11:宝箱のしゃっくりと、災難の報酬
その夜のBAR【second】は、いつにも増して静かだった。
客はとうの昔に途絶え、壁に掛けられた古時計の秒針が時を刻む音だけが、店内に微かに響いている。
店長のカイはカウンタークロスを手に、一つ、また一つとグラスを磨き上げていた。
「……退屈じゃのう」
カウンターの特等席。
頬杖をついた店のオーナー、リンドが吐いたため息は、磨かれたグラスの表面を曇らせるほどに深かった。
「何か面白い見世物はないのか、小僧。例えば、そうじゃな……お主がカウンターで転んで、酒瓶の棚をドミノ倒しにするとか」
「あんたのツケで弁償するなら、いつでも派手にやるが」
軽口を叩き返しながら、カイは最後のグラスを棚に戻した。その時だった。
カラン……。
店の扉が、客の到来を告げる。
だが、そこに人の姿はなかった。
吹き込んできた夜風が、床の埃を小さく舞わせるだけ。
(気のせいか……)
カイが首を傾げた、その時。
床を擦るような、奇妙な音が耳に届いた。
視線を落とすと、そこには古びた木製の宝箱が一つ。
誰かが忘れていったのか。
いや、違う。
ぴょこん、ぴょこん。
それは、まるで生き物のように、自らの意思で跳ねながら店の中へと侵入してきていた。
そして、一定のリズムで、箱全体を奇妙に震わせている。
「カックン!……ヒック!」
しゃっくりだ。
宝箱が、しゃっくりをしている。
明らかに尋常ではないその光景に、カイの眉間に深いシワが刻まれた。
宝箱は助けを求めるように、カウンターの脚にゴン、ゴンと体当たりを繰り返している。
「ほう」
それまで退屈そうにしていたリンドが、面白そうに目を細めた。
「ミミックの若造か。随分と食い意地が張っておるようじゃな」
「ミミック……あの、宝箱に化ける魔物か。子供は初めて見るな」
リンドに促されるように、カイは仕方なくカウンターから出た。
恐る恐るミミックの蓋に手をかけると、苦し紛れにか、宝箱がわずかにその口を開く。
隙間から、金色の輝きが見えた。
「なるほど、金貨を喉に詰らせたのか。自業自得だろ、こんなもん」
カイが呆れ返った、まさにその時。
店の扉の隙間から、見慣れた男がひょっこりと顔だけを覗かせた。
ギルドマスターのゼノンだ。
「か、カイ殿……! そ、そいつ、儂の金貨を……!」
聞けば、マグナスの農地保証人手続きの帰りに、店の前でうっかり金貨を落としてしまったらしい。
硬い石畳に当たって金貨が甲高い音を立てた、その瞬間。
どこからともなく現れたこの宝箱が、まるで待ち構えていたかのようにパカリと口を開け、落ちる途中の金貨を空中で丸呑みにしたのだという。
「返せと追いかけたら、この店に逃げ込んで……!」
目に涙を浮かべて訴えるゼノンの姿に、それまで冷ややかだったカイの視線が、ふと、どこか物悲しげなものに変わった。
「ギルドマスターって、そんなに……大変なんですね」
「えっ? いや、そういうことじゃなくて!」
ゼノンの悲痛なツッコミは、しかし、次の瞬間にはかき消されることになる。
彼の涙ぐんだ訴えなどおかまいなしに、ミミックの苦しさはピークに達したようだった。
パニックを起こし、店内をめちゃくちゃに跳ね回り始める。
ガタン、と音を立てて椅子が倒れ、テーブルから滑り落ちたグラスが床で砕け散った。
「おい、暴れるな! 修理代はきっちり請求するからな!」
カイは舌打ちすると、厨房からバーベキュー用の長いトングを持ち出してきた。
「迷惑料込みで高くつくぞ、お前がミミックだからって関係ないぞ!」
彼はトングの先で、ミミックの口内から金貨を直接引き抜こうと試みる。
しかし、金属の感触に驚いたミミックは、ガチン! と固く口を閉ざしてしまった。
「ええい、まどろっこしいわ!」
痺れを切らしたリンドが、優雅な仕草で立ち上がった。
「我が秘蔵の『竜の吐息』を一杯飲ませれば、金貨もろとも胃袋まで溶かしてくれるわ!」
「冗談じゃない! この店が跡形もなく消し飛ぶわ!」
物騒極まりない治療法を、カイは即座に却下する。
彼は思考を巡らせた。
こいつは理性ではなく、本能で動く魔物。ならば……。
カイはカウンターの下をごそごそと漁り、一本の埃をかぶった瓶を取り出した。
ラベルには「薬草酒・試作品(失敗)」と書かれている。
栓を抜いた瞬間、鼻が曲がるほどの強烈な悪臭が、店内に満ち満ちた。
「うっ……!」
ゼノンが鼻を押さえる。
カイはその瓶を、ミミックの鍵穴――おそらくは鼻に相当する器官――へと、ぐいと近づけた。
強烈な刺激臭に、ミミックの木製の身体がぶるぶると大きく震え始める。
そして。
「ヘッ……ヘェーーックションッ!!」
宝箱が放ったとは思えぬ、盛大なくしゃみが炸裂した。
その勢いで、口内から金貨が弾丸のように発射される。
キンッ! と甲高い音を立てて壁に当たった金貨は、リンドが咄嗟に展開した魔力障壁に弾かれ、天井のランプを揺らし、複雑な軌道を描いて店の入り口へと飛んでいく。
そして――。
チャリン。
呆然と立ち尽くすゼノンが、反射的に差し出した手のひらの上へ、まるで吸い込まれるように収まった。
ゼノンは金貨を固く握りしめると、深々と頭を下げ、嵐のように去っていった。
後には、ミミックが吐き出したガラクター小石、錆びた釘、片方だけの靴下などと、めちゃくちゃになった店内が残された。
すっかり消耗しきったミミックは、カイの足元にすり寄ると、感謝を示すように、口の中から最後の一つをコロン、と吐き出した。
それは、ただの古びた木の実にしか見えない。
ミミックは満足げに口をカチリと鳴らすと、静かに店を去っていった。
「はぁ……。掃除代にもなりゃしねえ」
カイがその木の実に視線を落とした、その時だった。
何気なくそれを拾い上げたリンドの表情が、凍りついた。
退屈に過ごしてきた古龍の瞳が、真実の驚愕に見開かれる。
「……小僧。これは……『世界樹の若芽』じゃぞ……」
枯れた大地さえも蘇らせるという、神話の中にしか存在しないはずの、伝説級アイテム。
カイとリンドは、そのとてつもない価値を秘めた「若芽」と、足の踏み場もないほど散らかった店内を見比べる。
やがて、カイは深いため息と共につぶやいた。
「で、これ、床掃除してくれるのか?」




