第四章:爆流、滝を断つ時
爺さんが教えてくれた必殺の技は、「魔拳爆流」というものだった。
体内の魔力を右の拳、ただ一点に極限まで集中させ、それを一気に爆発させる。
言葉で言うのは簡単だが、これがとんでもなく難しい。
「いいか、レイン。魔力をただ闇雲に込めるだけでは、単なる暴発じゃ。それでは人も物も、見境なく破壊するだけ。お前さんが一番恐れていることだろう?」
爺さんの言葉が、グサリと胸に刺さる。
そうだ、俺はもう二度と、自分の力で誰かを傷つけたくない。
俺は来る日も来る日も、爺さんに示された型を繰り返した。
岩場で、森の中で、時には激しい風雨に打たれながら。
だが、魔力の集中が思うようにいかない。
体内に渦巻く膨大なエネルギーは、まるで荒れ狂う獣だ。
それを右拳の一点に、針の穴を通すような精度で収束させるなんて、至難の業だった。
魔力が上手く乗らない時は、ただの空振りパンチ。
逆に、少しでも気を抜いたり、焦ったりすると、魔力が拳から溢れ出し、周囲の岩を砕いたり、木々をなぎ倒したりしてしまう。
その度に、七年前の悪夢が脳裏をよぎった。
「違う! 全然なっておらん! 力が強すぎると思ったら、抑えるのではなく流れを導けと言ったはずじゃ!」
「拳に込めるのは怒りでも恐怖でもない、ただ純粋な意志じゃ! お前さんの拳には、まだ迷いがある!」
爺さんの容赦ない叱咤が、修行場に響き渡る。
その通りだった。
俺の心には、常に恐怖があった。
また誰かを傷つけてしまうかもしれない、という恐怖が。その恐怖が、魔力の制御をさらに困難にしていた。
ある夜、俺は一人、月明かりの下で型の練習をしていた。
昼間の修行で上手くいかなかった焦りが、俺の集中を乱す。
「くそっ、どうしてできないんだ……!」
苛立ちと共に拳を突き出すと、案の定、魔力が暴走した。
近くにあった爺さんの小屋の壁が、轟音と共に吹き飛んだ。
「――っ!」
やってしまった。
自己嫌悪で、その場にへたり込みそうになる。
やっぱり俺には、この力は扱いきれないのかもしれない。
「……お前さんは、力を恐れすぎている。そして、力を求めすぎている。矛盾しておるのう」
いつの間にか背後に立っていた爺さんが、静かに言った。
吹き飛んだ壁を見ても、特に怒った様子はない。
「力とは何じゃ? 誰かを傷つけるためか? それとも守るためか? お前さんがその拳に何を込めるかで、力の意味は変わる。お前さんのその拳は、今、何を掴もうとしておる?」
爺さんは、かつて自分も力の制御に苦しみ、多くの過ちを犯したこと、そして魔法拳に込めるべき「心」とは何かを、訥々と語ってくれた。
それは、厳しい修行の日々の中で、俺が忘れかけていた最も大切なことだったかもしれない。
爺さんの言葉を胸に、俺は再び立ち上がった。
そうだ、俺はこの力を、誰かを守るために手に入れたいんだ。
リズを傷つけた、あの日の過ちを繰り返さないために。
「俺は……この力を、誰かを守るために……!」
夜明けの光が、俺の瞳に宿った新たな決意を照らし出すようだった。
それから数ヶ月。
俺は憑かれたように修行に打ち込んだ。
恐怖を完全に消し去ることはできない。
だが、それ以上に強い「守りたい」という意志を、拳に込めることだけを考えた。
そして、修行開始から約一年が経ったある日。
爺さんは俺を、山奥にある巨大な滝壺の前に連れて行った。
轟音と共に流れ落ちる水柱は、見上げているだけで首が痛くなるほどの高さだ。
「今日の課題は、この滝を、お前さんの魔拳爆流で断ち切ることじゃ」
……マジかよ、爺さん。
無茶苦茶だろ、それ。
岩を砕くのとは訳が違う。
流れ落ちる水を、拳の一撃で断ち切るなんて。
だが、やるしかない。
俺は何度も、何度も挑戦した。右拳に全神経を集中させ、魔力を込めて突き出す。
だが、魔拳は強大な水流に阻まれ、あっけなく霧散してしまう。
滝の飛沫が容赦なく俺の体を打ち、体温を奪っていく。
体力も、精神力も、とっくに限界を超えていた。
「なぜだ……何が足りない……! あと少し、何かが……!」
膝をつき、肩で息をしながら、俺は激しく苦悩した。
爺さんは、少し離れた岩の上で腕を組み、何も言わずにただ静かに俺を見守っている。
その視線が、逆にプレッシャーになる。
もうダメかもしれない――そう思った時、俺の脳裏に、これまでの修行の日々が走馬灯のように蘇った。
爺さんの厳しい叱咤。
リズの悲しそうな顔。
(そうだ……俺は、今度こそ、大切なものを守れるようになるために……!)
