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20:忘れられた神様と、一杯の供物



 その夜は、季節が逆行したかのように、冷たい雨が降りしきっていた。



 叩きつけるような雨粒は、アステルの石畳で砕け、冷たい飛沫となって路地裏の空気を満たしている。


BAR【second】の重厚な扉を隔ててもなお、絶え間なく続く雨音は、店内にまで染み渡るかのようだった。



 客足はとうに途絶え、肌寒い店内で、カイは黙々とカウンターを磨いていた。


磨き上げられたグラスだけが、虚しくランプの光を反射している。



 ふと、彼は店の隅にある、今は使われていない暖炉の前で、何かが揺らめいていることに気づいた。



 それは、一人の老人だった。


だが、その姿はまるで陽炎のようで、半ば透けて向こう側のレンガの壁が見えている。


存在そのものが、この世から剥がれ落ちかけているかのように希薄だった。



「ほう、消えかけの神か。懐かしい匂いがするわい」


 カウンターの奥、特等席に座るリンドが、静かに呟いた。


その声は、雨音に溶けてカイの耳には届かない。



 老人は何も注文するわけでもなく、ただ暖炉の前に置かれた古びた椅子に腰掛け、存在しないはずの火の暖かさを求めるかのように、かじかんだ手をかざしていた。




 その時、店の扉が勢いよく開き、ずぶ濡れになった旅人風の男が駆け込んできた。


「すまない! 急な雨で、身体が冷え切ってしまって……少し、雨宿りをさせてはくれまいか」


 男はぶるぶると震えながら、店の中を見渡す。


そして、店の隅にある暖炉に目を留めた。



 それを見ていた暖炉の前の老人が、すぅっと、かざしていた手を動かす。


すると、何もないはずの暖炉の奥で、ぽっ、と小さな橙色の火が灯った。


それは、まるで誰かが息を吹きかけたかのように、静かで、しかし確かな温かさを伴う炎だった。



「お、おお! 火が入っているのか! ありがたい!」


 駆け込み客は、誰が火をつけたのかなど気にする余裕もなく、喜びの声を上げて暖炉へと駆け寄り、その温もりに安堵のため息を漏らした。


カイは、客に乾いたタオルを差し出しながら、暖炉の前の老人をそっと窺う。



 客は、温かい飲み物を注文し、暖炉の前でゆっくりと身体を温め始めた。



「いやあ、助かった。まさか、この時期にこんなひどい雨に降られるとは。王都へ向かう途中でしてな、この街には初めて立ち寄ったのですが、良い店があって幸運でしたよ」


「そりゃ、どうも。まあ、雨が弱まるまで、ゆっくりしてけよ」


 カイは、客と当たり障りのない会話を交わしながら、カウンターを磨く手を止めない。


やがて、一時間ほど経っただろうか。


雨足が少し弱まったのを確認すると、客は深々と頭を下げ、勘定を済ませて店を出ていった。



 再び静寂が訪れた店の中、暖炉の火だけが、ぱちぱちと穏やかな音を立てている。



 カイは、磨き上げていたグラスを棚に戻すと、静かに老人の元へ歩み寄った。



「……さっきの火、あんたがやったのか?」


 その声に、老人はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。


その顔には、困惑と、それ以上に深い驚愕の色が浮かんでいる。



「……おお。儂の姿が、見えるのかね?」


 彼は、自らを「ススカミ」と名乗った。



 かつて、人々の家の暖炉に宿り、一家の安全と、冬の夜の暖かさを見守ってきた、古い神なのだと。


その声は、燃え殻が崩れるように、か細く、そして寂しげだった。



「じゃが、時代は変わった。暖炉を囲む家は減り、人々は儂の名を忘れ……そして数日前、最後の祠であった古い民家の暖炉も、とうとう壊されてしもうてな」


 彼は、自嘲するように、陽炎の身体で笑った。



「もう、我が身を繋ぎ止める場所も、信仰もない。だから、静かに消えるだけよ。……ただ、この街で唯一、古い暖炉の匂いと、人々が集う『暖かさ』の気配がしたもので、つい、な」


 終着点として、この場所を選んだのだと。


ススカミはそう言って、再び暖炉の炎を見つめた。



 カイは、黙ってカウンターの中に戻った。



 赤ワインを小鍋に注ぎ、オレンジの皮、シナモンスティック、そして数種類のスパイスを加えて、ゆっくりと火にかける。


甘く、そして温かな香りが、静かな店内にふわりと立ち上った。



 やがて、湯気の立つマグカップを手に、カイはススカミがいる暖炉の前の、石造りのマントルピースに、それをそっと置いた。



「……なんだね、これは?」


 戸惑うススカミに、カイはぶっきらぼうに告げる。



「うちの暖炉の『守り神』への、店からの供物だ。いつもご苦労さん」



 それは、カイの気まぐれだった。


ただのバーテンダーから、忘れ去られた神への、数十年ぶりとなる「信仰」の奉納。



 ホットワインから立ち上る湯気と、そこに込められたカイの不器用な想いを受け、ススカミの陽炎のようだった身体が、ほんの少しだけ、その輪郭をはっきりとさせた。


消えかけていた命の灯火が、ふわりと熱を取り戻す。



「……そうか。儂の、新しい暖炉は、ここか」


 ススカミは、涙とも湯気ともつかぬ雫を目に浮かべ、赤子のように、静かに微笑んだ。



 それ以来、BAR【second】の暖炉には、姿は見えないが、確かに温かな気配が宿るようになった。



 寒い夜には、理由もなく火がぱちぱちと心地よい音を立て、客たちの心をほんの少しだけ温める。


カイは、毎晩店を閉める時、マントルピースに小さなグラスの酒を供えるのが、新たな日課になるのだった。



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