15-1:バーテンダーの憂鬱と、王都からの招待状
カイは、帳簿と呼ぶにはあまりに赤字の多いそれを睨みつけ、深いため息をついた。
「……なんで、ただのバーの経営で、ナッツの仕入れ値高騰に頭を悩ませなきゃならねえんだ」
原因は、先日この店から始まった、インキュバス発祥の珍妙な恋愛ブームだ。
街中の男たちが、意中の女性にナッツを勧めるようになったせいで、市場価格は数日で三倍に跳ね上がった。
「そもそも、ケーキやら甘いもんを食わせた後だから、しょっぱいナッツが効いたんだろうが。いきなりナッツだけ渡して意味あんのかねえ……」
「おまけに、マグナスの奴はまだ扉の修理代も払いに来やがらねえ。あいつ、本当に野菜なんて作れんのか?」
「フン、退屈よりは万倍マシじゃろう。お主も、存外楽しんでおるくせにの」
カウンターの奥で、リンドが楽しそうに喉を鳴らす。
カイが「これ以上、厄介事はごめんだ」とぼやいた、まさにその時だった。
店の扉が、控えめに、しかし有無を言わさぬ威厳をもって開かれた。
現れたのは、場違いな二人組だった。
一人は、ひと目で上質とわかる仕立ての良い服に身を包んだ、神経質そうな役人。
もう一人は、その背後に控える、歴戦の空気をまとった護衛の騎士。
衛兵ではなく、王家に仕える近衛騎士団の紋章が、その胸に輝いている。
役人は、店の中を値踏みするように一瞥すると、ほう、と感嘆の声を漏らした。
「これは……落ち着いた、良い雰囲気ですな。酒棚の品揃えも、そちらの調度品も、なかなかのものだ」
彼は満足げに頷くと、カイの前に進み出た。
「貴公が、この店の主、カイ殿ですな。私は、使いで参りました」
その尊大な態度に、カイは眉をひそめる。
「何のようだ。うちはしがないバーだぞ。貴族様が来るような場所じゃない」
「ええ、重々承知しております。正直に申し上げて、私も最初は信じられませんでした」
役人は、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。大臣の印が押された、正式な依頼書だ。
「さるお方より、困難な問題に直面した際は、アステルの路地裏にいるカイという男を頼るようにと、助言を賜りましてな。我々は、その言葉の真偽を確かめるべく、貴公の身辺を調査させていただいた」
その言葉に、カイは表情を変えずに、内心で舌打ちした。
「調査の結果、驚きましたぞ。あの勇者アラン殿が貴公を兄のように慕い、ギルドマスターのゼノン殿も一目置いている。我々の知らないところで、貴公は街の重鎮たちから絶大な信頼を得ておられるようだ」
断るのが一番だが、こちらの素性をここまで調べ上げているような連中だ。
下手に突っぱねるのは得策ではないだろう。
(……話だけは、聞いてやるか)
「……で、依頼内容は?」
面倒な前置きを遮るように、カイが促す。
役人は咳払いを一つすると、本題を切り出した。
「来る和平記念式典にて、貴公らに警備を頼みたい。もちろん、表向きの警備は万全です。勇者アラン殿にもご参加いただく。しかし、和平に不満を持つ輩が、裏で事を起こすという情報がありましてな」
「専門家を雇え。俺はバーテンダーだ」
カイがそう言うと、役人は待っていたかのように言葉を重ねる。
「貴公にしか頼めないのです。事を荒立てず、誰にも気づかれずに脅威を排除できる程の実力。それを『あの方』はご存知で……」
カイの脳裏に、面倒見が良いくせに、自分の手を汚さない食えない中年の顔が浮かぶ。
読まれている。これは、断れない依頼だ。
カイは、カウンターの奥で静かに聞き耳を立てていたリンドに視線を送った。
「あんたはどうする。王都まで出張だが」
「王都か。うまい酒と、面白い見世物があるのなら、付き合ってやらんでもない」
リンドの了承を得て、カイは深いため息と共に、役人に顔を向けた。
「分かったよ。ただし、報酬はきっちり弾んでもらうぞ。最近、何かと物入りでな」
その言葉に、役人は安堵の表情を浮かべ、深々と頭を下げた。
数日後。
店の扉には、『店主都合により、しばらく休業します』という札がぶら下がっていた。
王都へ向かう馬車の中、カイは憂鬱そうに窓の外を眺め、リンドは手に入れた王都のグルメマップを熱心に読み込んでいる。
やがて、遠くに王都の城壁が見えてきた。
式典を前にした華やかな賑わいと、その裏に潜む不穏な空気。
文句を言うリンドを窘めつつ二人は指定された安宿の扉を開けた。




