カイは、何も言わずに頷くと、彼女のために一杯の酒を準備する。


グラスをカウンターに置いた時、一瞬だけ、二人の視線が交差した。


リンドの瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、昨夜の憂いとは違う、穏やかな色が揺らめいた。



「……フン。まあ、及第点じゃな」


 リンドは、そっぽを向きながらそう呟くと、グラスを傾けた。



 カイは、その不器用な感謝の言葉に、ただ静かに笑うだけだった。


いつもと変わらない、しかし、確かに何かが通じ合った、BAR【second】の朝が始まった。



 壁に飾られた絵画の中で、草原に立つ女性が、そんな二人の様子を、ただ静かに、そして優しく微笑みながら見守っていたのは、カイもリンドも、まだ気づいていない。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