守りたい。その一心。
俺の心の奥底から、純粋で、強大な意志が湧き上がってくるのを感じた。
これだ。これこそが、爺さんの言っていた「心」。
俺は最後の力を振り絞り、精神を極限まで研ぎ澄ませる。
右の拳に、かつてないほど濃密な、蒼白い魔力が渦を巻いて凝縮されていくのが分かった。
周囲の空気がビリビリと震え、俺の体がまるで一つの巨大な魔力溜まりになったかのようだ。
「魔拳――爆流ッッ!!」
渾身の叫びと共に、俺は右拳を滝へと突き出した。
拳から放たれた蒼白い魔力の奔流は、一直線に滝の中央へと突き進む。
ゴオオオオオオオッッ!!
激しい水しぶきが上がり、視界が白く染まる。
そして――次の瞬間。
確かに、一瞬だけ。
ほんの一瞬だけだったかもしれないが、轟音と共に流れ落ちていたはずの巨大な滝の流れが、俺の魔拳によって、綺麗に両断されていた。
「やった……やったぞ……!」
俺はその場にへなへなと倒れ込んだが、顔には達成感と安堵の笑みが浮かんでいた。
全身の力は抜けきっているが、心は不思議なほど軽かった。
風斗の爺さんが、いつの間にか俺の傍らに来ていた。
そして、その皺だらけの手を、俺の頭にそっと置いた。
「……見事じゃ、レイン。お前さんは、お前さんだけの“魔法拳”を、確かに見つけた」
初めて聞く、師匠の優しい声だった。
その温かさに、俺は堪えきれず、子供のように泣いた。
数日後、体力を回復させた俺に、爺さんは言った。
「お前さんの力は、まだ荒削りじゃ。じゃが、その先を見る資格は、確かに得た。クリスタリアへ行け。そして、お前さんの力を、お前さんのやり方で世に示してこい」
その言葉は、俺にとって何よりの餞だった。
爺さんはさらに、古い羊皮紙の巻物の一部を俺に手渡した。
「これは『五行魔拳』の入り口じゃ。お前さんの旅の、いずれ役に立つやもしれん。……ただし、忘れるな。お前さんのその力は、使い方を誤れば世界さえも揺るがすやもしれん。魔神……その言葉の意味を、いずれ知る時が来るじゃろう」
五行魔拳? 魔神?
よく分からないが、爺さんの真剣な眼差しから、それがとてつもなく重要なことだというのは伝わってきた。
俺は師匠に深く、深く頭を下げた。
「はい、師匠! 行ってまいります!」
瞳には、不安よりも大きな期待と、過去を乗り越えようとする強い意志が宿っていた。
こうして、俺は一年ぶりに無空山脈を下り、クリスタリア魔法学院を目指すことになった。
あの忌まわしい追放から一年。
俺は、新しい力を手に入れて、再びあの場所へ――。