1:歌うキノコと静寂の夜
王都から馬車を走らせて三日ほどの距離にある地方都市アステル。
石畳の通りを職人たちの工房が彩る職人街と、夜の賑わいを見せる歓楽街。
その二つの世界の境界を縫うように走る、忘れられたような路地裏にその店はあった。
手書きの素朴な木製の看板には、ただ『Bar "Second"』とだけ記されている。
磨き上げられた扉を開けると、まず耳に届くのは落ち着いた曲の旋律。
そして、年代物の木材と微かなアルコールが混じり合った、心地よい香りが鼻腔をくすぐる。
店長のカイは、カウンターの内側で気だるげにグラスを拭いていた。
その手つきは無駄がなく、流れるようで、磨かれたグラスがカンテラの淡い光を反射してきらめく。
まだ宵の口、客の姿はどこにもない。
ただ一人、カウンターの一番奥、特等席とでも言うべき場所に腰掛ける女がいた。
絹のような銀の髪、血のように赤い瞳。
人間離れしたその美貌は、この薄暗い空間の中でさえ、一つの芸術品のように際立っている。
彼女――店のオーナーであるリンドは、組んだ脚を揺らしながら、空になったグラスをカウンターにトン、と置いた。
「おい小僧。オーナーのグラスが空だぞ。さっさと注いだらどうだ、雇われ店長」
尊大な、しかし鈴を転がすように美しい声だった。
カイは拭き上げていたグラスを棚に戻すと、やれやれとでも言いたげに肩をすくめる。
「へいへい。だがな、あんたは俺の『従者』でもあるんだろ? 主に酒を注がせる従者がどこにいるんだか」
「フン……。この店では儂がオーナーじゃ。そしてお主は儂が雇った店長。ここでは儂のルールに従ってもらう」
リンドは赤い瞳を細め、唇の端に挑発的な笑みを浮かべた。
その視線を受け流し、カイはわざとらしく大きなため息をついてみせる。
「その店も、あんたと俺の契約を生活ために用意したようなもんだろうに……まあいいさ、今日はあと一杯だけだぞ」
主でありながら雇われの身。
従者でありながら店の所有者。
そんな奇妙でねじれた関係性こそが、この店の日常だった。
カイが新たなボトルに手を伸ばした、その時だった。
ガタガタガタッ!
店のー通り沿いの扉とは違う、もうひとつの扉が、まるで誰かが激しく揺さぶっているかのように、けたたましい音を立て始めた。
曲の旋律が、その不協和音にかき消される。
カイとリンドの軽口がぴたりと止んだ。
二人の視線が、音を立てる扉へと注がれる。
それは、この店に非日常が訪れる合図。
ダンジョンと繋がってしまった、厄介な兆候。
(またかよ……)
カイの内心の呟きを待たずして、扉は勢いよく内側へと開け放たれた。
そこに立っていたのは、屈強な冒険者でも、酔い潰れた客でもない。
人の背丈ほどもある巨大なキノコ。
色とりどりのカサを持ち、ぬめりとした軸には、まるで足のように動く根が無数に生えている。
そんな異形の存在が、我先にと店内へなだれ込んできた。
一体、二体、三体……その数はあっという間にカウンターの前を埋め尽くす。
そして、大合唱が始まった。
「♪サーケーノーメーー!」
「♪ウタエオドレーーー!」
「♪モットコーーイ!」
どこかの酒場で酔客が叫んでいたのであろう言葉を、調子っぱずれな甲高い声で延々と繰り返す。
一体一体の声はか細いのに、数が集まるとそれは凄まじい騒音となり、店の壁をビリビリと震わせた。
「……ああ、頭が痛ぇ」
カイはこめかみを強く押さえ、心の底から深いため息をつく。
この手の珍客には慣れているとはいえ、騒々しいのは勘弁願いたい。
彼はカウンターの下から塩がたっぷりと入った瓶を取り出すと、キノコたちの群れに向かって盛大にぶちまけた。
清めの塩。並の魔物なら悲鳴を上げて逃げ出すはずだ。
だが、キノコたちは塩を浴びても歌うのをやめない。
それどころか、塩を浴びてテンションが上がったのか、さらに大声で歌い始めた。全く効果はないらしい。
「下等な菌類どもが……儂の静寂を乱すでないわ」
リンドは、その美しい眉を限界まで吊り上げ、心底不愉快だと言わんばかりにキノコたちを睨めつけていた。
