第三章:異骸区の出会い
学院を追放され、行く当てもなく彷徨い歩いた俺が、たどり着いたのは都市の外れにある「異骸区」と呼ばれる地区だった。
名前からして不穏な空気が漂っているが、実際に足を踏み入れてみると、そこは噂通りの場所だった。
陽の光さえ届きにくいような薄暗い路地が入り組み、建ち並ぶ家々はどれも古びて傾きかけている。
漂ってくるのは、埃と、得体の知れない何かが腐ったような、鼻を突く臭い。
ここには、魔力を持たない者や、社会から弾き出された者たちが流れ着くと言われている。
まさに、世界の掃き溜めだ。
降りしきる冷たい雨に打たれ、空腹と疲労、そして何より心の絶望で、俺の意識は朦朧としていた。
もう、どうにでもなれ。
そんな投げやりな気持ちで、人気のない路地裏に座り込んでいた時だった。
「おい、小僧。見かけねえ顔だな」
不意に頭上から降ってきたのは、下卑た声。
見上げると、ニヤニヤと品のない笑みを浮かべたチンピラ風の男たちが三人、俺を取り囲んでいた。
ああ、最悪だ。
ただでさえどん底だってのに、こんなクズどもにまで絡まれるなんて。
抵抗する気力も湧かず、されるがままになりかけた、その時――。
「やれやれ、弱い者いじめとは、感心せんのう」
どこからともなく、しわがれた、しかし妙に落ち着いた声が響いた。
チンピラたちがギョッとして声のした方を見ると、そこにはフードを目深にかぶった、小柄な老人が一人、いつの間にか立っていた。
みすぼらしい格好をしているが、その佇まいには、どこか只者ではない雰囲気が漂っている。
「ああん? なんだジジイ? 痛い目見ねえうちに失せな!」
チンピラの一人が老人を威嚇し、殴りかかろうとする。
だが、次の瞬間、そいつは奇妙な悲鳴を上げて地面に転がっていた。
何が起きたのか、俺には全く見えなかった。
残りの二人も慌てて襲い掛かるが、老人はまるで柳に風。
最小限の動きでチンピラたちの攻撃をヒラリヒラリとかわし、時には肘で、時には足払いで、あっという間に二人とも地面に転がしてしまった。
魔法の詠唱も、魔法陣の輝きも一切ない。
俺は、その信じられない光景を、ただ呆然と見つめていた。
チンピラたちは命からがら逃げ去り、路地裏には俺と、その老人だけが残された。
老人はゆっくりと俺に近づき、フードの奥から鋭い、しかしどこか優しい光を宿した瞳で俺を見据えた。
「お前さん、面白いモンを宿しておるな。まるで嵐の前の静けさじゃ。その瞳の奥の絶望と……僅かくすぶり。それは呪いか? それとも……」
その言葉は、俺の心の奥底まで見透かしているかのようだった。
俺のこの途方もない魔力と、その制御に苦しむ魂を、この老人は一目で見抜いたというのか。
「あなたは……一体……?」
警戒心と、ほんの僅かな期待が入り混じった声で、俺は尋ねた。
老人は、フードの奥で悪戯っぽくニヤリと笑ったように見えた。
「ワシか? ワシはただの老人じゃよ。名を風斗という。しがない拳法家じゃ。……どうやら、お前さん、その規格外の魔力を持て余しておるようじゃな」
『使い方を知れば』
それは、俺がずっと求め続けていた言葉だった。
「ワシについて来るか? 地獄を見るかもしれんが、あるいはその先が見えるやもしれんぞ」
風斗と名乗る老人は、そう言って、俺に皺だらけの手を差し伸べた。
その手は小さく、力強そうには見えない。
だが、その手には、俺の人生を根底から変えるかもしれない、途方もない何かが宿っているような気がした。
俺は、迷うことなく、その手を取った。
「俺は……レイン・ストームです。俺は……強くなりたいんです。この力をコントロールして、二度と誰も傷つけないために……!」
震える声だったが、俺の精一杯の決意だった。
風斗の爺さんは、俺の手を力強く握り返すと、満足そうに頷いた。
「うむ、良い目をしておる。その覚悟、気に入った。ならば行こうか、レインとやら」
爺さんに連れられて、俺は異骸区を抜け、さらに都市からも遠く離れた無空山脈の奥深くへと分け入った。
そこは、人の気配などまるでない、手つかずの自然が広がる秘境。
爺さんの隠れ家は、その山中腹にポツンと建つ、今にも崩れそうな粗末な小屋だった。
「今日からここがお前の家じゃ。文句はあるか?」
「い、いえ……」
文句なんてあるわけがない。俺にはもう、ここしか帰る場所がないのだから。
◇
翌日から、早速修行が始まった。
「いいか、レイン。魔法というのは、体内の魔力を外部に放出して、特定の現象を操る技術じゃ。そのために詠唱や魔法陣という手順が必要になる。だがな、ワシが教える『魔法拳』は、それとは全く異なる」
風斗の爺さんは、小屋の前の開けた場所で、俺にそう切り出した。
「魔法拳とは、魔力を己の内に巡らせ、循環させ、肉体そのものを触媒とし、武器とする古の技。お前さんのような“異骸症”の者……つまり、膨大な魔力を持ちながらも、それを魔法という形で放出できない者こそ、その極致に至れる可能性があるとワシは踏んでおる」
最初の修行は、想像を絶するほど過酷な体力作りだった。
夜明けと共に叩き起こされ、凍えるような滝壺で身を清め、山道を駆け上がり、巨岩を運び、日が暮れるまで丸太を素手で打ち続ける。
その合間には、体内の魔力の流れを意識し、それを全身に巡らせる訓練。
魔法学院の生ぬるい訓練とは訳が違う。
毎日、全身の筋肉が悲鳴を上げ、意識が飛びそうになるほどの疲労困憊。
何度も地面に倒れ伏したが、爺さんは一切手加減しなかった。
「立て、レイン! 魔力とはただのエネルギーにあらず。それはお前さんの意志の力の発露じゃ! その程度のことでへこたれるようなら、お前さんのその膨大な魔力は、ただの暴走するだけの厄介物にすぎんぞ!」
爺さんの叱咤は厳しく、時には拳も飛んできた。
だが、その言葉の端々には、俺の可能性を信じているような響きが確かにあった。
不思議なことに、この過酷な修行の中で、俺は初めて、自分の体内の魔力が、ただ暴れ回るだけの存在ではないことに気づき始めていた。
詠唱も、魔法陣も介さずに、この身に宿る膨大なエネルギーが、直接的な「力」として発揮できるかもしれない、という新たな感覚。
それは、今まで俺が知っていた「魔法」とは全く異なる、もっと原始的で、もっと自分自身と直結した力のような気がした。
そんな日々が数週間ほど続いたある日。
ボロボロになりながらも、なんとかその日の修行を終えた俺に、風斗の爺さんが不意に言った。
「さて、小僧。そろそろ必殺の“技”を教えてやるか。お前さんのその馬鹿デカい魔力を、一点に込めてぶっ放すための、とっておきの技をな」
その言葉を聞いた瞬間、俺の体中に、疲労を忘れさせるほどの新たな闘志がみなぎってくるのを感じた。
本格的な魔法拳の技術習得。
それこそが、俺が求めていたものだったのだから。