第一章:氷皇女を砕く
「――では、始めなさい。あなたの無力を、この学院の全ての者たちの前で示してあげますわ」
キン、と鼓膜を刺すような冷気を帯びた声が、クリスタリア魔法学院が誇る大闘技場に響き渡る。
声の主は、一段高い位置から俺――レイン・ストームを見下ろす少女。
氷のように透き通る銀髪を風に遊ばせ、寸分の狂いもなく仕立てられた純白の制服に身を包んだその姿は、まさしく「氷の皇女」の異名にふさわしい。
フリーシア・クリスタル。
この魔法至上主義のアルカディア大陸で、王族にして学院最強の天才魔導士と謳われる、エリート中のエリートだ。
対する俺は、黒髪に一筋だけ白いメッシュが混じる、どこにでもいるような(と思いたい)十七歳。
ただ、普通じゃないのは、この身に宿る魔力量。
なんでも常人の千倍だとか。
そのくせ「魔力異骸症」なんていうふざけた診断名のせいで、魔法は一切使えない。
おかげで一度はこのクリスタリア魔法学院を「欠陥者」の烙印と共に追放された身だ。
そんな俺が、なぜ今ここにいるのか。
答えは一つ。
俺の力を、俺のやり方で証明するためだ。
観客席からは、期待と侮蔑が入り混じった囁きが波のように押し寄せる。
「あれが“欠陥者”のレインか……」
「フリーシア様相手に何ができるっていうんだ」
「見世物だな、こりゃ」
――ったく、好き勝手言ってくれる。
まあ、無理もないか。
この世界じゃ、魔法こそが絶対的な力の指標。
魔法を使えない俺なんて、彼らにとっちゃ存在しないも同然なんだろう。
だが、そんな常識は今日、ここで覆させてもらう。
フリーシアが右手を静かに掲げると、闘技場の空気が一変した。
肌を刺すような冷気が密度を増し、彼女の周囲に無数の氷の結晶が蝶のように舞い始める。
美しいが、殺人的なプレッシャーだ。
さすがは「氷の皇女」。
その魔力、その威圧感、並の魔法使いじゃ太刀打ちできないだろうな。
「……無駄なこと。魔力なき者が、このクリスタリアに再び足を踏み入れられると本気で思っているのなら、その思い上がり、ここで砕いて差し上げますわ」
フリーシアの紫紺の瞳が、俺を射抜く。
その瞳には、絶対的な自信と、俺への一片の容赦もない拒絶が浮かんでいた。
俺は臆することなく、その視線を真っ直ぐに受け止める。
胸の奥で、師匠の言葉が蘇る――『お前の道は、お前自身で見つけよ』。
「俺は、俺の力を証明しに来ただけだ」
静かな、だが確かな意志を込めて、俺はそう告げた。
フリーシアの形の良い唇が、わずかに嘲りの形に歪む。
「証明? 魔法を使えぬあなたが、何を証明するというのですか?」
そう言うや否や、彼女の詠唱が始まった。
優雅な、それでいて一切の無駄がない所作。
魔力が奔流となって彼女の周囲に集束し、闘技場全体が彼女の「絶対零度」の領域へと変貌していく。
「あれがフリーシア様の“絶対零度”か……!」
観客席から、畏怖と感嘆の入り混じった声が漏れる。
そりゃそうだろう。
並の魔法使いなら、このプレッシャーだけで凍りつく。
刹那、フリーシアの白い指先から、数十本の鋭利な氷槍が空間に生成され、俺目掛けて一斉に射出された。
一本一本が壁を貫くほどの威力を秘めているのが、肌で感じ取れる。
速い、そして正確無比。
俺は全身のバネを使い、紙一重で氷槍の豪雨を掻い潜る。
闘技場の石畳は瞬く間に厚い氷に覆われ、ツルツルと滑って足元がおぼつかない。
いやらしい攻撃だ。
「逃げることしかできないのかしら? それがあなたの言う“力”?」
フリーシアの声は、どこまでも冷たい。
まるで感情というものが欠落しているかのようだ。
彼女は追撃の手を緩めない。
さらに強力な範囲魔法「フロスト・ノヴァ」を放つ。
闘技場全体を覆い尽くさんばかりの冷気の爆発が、回避する俺の進路を塞ぐように迫ってきた。
「くっ……!」
咄嗟に両腕で顔面をガードするが、全身を凍てつく衝撃が襲う。
黒い制服の表面には見る見るうちに霜が降り、吐く息も真っ白に凍りそうだ。
手足の感覚が鈍ってくるのが分かる。
「やはり……魔法がなければ何もできない……!」
「フリーシア様、圧勝だな!」
観客席からは、期待通りの結果を確信したような声が聞こえてくる。
うるさい。
まだ終わっちゃいないんだよ。
俺は内心で悪態をつきながら、フリーシアの魔法のパターン、魔力の流れを冷静に観察し続ける。
師匠に叩き込まれた「魔脈視」の初歩。
完全じゃないが、彼女の魔力のクセが少しずつ見えてくる。
フリーシアが、まるで虫けらでも見るような目で俺を見下ろし、最後の仕上げとばかりに両手を高く掲げた。
これまでとは比較にならないほどの強大な魔力が、彼女の小さな体に収束していく。
闘技場全体が、彼女から放たれる絶対的な冷気と眩い光に包まれ、まるで巨大なダイヤモンドの中にいるようだ。
「終わりにしましょう。氷の棺で永遠に眠りなさい――“ダイヤモンドダスト・エタニティ”!」
フリーシアの最強魔法。
無数の氷の粒子が、それぞれに殺人的な冷気を纏い、意思を持った生き物のように俺に殺到する。
回避は不可能。
防御も無意味。
並の魔法使いなら、その輝きを見た瞬間に絶望するだろう。
観客は息を呑み、俺の敗北、いや、再起不能なまでの破滅を確信しているはずだ。
だが――。
「まだだ……まだ終われない……!」
俺は低く、しかし確かな声で呟いた。
これまで回避に徹していた俺の雰囲気が、ガラリと変わる。
全身の細胞が沸騰するような感覚。
体内を巡る、制御しきれないほどの膨大な魔力が、確かな意志を持って右腕へと流れ込んでいく。
黒髪に混じる一筋の白髪が淡く光り、右腕の皮膚の下には、青白い光の筋が血管のように浮かび上がった。
これが俺の力。
魔法じゃない。
師匠から叩き込まれた、古の秘技。
「なっ……!?」
フリーシアの整った顔に、初めて困惑の色が浮かぶ。
俺から放たれる異様なプレッシャーを感じ取ったのだろう。
だが、もう遅い。
俺は両足で強く地面を踏みしめた。
凍てついていたはずの床が、俺の足元から蜘蛛の巣状に砕け散る。
フリーシアのダイヤモンドダストが、俺の全身を飲み込もうとする刹那――。
「魔拳爆流!!」
俺は咆哮と共に、強く握り締めた右の拳を真っ直ぐに突き出した。
拳の先端から、凝縮された蒼白い魔力の衝撃波が、一条の光となって放たれる!
