22:古龍の憂鬱と、止まり木の体温
その夜のBAR【second】は、いつも通り常連客が数人いるにもかかわらず、どこか奇妙な静けさに包まれていた。
原因は、カウンターの特等席にいるリンドだった。
彼女は酒を要求することもなく、客をからかうでもなく、ただ窓の外、遥か彼方の夜空を、ぼんやりと眺めている。
その視線の先には、尾を引いて流れる、青白い光の筋。
数百年に一度だけ、この世界の夜空を通過するという「嘆きの彗星」だった。
「珍しい彗星ですね。伝承では、古い魂に過去を思い出させる、なんて言われているとか」
お忍びで来ていたアランが、グラスを傾けながら呟く。
カイは、リンドのあまりの静けさに違和感を覚えていた。
普段なら、アランのような客をからかって遊ぶのが常だ。
しかし、今日の彼女は、まるで魂がここにあらずといった様子で、その宝石のような碧眼は、常の輝きを失い、深い憂いを帯びていた。
「おい、どうした。酒が不味いのか」
彼が声をかけると、リンドは力なく首を振るだけだった。
カイは、カウンターの反対側で胃をさすっているゼノンに、新しい薬草酒を差し出しながら言った。
「ゼノンさんよ、あんた、明日はギルドの朝議があるんだろ。そろそろお開きにしとかないと、また胃に響くんじゃないのか」
「む、そうか。もうそんな時間か。では、今日はこれくらいにしておこう」
ゼノンはカイの気遣い(という名の追い出し)に感謝し、勘定を済ませて席を立つ。続いて、カイはアランに視線を向けた。
「アラン、お前もだ。その酒、結構強いぞ。あんまり飲みすぎると、明日、頭に響くぜ」
「え、そうですか? まだ大丈夫だと思いますが……」
「いいから、今日はもう帰れ。な?」
有無を言わさぬカイの圧に、アランは不思議そうな顔をしながらも、素直に従った。
やがて、客が一人、また一人と帰り、店にはカイとリンドの二人だけが残された。
カイが後片付けを始めると、リンドがふらりと特等席から立ち上がり、カイから数歩離れたカウンターの隅に、音もなく移動する。
そして、何も言わずに、ただじっとカイの仕事ぶりを見つめていた。
カイが厨房へ行けば、彼女も厨房の入り口に佇み、カイが店の掃除を始めれば、彼女もソファの隅に移動して、その姿を目で追い続ける。
その姿は、まるで迷子の子供が親から離れまいとするかのようだった。
「おい、本当にどうしたんだ。気持ち悪いぞ」
カイがそう言うと、リンドは初めて口を開いた。
「……小僧。今宵は、一人になりとうない……」
その声は、いつもの尊大さのかけらもない、か細く、そして心細げな響きだった。
カイは、彼女のただならぬ様子に、深いため息をつきながらも締め作業を続けた。
やがて、全ての作業を終えたカイが、ソファにどかりと腰を下ろす。
すると、リンドも、おずおずとその隣に座った。
最初は少し距離があったが、やがて、彼女はゆっくりとカイの方へ身体を寄せ、その肩にこてん、と頭を預けた。
カイの身体が、一瞬、硬直する。
しかし、肩にかかる銀髪の重さと、そこから伝わる微かな震えに、彼は何も言えなくなる。
彗星の影響か、彼女の身体は魂の芯から冷え切っているかのようだった。
「……寒い……」
か細い声で呟き、リンドは無意識にカイの体温を求めるように、さらに身体をすり寄せる。
カイは黙って、そばにあったブランケットを、彼女と自分の肩にかけた。
腕に触れる彼女の指先は、氷のように冷たい。
カイがその手をそっと握ると、リンドは驚いたように少しだけ身じろぎしたが、やがて、その手を弱々しく握り返してきた。
「……永すぎるのじゃ……時は……」
窓の外の彗星を見上げながら、リンドがぽつりと呟く。
「幾つの星が流れ、幾つの国が滅び、幾人の友が……塵に還るのを見たことか……儂だけが、こうして……」
数千年の時を生きてきた者だけが抱える、途方もない孤独の吐露。
彼女は、カイの服の袖を、迷子のようにぎゅっと掴んだ。
カイは何も答えない。ただ、黙って、握った彼女の手に少しだけ力を込める。
そして、空いた方の手で、子供をあやすように、彼女の頭を優しく、ゆっくりと撫でた。
しばしの沈黙の後、カイは、まるで独り言のように、静かな声で言った。
「……一人じゃねえだろ」
その言葉に、リンドの肩が微かに震える。
カイは、彼女の顔を見ることなく、続ける。
「あんたがいなくなったら、誰が俺に無茶な酒をねだるんだ。退屈で死んじまう」
その不器用な慰めの言葉に、リンドの身体から、張り詰めていた糸がふっと切れたように、力が抜けた。
彼女は、カイに寄りかかったまま、安心したように、静かな寝息を立て始める。
その夜、カイはソファから動かず、ただ静かに、古龍の止まり木として夜が明けるのを待った。
翌朝。
窓から差し込む光で、カイが目を覚ます。
隣にリンドの姿はなく、彼女はいつもの特等席で、何事もなかったかのように優雅に脚を組んでいた。
空から彗星の姿は消えている。
「なんじゃ、小僧。ソファで突っ伏して寝ておったのか? みっともない奴め。さあ、喉が渇いたぞ。最高の酒を寄越せ」
彼女は、いつもの尊大なリンドだった。昨夜の出来事など、まるで夢であったかのように。
カイは、何も言わずに頷くと、彼女のために一杯の酒を準備する。
グラスをカウンターに置いた時、一瞬だけ、二人の視線が交差した。
リンドの瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、昨夜の憂いとは違う、穏やかな色が揺らめいた。
「……フン。まあ、及第点じゃな」
リンドは、そっぽを向きながらそう呟くと、グラスを傾けた。
カイは、その不器用な感謝の言葉に、ただ静かに笑うだけだった。
いつもと変わらない、しかし、確かに何かが通じ合った、BAR【second】の朝が始まった。
壁に飾られた絵画の中で、草原に立つ女性が、そんな二人の様子を、ただ静かに、そして優しく微笑みながら見守っていたのは、カイもリンドも、まだ気づいていない。




