9:幸運の鱗と蜜の酒
その夜、Bar "Second"の店内は、うっとりするほど甘く、芳醇な香りに満たされていた。
カイがカウンターの内側で、新しいカクテルのレシピを試作していたのだ。
先日、妖精を助けた礼にとエルフの薬草師から少量分けてもらった夜光花の蜜。
それに数種類のベリーを潰した果汁と、ミントの葉を一枚だけ浮かべて。
グラスの中で淡い光を放つ液体からは、まるで真夜中にだけ開く伝説の花園のような、幻想的な香りが立ち上っていた。
「フン。今回のものは、まあ鼻を塞ぐほどではないな」
カウンターの奥で酒を飲んでいたリンドが、珍しく否定以外の言葉を口にする。
彼女ほどの存在がそう言うのだから、この香りがよほど類稀なものであることは間違いなかった。
その時だった。
店の扉が、カタン、と静かな音を立てて揺れる。
まるで、小さな子供が遠慮がちにノックしているかのような、か細い音。
やがて、扉はそっと内側へ開いた。
そこにいたのは恐ろしい魔物ではない。
色鮮やかな蝶の翅を持ち、ゆらゆらと宙を舞う、猫ほどの大きさの小さな竜だった。
その小さな竜――フェアリードラゴンは、店内に満ちる甘い香りに誘われるように、一直線にカウンターへと飛んでくる。
そして、カイが試作していたカクテルのグラスの前に、音もなくちょこんと着地した。
その大きな瞳は、グラスの中の液体に釘付けになっている。
やがて、フェアリードラゴンは鈴の鳴るような可憐な声で、カイに話しかけた。
「香りの主よ! 私は花の蜜を求めて旅をする者。この香りは、まだ私が見つけたことのない伝説の花、『月光花』の蜜に違いありません! どうか、その花のありかを教えてはいただけませんか?」
そして、キラキラと虹色に輝く自らの翅を誇らしげに広げ、こう続けた。
「教えてくださったお礼には、我が翅の鱗を一枚差し上げます。これを持つ者には、ささやかな幸運が訪れると言われています」
「いや、これは花じゃなくて酒なんだが……」
カイが困惑しながら説明しようとした、その時。
リンドが、面白そうに口を挟んだ。
「黙れ、小僧。客との交渉の邪魔をするでないわ」
彼女はフェアリードラゴンを頭のてっぺんから尻尾の先まで、まるで骨董品でも品定めするかのように眺めると、尊大な口調で言った。
「ほう、フェアリードラゴンか。竜
とは名ばかりの、矮小な亜種よの。じゃが、その鱗に魔力が宿るという伝承は真実じゃ。人間の女子供が喜びそうなおとぎ話の産物よな」
その言葉には、絶対的な上位者としての余裕と、自分とは全く違う進化を遂げた遠い親戚を眺めるような、奇妙な好奇心が混じっていた。
リンドの解説を聞き、フェアリードラゴンはカイの言葉の意味をようやく理解したらしい。
これが花の蜜ではなく、人間の作り出した模造品だと知った途端、その愛らしい顔はしょんぼりと俯き、輝いていた翅も力なく垂れ下がってしまった。
期待していた伝説の花が見つからず、がっかりして飛び去ろうとするフェアリードラゴン。
そのあまりに落ち込んだ小さな背中を見て、カイは思わず声をかけた。
「まあ待て。花の場所は教えられないが、この『蜜』でよければ、一杯ご馳走するぞ」
その言葉に、フェアリードラゴンの顔がぱあっと輝く。
彼は喜んでグラスに近づくと、小さな赤い舌で、グラスの縁からカクテルをぺろぺろと舐め始めた。
よほど気に入ったのか、喉を鳴らしながら夢中になって飲み干していく。
グラスが空になる頃には、フェアリードラゴンはすっかり満足げな表情を浮かべていた。
彼は一つ息をつくと、カイに向き直る。
「約束は約束だ、蜜の作り手よ!」
そう言うと、彼は自らの翅から、一際大きく、虹色に輝く美しい鱗を一枚、器用に剥がしてカイの手に乗せた。
「極上の蜜であった!」
言い残し、フェアリードラゴンは満足げに夜の闇へと飛び去っていく。
後には、カイの手のひらの上で、生きているかのように温かく、そして不思議な光を放つ一枚の鱗だけが残った。
リンドがそれを横から覗き込み、鼻で笑う。
「フン。たかが一杯の砂糖水で、運を手に入れたか。悪くない取引じゃな、小僧」
カイは手のひらの鱗をそっと握りしめた。
これがもたらすという「ささやかな幸運」とは、一体どんなものだろうか。
彼は夜の闇が消えた扉を見つめながら、静かにそんなことを考えるのだった。




