14:インキュバスは愛を乞う
その日のBAR【second】は、どこか奇妙な活気に満ちていた。
いや、活気があるのはカウンターの中だけだ。
運び屋のミーナが、よっこいしょ、と威勢のいい掛け声と共に重い酒樽をバックヤードに運び込み、情報屋のノインは、一切の無駄口を叩かずに完璧な手つきでグラスを磨き上げている。
二人の少女の首からは、カイお手製の『反省中』と書かれた札がぶら下がっていた。
「ミーナ、つまみ食いしたら罰ゲーム一週間延長な。ノイン、お前もデザートのソースばっか見てないで手を動かせ」
「「……うす」」
カイの監視の目に、二人は不貞腐れたような、あるいは無感情な返事を返す。
カウンターの奥では、リンドがその新たな見世物を肴に、楽しそうにグラスを傾けていた。
そんな奇妙な日常の真っただ中に、店の扉が静かに開かれた。
月光を背負って現れたのは、彫刻のように整った顔立ちを持つ、絶世の美青年。
しかし、その表情は世界が終わるかのように深く、暗く悩んでいた。
彼はメニューを一瞥もせず、カウンターの中のカイをまっすぐに見つめると、悲壮な覚悟を秘めた声で言った。
「マスター。我が輩に、愛の指南を請いたい」
美青年――イオは、自らの正体が人の夢に入り込み精気を糧とする魔物、インキュバスであることを明かすと、カウンターに身を乗り出して悩みを吐露し始めた。
「最近の若い娘は、どうにも理解ができんのだ! 夢の中で白馬に乗って迎えに行っても『馬より飛空艇のほうが効率的では?』と真顔で問われ、情熱的に愛を囁けば『その熱量を資産運用に回すべきだ』と説教される始末! 我々が数千年培ってきた、伝統的な求愛術が全く通用しない!」
彼は、いかに現代女性の夢が複雑怪奇で、ビジネスライクであるかを切々と力説する。
聞いているだけで頭が痛くなるような内容に、カイは思わずこめかみを押さえた。
「脆弱な人間の雌の好みなど、知ったことか。食い物を漁るのと、子孫を残すこと以外に、奴らが何を考えておるというのだ」
リンドは、心底どうでもよさそうに一蹴する。
カイは、面倒くさそうに耳を掻きながら、投げやりに答えた。
「ああ?……知らねえよ。とりあえず、女ってのは話を聞いてほしい生き物なんじゃねえの? うんうんって頷いてりゃ満足するだろ。あと、なんか甘いもんでも食わせとけ。腹が満たされりゃ、大抵の生き物は機嫌が直る」
その言葉に、黙々とグラスを磨いていたノインの手が、ピクリと止まった。
彼女はすっと身を翻すと、店のデザートメニューをイオの前に差し出した。
その無言の圧力は、まるで「これを選べ」と語っているかのようだ。
恋愛経験が夢の中しかない純粋なイオは、カイのあまりに適当なアドバイスを、天啓のように受け止めていた。
「なるほど! まず相手の話を『傾聴』し、心の壁を溶かして懐に入り込む。そして、心を開いた瞬間に『甘味による報酬』を与え、我が輩の存在を肯定的に、そして甘美な記憶として刷り込ませる……なんと高度な心理戦術だ!」
一人で納得し、深く感動したイオは、「礼は必ず!」と言い残して意気揚々と店を去っていった。
数日後、街に奇妙な変化が訪れた。
お忍びで店にやってきた勇者アランが、困惑した表情でカイに尋ねる。
「カイさん、何か知りませんか? 最近、街の男たちがやけに女性の話を真剣に聞きたがるようになったんです。それだけならいいんですが、会話の途中で突然、『ケーキはいかがかな?』なんて勧めてくるらしくて……」
原因は、言うまでもなくイオだった。
彼がカイのアドバイスを夢の中で忠実に実践したところ、女性たちの間で「私の話を真剣に聞いてくれる、甘いものを勧めてくれる紳士が夢に!」と大評判になったらしい。
その噂は瞬く間に現実世界に逆流し、「女性にモテる最新の秘訣」として、アステルの男性たちの間で一大ブームを巻き起こしていた。
結果、街のケーキ屋は連日長蛇の列。
カフェのあちこちでは、女性が一方的に話し、男性は神妙な顔で頷きながらケーキを差し出すという、異様な光景が繰り広げられているという。
(あのバカ、本気でやりやがったのか……)
カイは、自分の適当な一言が生んだ珍妙な社会現象に、ただただ頭を抱えるしかなかった。
その夜、自信に満ち溢れた表情のイオが、再び店に姿を現した。
以前の悩みは何処へやら、その立ち姿は堂々たるものだ。
「師匠! 全ては貴殿のアドバイスのおかげだ!」
彼はカイに深々と頭を下げると、懐から一輪の青い薔薇を取り出した。
それはまるで星屑を振りまいたかのように、淡く清らかな光を放っている。
「これはお礼の品だ。夢の中でしか咲かぬという『安息の薔薇』。枕元に置けば、心地よい眠りを約束してくれる」
「だから、俺は師匠じゃねえし、何もしてねえよ……」
うんざりした顔で頭を掻くカイに、イオは「ご謙遜を」と、さらに尊敬の眼差しを向ける。
「師匠、僭越ながら、次の指南もお願いしたい! 『甘味』の次の段階について、ぜひともご教示いただきたい!」
その目を輝かせる姿に、カイは深いため息をついた。
そして、カウンターの端でミーナがつまみ食いしようと手を伸ばしていた、ナッツの盛り合わせの皿を差し出す。
「……次は、こういう、しょっぱい系で揺さぶっとけばいいんじゃねえの」
「なるほど!」
イオの瞳が、カッと見開かれた。
「『甘さ』の次は『塩気』! 甘やかした後に、少しだけ焦らす……まさに恋の駆け引きそのもの! さすがは我が師匠!」
新たな(そして、またしても間違った)感銘を受けたイオは、意気揚々と去っていく。
彼の背中を見送りながら、カイは、今度は街のナッツやポテトが品薄になる未来を予感して、静かに天を仰いだ。
カウンターの隅からは、「あ、あたしのナッツが……」という、ミーナの悲しそうな声が聞こえていた。