ゴォォォォォンッ!!
ダイヤモンドダストの氷の粒子と、俺の魔拳の衝撃波が正面から激突。
魔法と未知の力がぶつかり合い、闘技場全体を揺るがすほどの爆音と閃光が炸裂した。
観客席からは悲鳴が上がり、誰もがその凄まじいエネルギーの奔流から目を逸らす。
やがて、爆風が収まり、舞い上がっていた粉塵がゆっくりと晴れていく。
あれほど猛威を振るったフリーシアのダイヤモンドダストは、完全に霧散している。
そして、その中心に、俺は右腕を突き出したまま、無傷で立っていた。
拳からは、まだ蒼白いオーラが陽炎のように立ち昇っている。
「な……に……? い、今のは……魔法じゃない……? そんな……馬鹿な……」
フリーシアは、目の前の現象が理解できないといった表情で、呆然と呟いている。
彼女の絶対的な自信に満ちていた紫紺の瞳が、大きく見開かれ、激しく揺れていた。
その完璧なポーカーフェイスが、初めて崩れた瞬間だった。
俺はフリーシアを見据え、静かに、しかしはっきりと告げた。
「言ったはずだ。俺は、俺のやり方で強くなる、と」
フリーシアは動揺を必死に抑え込もうと、唇を噛み締めている。
「ま、まぐれですわ……! そのような得体の知れない力で、このフリーシア・クリスタルが……!」
再び魔力を高めようとするが、先程の極大魔法を使った反動か、それとも俺の未知の力への警戒からか、彼女の動きには先程までの流麗さがなく、僅かに硬い。
その一瞬の隙を、俺は見逃さない。
床を蹴り、瞬時にフリーシアの懐へと肉薄する。
「瞬魔歩法!」
師匠から教わった、魔力を足に集中させて爆発的な速度を生み出す歩法。
常人離れした俺の動きに、フリーシアの反応が明らかに追いついていない。
「これで、終わりだ!」
フリーシアが慌てて防御魔法を展開しようとするよりも速く、俺の渾身の左拳が、彼女の華奢な腹部寸前でピタリと停止する。
拳から放たれる強烈な魔力の圧力――魔圧とでも呼ぶべきか――がフリーシアの体を襲い、彼女は「きゃっ……!」と短い悲鳴を上げて、その場に膝から崩れ落ちた。
戦闘続行は不可能だろう。
しん、と闘技場が静まり返る。
砂埃の匂いと、フリーシアの放った氷魔法の名残である冷気だけが、その場の空気を支配していた。
やがて、試験管が呆然とした様子で、しかし震える声で高らかに宣告した。
「しょ、勝者…………レイン・ストーム!!」
その言葉が引き金になったかのように、観客席からどよめきと、信じられないといった声、そして一部からは称賛ともとれるざわめきが沸き起こった。
俺はフリーシアに背を向け、観客席、そして貴賓席に座る学院長を一瞥する。
「俺の力、見てもらえただろうか」
声には出さないが、俺の瞳にはそんな問いかけが浮かんでいた。
ようやく掴んだ、俺自身の力による勝利。
安堵感が全身を包むと同時に、まだ拭いきれない何かが胸の奥で燻っている。
膝をついたままのフリーシアは、悔しさと屈辱、そして目の前の俺に抱いた理解できない感情に、美しい顔を歪ませていた。
「ありえない……魔法も使えないあなたが……なぜ……こんな……」
彼女のプライドは、今、音を立てて砕け散ったのかもしれない。
その時、俺の右腕に浮かぶ青い光の筋が、一瞬、チカチカと強く明滅した。
同時に、ほんの僅かな倦怠感と、制御しきれない力の奔流が、体の奥底で暴れ出しそうになるのを感じる。
俺は無意識に顔を顰め、右腕を軽く振った。
(……まだ、完璧にコントロールできているわけじゃない、か)
俺の勝利の歓声に沸く闘技場。
その喧騒の中で、俺は一人、自らの力の根源と、その先に待つ運命に、思いを馳せずにはいられなかった。
俺の本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。