21:名もなき絵画の囁き
その日のBAR【second】は、珍しく平和な時間が流れていた。
その静寂を破ったのは、店の扉に付けられたベルの、やけにけたたましい音だった。
現れたのは、見るからに胡散臭い笑顔を浮かべた小太りの行商人。
その背には、何が詰まっているのか分からない、雑多な品々で膨れ上がった大きな袋が背負われている。
「旦那様、奥様! 素晴らしい芸術品はいかがですかな! 旅の途中で見つけた、掘り出し物の数々ですよ!」
男はそう言うと、カウンターの前に次々とガラクタ同然の品々を並べ始めた。
欠けた壺、作者不明の彫像、そして、色褪せた数枚の絵画。
カイは、仕込みの手を止めることなく、冷ややかに一瞥した。
「うちはバーだ。画廊じゃねえ。他を当たってくれ」
「そうおっしゃらずに! これも何かのご縁!」
追い返そうとするカイの言葉など意にも介さず、商人は食い下がる。
その、辟易するようなやり取りをカウンターの奥で眺めていたリンドが、ふと、その中の一枚の絵画に目を留めた。
「ほう、これは面白い」
それは、草原で日傘を差した女性が、こちらを優しく振り返っているだけの、何の変哲もない油絵だった。
サインもなく、名もなき画家が描いたものだろう。
「ガラクタだろ、あんなもん」
カイがぼやくが、リンドは聞く耳を持たない。
「儂が買う。小僧、店の経費で落としておけ」
リンドが僅かな銀貨をカウンターに置くと、商人は「ありがとうございます!」と満面の笑みを浮かべ、嵐のように去っていった。
後には、一枚の絵画と、カイの深いため息だけが残された。
その夜、最後の客が帰り、店の扉に錠が下ろされる。
リンドが椅子から立ち上がり、満足げに伸びをした。
「さて、そろそろ店じまいか。帰るぞ、小僧」
「あんたはな。俺はまだ締め作業がある」
先に帰っていくリンドを見送り、カイは一人、静かになった店内で後片付けを始めた。
買わされた絵画を、とりあえず店の隅の壁に立てかける。
そして、毎晩の日課として、暖炉のマントルピースに、ススカミのための小さなグラスの酒を供えた。
彼がカウンターに戻り、静かにグラスを磨き始めた、その時だった。
ふと、鈴を転がすような、しかしどこか儚げな女性の囁き声が、店内に響いた。
「……あの……」
カイは、磨く手を止め、声のした方――壁に立てかけられた絵画を一瞥する。
「……あんたか。喋れるのか」
絵の中の女性の唇が、驚きにわずかに開いた。
「……! はい……聞こえる、のですね? 私の声が……」
カイは暖炉の方へ向き直り、ススカミに供えたグラスを指先で軽く弾いた。
「先に帰った奴が、魔法やら呪いやらには詳しい。詳しい話は、また明日にしよう。……今、何か必要なものはあるか?」
「……いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
静かな返事を聞くと、カイは残りの作業を黙々と続けた。
翌日、カイがリンドに昨夜の出来事を話すと、彼女は「やはりな」と満足げに頷いた。
「描き手の技量は未熟じゃが、込められた想いが尋常ではなかった。おまけに、描き手自身に無自覚な魔法の素質があったようじゃな。それらが混じり合い、描かれた女に意思が宿った、といったところか」
その説明を聞きながら、カイは絵画に視線を送る。
絵の中の女性は、どこか申し訳なさそうに、そして少しだけ嬉しそうに、カイに語りかけた。
「私には、名前しかありません。クラリッサ、と。そして、この絵がまだ未完成だということ。それ以外は、何も……」
クラリッサと名乗った彼女には、一つの強い想いがあった。
「この絵は、まだ完成していないのです。この背景が、まだ描ききれていない……。私は、この場所へ行きたいのです。もしくは、私を描いてくれたあの方に、もう一度会いたいのです」
改めて絵を見ると、緻密に描かれた彼女の姿に比べ、背景の草原はどこかぼんやりとしており、描き込みが足りないように見えた。
手がかりは、何もない。
カイは「無理な相談だな」と頭を掻く。
しかし、絵の中からこちらを見つめるクラリッサの、寂しげな表情に、いつものお人好しが顔を出した。
カイは深いため息をつくと、その絵画を手に取った。
そして、店の壁の一番よく見える場所に、丁寧に飾る。
「手がかりはゼロだ。すぐに見つかる保証はどこにもねえ。だが……うちの店には、色んな奴が来る。勇者もいれば、元・魔王も、情報屋もいる。時間がかかるかもしれねえが、ここにいれば、いつか何か分かるかもしれねえぞ」
それは、彼女に新たな居場所を与えるという、カイなりの答えだった。
絵の中のクラリッサは、驚いたように目を見開いた後、これまで見せたことのない、柔らかな微笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます。私、ここで待っています」
それ以来、BAR【second】の壁には、草原の女性の絵が飾られるようになった。
彼女は普段は動かないが、時折、カイやリンド、そして訪れる客たちの様子を、絵の中から静かに、そして楽しそうに眺めている。
BAR【second】に、また一つ、奇妙な『窓』が増えた一夜だった。