彼女にとって、この静かな空間で上質な酒を味わう時間は何よりも重要だった。
それを邪魔する存在は、たとえ神であろうと許さない。
彼女の白い指が、ゆっくりと持ち上げられる。その指先に、小さな赤い光が灯った。
いよいよ我慢の限界に達したリンドが、苛立ちのままにその指先を振るう。
放たれた小さな火の玉は、一番近くで歌っていたキノコのカサを掠め、その表面をわずかに焦がした。
ジュッ、と小さな音が響いた、その瞬間だった。
ふわり、と店内に満ちたのは、それまでの騒々しさを忘れさせるほどに、芳醇で香ばしい匂い。
まるで上質な干しキノコを丁寧に炙り、そこに調味液を数滴垂らしたかのような……猛烈に食欲を刺激する香りだった。
それまで騒音に顔をしかめていたカイとリンドが、同時にピタリと動きを止める。
二人の鼻が、くん、とわずかに動いた。
「……なんじゃ、この芳香は」
リンドが驚きに目を見開く。
その視線は、カサの焦げたキノコに釘付けになっていた。
カイもまた、匂いの発生源に気づき、近くで歌い続けているキノコの一本をひょいと掴み上げる。
間近でまじまじと観察し、そして確信に近い何かが胸に宿る。
(まさかこいつ、食えるのか……? それも、とんでもない高級食材なのか……!)
二人の視線が、カウンター越しに交錯した。
互いの目に宿る色が変わる。
つい今しがたまでの「厄介者の排除」という目的は、瞬時にして「高級食材の一掃」という、より具体的で欲望に満ちた目標へとすり替わっていた。
「リンド」
カイの声には、先程までの気だるさは微塵もない。
「魔法で一箇所に集められるか? なるべく傷つけずにな」
「フン、主の頼みとあらば造作もない。それより、この数をどうするつもりじゃ?」
リンドは楽しそうに喉を鳴らす。
その赤い瞳は、獲物を見つけた獣のように爛々と輝いていた。
「決まってるだろ」
カイは口の端を吊り上げ、獰猛な笑みを浮かべた。
「最高のスープにしてやるんだよ」
カイが厨房の奥から持ち出してきたのは、店で一番大きな寸胴鍋。
それをコンロにかけると、リンドがおもむろに立ち上がり、優雅な仕草でキノコたちの群れへと手をかざした。
ふわり、と店内に穏やかな風が巻き起こる。
それは、まるで意思を持っているかのようにキノコたちを優しく包み込み、踊らせるようにして寸胴鍋の中へと次々と放り込んでいった。
まるでオーケストラの指揮者のように風を操るリンドと、鍋に放り込まれたキノコを手際よく処理していくカイ。
主と従者という本来の関係性が、この時ばかりは完璧な相棒としての連携を見せていた。
あれほど騒々しかったキノコたちの歌声は完全に消え、店内には再び静寂が戻ってきた。
後には、寸胴鍋から立ち上る心地よい湯気と、先程よりもさらに濃厚になった豊潤な香りだけが満ちている。
やがて、黄金色に輝くスープが完成した。
カイとリンドは、それぞれカップに注がれたそれを手に取り、いつものカウンター席で向かい合う。
「ふむ……まあ、悪くない出汁じゃな。小僧にしては上出来じゃ」
リンドは尊大な口ぶりとは裏腹に、満足げに目を細めてスープを味わっている。
「そりゃどうも。これで一週間は仕込みに困らんな。厄介事が金になるなら、悪くないもんだ」
カイもまた、カップに残った最後の一滴まで飲み干し、ほう、と安堵のため息をついた。
いつもの静かな夜が戻ってきた。
その時だった。
カラン、と軽やかな音を立てて、店の扉が開く。
入ってきたのは、フードを目深に被った一人の青年。
旅の疲れか、その顔にはわずかな憔悴の色が見える。
「カイさん、こんばんは。実は、またちょっと厄介な相談があって……」
青年はそう言いかけて、ふと鼻をひくつかせた。
「あれ? なんだか、ものすごく良い匂いがしますね、このお店」
その言葉に、カイとリンドは顔を見合わせる。
そして、まるで共犯者のように、二人の口元に悪戯っぽい笑みが同時に浮かんだ。
このバーの夜は、まだ始まったばかりらしい。




