13:路地裏の取引と、パスタとチョコレートパフェの対価
その日のBAR【second】は、珍しく静寂に満ちていた。
店の主たるカイがカウンターを磨く音だけが響き、その奥、特等席の主は、銀の髪をカウンターに広げて穏やかな寝息を立てている。
古龍リンドが眠っている。
それだけで、店には教会のような静謐が訪れる。
その静寂を破ったのは、乾いた扉の音だった。
大きな籠を背負った、活発そうな少女が一人、店に入ってくる。
彼女はカウンターに腰を下ろすと、とりあえずといった様子で水を一杯注文した。
カイが黙ってグラスを差し出すと、少女はそれをゆっくりと飲んでいる。
やがて、客の対応を終えたカイが、自分の賄いのために厨房でフライパンを振り始めた。
ベーコンの焼ける香ばしい匂いと、ハーブの爽やかな香りが、静かな店内に満ちていく。
その匂いに、籠の少女の喉がごくりと鳴った。
「……ねえ、あんた。それ、一杯いくらだ?」
少女は、カイが今まさに作っているパスタを指さした。
「……うちは飯屋じゃないんだがな」
カイはぼやきながらも、手際よくパスタを皿に盛り付ける。
その隣に、入れ替わるようにして、もう一人の客が音もなく腰を下ろした。
フードを目深にかぶった、ミステリアスな少女。彼女は一枚の銀貨をカウンターに置くと、ただ一言、こう呟く。
「チョコレートパフェ」
「今度は喫茶店か……」
カイは本日二度目のため息をつきながらも、その注文に応える。
横並びに座る二人の少女は互いに無関係を装っているが、その雰囲気は明らかに町娘のものではなく、カイは面倒事の匂いをはっきりと嗅ぎ取っていた。
やがて、二人がそれぞれの食事を終える。
それを合図に、カウンターの下で、静かに荷の受け渡しが始まった。
籠の少女が頑丈な小箱を、フードの少女が小さな革袋を。
その受け渡し中、小箱がカタカタと小刻みに揺れた。
フードの少女が素早く錠を外し、中を確認する。
そのフードの下の表情が、わずかに焦りの色を帯びた。
「……まずい。孵化が始まっている」
その囁きを、カイの耳は聞き逃さない。
彼はそれを横目で見ながら、静かに成り行きを窺っていた。
二人は代金をカウンターに叩きつけるように置くと、小箱を抱えて店の外へ慌てて飛び出していった。
「てめえら、逃げる気か!」
カイは舌打ち一つ、後を追って路地裏へ飛び出した。
すぐに追いつき、二人の行く手を阻む。
「うちの店で何やってやがる」
小箱の中から、先ほどよりもはっきりとした「きゅるる……」というか細い鳴き声が漏れる。
二人は顔を見合わせ、黙り込んだ。
その時、遠くで、空気を震わせるような咆哮が響いた。
最初は小さく、だがそれは確実に、徐々に大きさを増しながらこちらへ近づいてきている。
尋常ではない威圧感に、フードの少女が観念したように、自らフードを取った。
現れたのは、人形のように整った、しかし血の気の引いた顔。
「ノインだ。情報屋……。こいつは運び屋のミーナ。依頼品の受け渡しをしていた」
籠の少女――ミーナも、観念したように頷く。
「荷は『グリフォンの卵』。だったんだが……」
ノインが小箱の蓋を開けて見せると、白い卵の殻が内側から砕け、その隙間から濡れた黄色い嘴が突き出て、か細く鳴いていた。
その鳴き声に応えるかのように。
路地裏の建物と建物の隙間、その暗がりから、巨大な影がぬっと姿を現した。
鋭い鉤爪、鷲の頭を持つ、翼の生えた獅子。
卵を盗られた親グリフォンが、血走った目でこちらを睨みつけている。
グルルルルァァァァッ!
夜空を引き裂く咆哮。
その不快な高周波に当てられ、街の外にいたジャイアントバットの群れが、狂乱してグリフォンへと向かっていく。
金切り声を上げながら、黒い渦となって街の上空を飛び交い始める。
「なんだなんだ!?」「空に化け物が!」
ただ事ではない騒ぎに、周囲の店や民家から人々が飛び出し、路地裏はあっという間に野次馬で溢れかえった。
カイは素早く状況を判断すると、ノインの手から小箱をひったくった。
「おい、デカいの! 探し物はこれだろ!」
親グリフォンの注意を自分に引きつけ、彼は天に向かって、小箱ごと雛を高く放り投げた。
親グリフォンは、弾丸のような速さで空へと駆け上がると、落ちてくる我が子をその嘴で器用に、そして優しく受け止める。
カイを一瞥すると、満足げに一声鳴き、夜の闇へと飛び去っていった。
だが、問題はまだ終わらない。
親がいなくなっても、一度狂乱したジャイアントバットの群れは収まらず、街の上で暴れ続けている。
そして、その耳障りな騒音の奔流は、ついに眠れる古龍の忍耐の限界を超えた。
「……五月蝿い」
地殻変動のような不機嫌さをまとって、店の入り口にリンドが立つ。
その碧眼は怒りの炎で赤く揺らめいていた。
先ほどのグリフォンとは比較にさえならない、本物の『災厄』の気配。
ミーナとノインは、その絶対的なプレッシャーを前に、恐怖で呼吸さえ忘れていた。
リンドが一歩踏み出すと、銀髪が魔力に逆らい、身体から空間そのものが軋むような音が響き始める。
カイは、彼女がこの街を更地にする未来をはっきりと見て、その肩に手を置いた。
「待て」
「……ああ?」
「俺がやる」
リンドは、カイの顔を面白くなさそうに一瞥したが、やがてフンと鼻を鳴らした。
「まあ、お主がやるなら一瞬じゃろ。儂はソファで寝直す」
そう言い残し、彼女はさっさと店の中へ戻っていく。
後を託されたカイは、屋根の上へと視線を向けた。
次の瞬間、彼は店の壁を足場に、まるで重さがないかのように数回蹴ると、あっという間に闇夜へと駆け上がる。
その手には、いつの間にか抜き放たれた、名前もない黒い鞘の剣が握られていた。
月光を背負い、彼の影が地に落ちた獣のように伸びる。
一歩。
屋根から踏み出した彼の姿は、次の瞬間には蝙蝠の渦の中心にいた。
カイが舞う。剣閃は、まるで流星群だった。
一つの軌跡が、十の命を刈り取る静かな嵐。
音がなかった。
狂乱していたはずのジャイアントバットの群れは、悲鳴を上げる間もなく、ただの黒い雨となって次々と地上に吸い込まれていく。
ほんの数十秒。
全ての影が地に落ち、街に再び静寂が戻った時には、カイはいつの間にか路地裏に降り立ち、何事もなかったかのように剣を鞘に納めていた。
集まった住民たちは、今起きたことを理解できず、ただ呆然とカイの姿を見つめている。
カイは、そんな彼らに向き直ると、傍らで震えているミーナとノインの首根っこを、それぞれ片手でむんずと掴んだ。
「うちの店の客が、ご迷惑をおかけしましたー!」
彼は二人を引きずりながら、住民たちの前に進み出る。
そして、二人の頭を無理やり下げさせた。
「ほら、お前らも謝れ!」
「「ご、ごめんなさい……!」」
圧倒的な活躍の後処理は、二人の少女を道連れにした、あまりに情けない平身低頭で幕を閉じた。




