10-2:元・魔王、皿を洗う(そして、全てを壊す)
営業を終えたBAR【second】の厨房は、静かな戦場と化していた。
シンクの中には、客たちが残した喧騒の残滓――ソースの跡がこびりついた皿、酒の香りが微かに漂うグラス――が、まるで一つの山脈のようにそびえ立っている。
その絶望的な光景を前に、元・魔王マグナスは仁王立ちのまま、途方に暮れていた。
「いいか、よく聞けよ、新人。魔力は絶対、ぜーったいに使うな。いいな?」
店長のカイが、まるで幼子に言い聞せるように、指を立てて念を押す。
その隣では、店のオーナーであるリンドが腕を組み、面白くてたまらないといった表情で壁に寄りかかっていた。
「それから、力任せにゴシゴシ擦るな。泡で汚れを浮かせて、水で流す。ただそれだけだ。いいか、お前の仕事は洗浄であって、破壊じゃない」
「……承知した」
マグナスは、かつて大陸の半分を恐怖に陥れたとは思えぬほど神妙な面持ちで頷いた。
その手に握られているのは、魔剣ではなく、黄色くて柔らかいスポンジである。
「フン。魔王軍を率いたその手で皿洗いとはのう。滑稽の極みじゃ、マグナス」
リンドの嘲笑が、厨房の狭い空間に響く。
マグナスは額に青筋を一つ浮かび上がらせたが、ぐっとこらえた。今は耐える時だ。
この店で生き抜くと決めたのだから。
(屈辱……! だが、これも第二の人生とやらを歩むための試練……!)
彼は深く息を吸い込み、決意を新たにした。
そして、生まれて初めての皿洗いに挑む。
まず手に取ったのは、厚手の陶器でできた頑丈な皿だ。
カイの教え通り、スポンジに洗剤をつけて優しく泡立てる。
(そうだ、力は入れるな……撫でるように、だ……)
しかし、彼の指が皿の縁に触れた、その瞬間だった。
パリン!
乾いた、しかし決定的な音が響き渡る。
マグナスの手の中で、分厚いはずの皿が蜘蛛の巣状のヒビに覆われ、次の瞬間には呆気なく砕け散った。
記念すべき、犠牲者第一号である。
「……む」
(脆すぎる……人間の作る器というものは、これほどまでに脆弱なのか……!)
マグナスは眉をひそめ、今度はさらに細心の注意を払って次の皿を手に取った。
だが、清潔な皿を重ねようとシンクの脇に置いただけで、下の皿とぶつかった衝撃が許容量を超えたらしい。
カシャン、と嫌な音を立てて二枚目の皿が欠ける。
焦りが、彼の指先から理性を奪っていく。
「おい、だから力抜けって……」
カイの呆れた声が届くより早く、悲劇は連鎖した。
マグナスは蛇口をひねろうとした。
ほんの少し、水を出すだけのつもりが、彼の怪力は金属製のハンドルを根元からねじ切る。
凄まじい勢いで噴出した水が天井に叩きつけられ、厨房は瞬く間に雨漏りのような惨状と化した。
カイは、もはや何も言う気力もなく、ただ静かに天を仰いだ。
店の備品リストが、頭の中で次々と赤線で消されていく。
数日が過ぎた。
厨房への出入りを固く禁じられたマグナスは、開店前の店内で所在なく立ち尽くしていた。
皿洗いは惨憺たる結果に終わったが、カイはまだ彼を見捨ててはいなかった。
最後の望みを、「用心棒」という役割に託していたのだ。
しばらくした夜、店の扉が乱暴に開け放たれた。
現れたのは、いかにも柄が悪いといった風体の男が三人。
大戦が終結して数年、戦場にしか己の居場所を見出せなかった者たちにとって、訪れた和平とは燻る不満の種でしかなかった。
そんな元兵士崩れのチンピラだった。
彼らはカウンターに陣取ると、ことさらに大きな声で騒ぎ立て、カイが出した酒にケチをつけ始めた。
「なんだぁ、この安酒はよぉ! これっぽっちで銀貨一枚だとぉ?」
「前の戦争じゃ、もっと上等な酒が飲み放題だったぜ。なあ?」
カイは柳に風と受け流し、飄々とした態度を崩さない。
しかし、チンピラの一人が、カウンターの奥で静かに本を読んでいたリンドに目をつけた。
「お、姐さん、いい女じゃねえか。こんな陰気な店より、俺たちと楽しいことしようぜ?」
下品な笑い声と共に、男がリンドに近づいていく。
店内の空気が一気に張り詰めた。
他の客たちが固唾を飲んで見守る中、カイは静かに厨房の方へ視線を送る。
そこには、戸口から心配そうにこちらを窺う、エプロン姿の巨漢がいた。
「おい、出番だぞ」
カイの声は、氷のように冷たい。
「ただし、絶対に殺すな。半殺しもダメだ。指の一本も折るんじゃねえぞ。分かったな」
それは、元・魔王に対して出されるには、あまりにも具体的で無茶な指示だった。
カイの合図を受け、マグナスが通路からぬっと姿を現す。
バーテンダーのエプロンという場違いな格好にもかかわらず、その巨躯から放たれる威圧感は凄まじい。
チンピラたちが一瞬、言葉を失い怯んだ。
「な、なんだテメェ……!」
リーダー格の男が虚勢を張り、マグナスに殴りかかった。
マグナスはカイの言いつけを脳内で反芻する。
(殺すな、半殺しもダメ、指も折るな……つまり、最大級の配慮をしろ、ということか……!)
彼は飛んでくる拳を避け、男の腕を「そっと」掴んだ。
マグナスにとっては、生まれたての雛鳥に触れるような、細心の注意を払った接触だった。
ミシミシミシ……!
しかし、彼の「そっと」は、屈強な男の腕を軋ませるには十分すぎた。
骨がきしむ鈍い音が静かな店内に響き渡り、男の顔がみるみるうちに蒼白に染まっていく。
「ぎ……ぁ……!」
「む、すまん」
マグナスは慌てて手を離した。
その隙を突き、別の男が懐からナイフを抜き、ギラリと光らせて襲いかかってくる。
(これも、殺傷能力が高すぎる……!)
マグナスは、そのナイフをデコピンで弾き飛ばした。
彼にしてみれば、ただの牽制。
しかし、デコピンの衝撃波はチンピラを店の壁まで吹き飛ばし、大の字になったまま気絶させた。
弾かれたナイフは甲高い音を立てて天井に深々と突き刺さり、ぷらぷらと揺れている。
残る一人は、目の前で起こった超常現象に完全に戦意を喪失していた。
恐怖のあまり腰を抜かし、その場で無様にへたり込む。
「ひぃっ……!」
「……店の外に出ろ」
マグナスは最後の男の襟首を掴むと、彼を店の外に「優しく」つまみ出した。
だが、その力がわずかに強すぎたらしい。
バキッ! メキメキメキッ!
男を扉の外に出した瞬間、重厚な木製の扉が蝶番ごと壁から引き剥がされ、轟音と共に倒れた。
半壊した入り口から、冷たい夜風が吹き込んでくる。
カイは、カウンターに突っ伏して、再び頭を抱えていた。
騒ぎが収まった後、マグナスは破壊された扉の残骸の前で、深く項垂れていた。
(まただ……また、儂はやりすぎてしまった……)
自分の力が、この平和な世界ではただの厄災でしかない。
その事実が、ずしりと彼の肩にのしかかる。
守るための力さえ、何かを壊さずには振るうことができないのだ。
ふと、目の前に温かいスープの入ったカップが差し出された。
顔を上げると、カイが大きなため息をつきながら立っている。
彼は何も言わず、ただ顎でスープを飲むように促した。
マグナスは無言でカップを受け取り、一口、それを口に含んだ。
その瞬間、力強く、そしてどこまでも優しい生命力に満ちた味わいが、彼の全身に染み渡っていく。
「この、大地のような香りは……なんだ?」
それは、彼がこれまで口にしてきたどんな豪勢な料理とも違う、素朴で、しかし魂を揺さぶるような味だった。
「店の裏で育ててるハーブだ」
カイが、瓦礫の山と化した扉に寄りかかりながら答える。
「別に魔力もいらねえ。いるのは土と水と、太陽の光だけだ」
彼はマグナスを一瞥し、静かに続けた。
「なあ、あんたのそのデカすぎる力は、何かを壊すか、守るために誰かを殴るかにしか使えないのか? ……例えば、何かを『育てる』ために使ってみるってのは、どうだ?」
その何気ない一言が、雷のようにマグナスの心を貫いた。
(育てる……?)
破壊と支配。
それしか知らなかった元・魔王の脳裏に、初めて「創造」という、全く新しい選択肢が浮かび上がった。
彼はスープのカップを握りしめたまま、窓の外に広がる暗い土を、まるで初めて見るもののように、じっと見つめていた。
しばしの沈黙の後、マグナスはゆっくりと立ち上がった。
その顔からは、先程までの絶望の色が消えている。
「世話になったな、カイ。短い間だったが、礼を言う」
彼は深く、カイに頭を下げた。
「あんたには、感謝しかない。……それから、アラン殿には、迷惑をかけたと伝えてくれ。それと……もし、リチャードに何かあれば、いつでも相談に乗るとも」
その名前に、カイは少しだけ眉を動かしたが、何も問わなかった。
「儂は行く。儂自身の力で、何かを『生み出す』ために」
決意を宿した目でそう言うと、マグナスは瓦礫の山をものともせず、夜の闇へと歩み去っていった。
その背中は、店に来た時とは比べ物にならないほど、大きく、そして晴れやかに見えた。
一人残されたカイが、やれやれと首を振った、その時だった。
それまで黙って一連の顛末を眺めていたリンドが、クツクツと肩を震わせ始める。
その笑いは次第に大きくなり、ついに堪えきれなくなった。
「く……くく……あっははは! なんじゃそれは! 用心棒が店を半壊させ、皿も洗えぬ男が、土いじりじゃと? あーっはっはっは! 腹が、腹が痛いわ!」
古龍のけたたましい笑い声が、半壊したバーに響き渡る。
こうして、元・魔王マグナスの再就職活動は幕を閉じた。
しかし、彼の新たな道――のちに大陸最高の篤農家と讃えられる「農夫マグナス」へと続く道が、静かに開かれた夜となった。




