悪役令嬢、悪役になれません!
※若干の下ネタ注意!
2021.11.06
内容を若干修正し、後書きにも追記しました。
「あくやく、」
本来、神が人間に頭を下げることなどありえない。しかし。
「なのですか? わたくし」
「はい! わたしが十七年前に魂の成分を間違えました! 殴って踏みつけて罵って下さい!」
「いえ、そんな恐ろしいことはいたしませんが……」
――……人間の小娘相手に、豊穣の女神エリアの渾身の詫び土下座が炸裂している。
エリアは肥沃や豊穣、そして多産をもたらす地母神である。彼女の仕事は、管轄地であるグランツバーグ王国の地に実りをもたらすこと。
そして――……彼の地に生まれ出づる、すべての生命の魂を作り出すことである。
「えーっと……つまりわたくしは、二年後に誕生する聖女様へ狼藉を働き、……大罪人となって、処刑される運命だと?」
「はい……」
「わたくしの聖女様に対する数々の仕打ちを目の当たりにしたエリック王太子殿下は、わたくしに失望し……わたくしは彼からの愛も信用も失う、と」
「いえ、そもそも愛されませんし信用すらありません……!」
「まあ……」
グランツバーグの守り神であるエリアの神話エピソードは多い。おおらかな彼女の性格をよく表す話や、神同士の恋の話。また、人々が信仰や善き行いによって、この女神に祝福を与えられる寓話。
そして――……なんともおちゃめな彼女が、『ちょっとやらかしてしまった』話だって、そりゃあもうたくさん。
そして――……今回三百年ぶりくらいに『ちょっとやらかしてしまった』この女神様は、エルファニア・リーナ=リー・バーデンの夢枕に立ち、彼女の魂を自分の庭に呼び出していた。
エルファニアこと『エフィ』は、現在十七歳。バーデン公爵令嬢であり、一昨年立太子された王太子エリックの婚約者である。
初顔合わせは三歳の頃で、流れる金髪に澄んだ青い瞳をした王子様は、その見目の良さもさることながら、心優しく穏やかな性格をしていた。
それらは成長によって失われることはなく、エリックはいつだってエフィに優しかった。――……いつからかエフィが、恋心を抱くようになるくらいには。
温厚で恥ずかしがり屋なエフィは、その想いを誰にも打ち明けることはしなかったが――その密かな情熱は、妃教育へと向けられた。
いつか訪れるその時に、愛する人を支えられるように――その一心でエフィは努力を続けて来たのだが、どうやらそうはいかないらしい。
「えっと――……実は運命はあらかじめ、≪運命の記録≫というものによって決められていて、」
「はい……」
「そして女神様のお役目は、その≪運命の記録≫に則った人間の魂を作り出すこと……と?」
「はい……いえ、正確に言えば人間以外の生き物全部ですが……大体そうです……」
女神エリア曰く――天空神の持つ≪運命の記録≫に記載されているエルファニア・バーデンの人となりは散々であるらしい。
虚栄心の強い苛烈な性格で、人を人とも思わないような……――そんな婚約者を、王太子エリックが愛するわけがない。
その≪運命の記録≫が示す彼の愛は、後に聖女となるアンナ・マクレガー男爵令嬢に向いている……らしい。
健気でひたむきな、アンナの生き方や考え方、そして聖女にふさわしい敬虔さや心根の深さ。
貴族学院で出会った少女のすべてに、エリックは胸を打たれ――やがて彼女を、心から愛するようになる、と。
「二人は永遠の愛を誓い合うも――……それを許さない存在が、殿下の婚約者であるわたくしだ、と……」
「…………はい」
グランツバーグ王国において、祝福の力を持つ聖女の地位は高い。国家元首である王と、国教の長である神官長。これらと全く同格なのだ。
おまけに様々な思惑から、聖女と王家の結婚は奨励されている。『平民出の聖女が王妃となった』という例が、歴史を遡ればいくつもあるという具合に。
そうなれば、もう身分など障害にならない。祖国を愛する王太子と聖女は、手に手を取って同じ夢を見た。
その夢が、アンナの心をエリックへと導いた。想いを通わせた二人の前に立ちはだかる、最後の障壁――……それがエフィの本来の役割であったらしい。
「エルファニア・バーデンは、聖女アンナに嫌がらせの限りを尽くして――……最終的には、聖女に対する不敬罪で投獄されて、命を――」
「ひっ!」
女神から聞かされた運命の行き先に、エフィは顔を青くし、口を手で覆った。
グランツバーグ王国では、聖女に対する不敬は重罪だ。よくてお家断然、最悪の場合は、市中引き回しの末に火炙り……ということにもなりかねない。
「未来のわたくしは、なんて恐ろしいことを……!」
そもそも“普通”に育てられたグランツバーグの民なら、そんな考え自体浮かばない。
地母神信仰と同様に、聖女信仰もしっかりと国民の心に根付いている。聖女の力は得難い力だ。傷や病を癒し、邪を祓い、魔を退け、豊穣をもたらす。
その祝福を、惜しげもなく民に授けてくれるのが≪グランツバーグの聖女≫なのである。そんな皆の『聖女様』を敬愛こそすれ、どうして悪し様に言えようか。
「……でも、わたくしが“そういう風”にならないと、≪運命の記録≫が示す未来がなくなってしまうのですね?」
「うう……はい……」
――……女神エリアの“やらかし”の結果。
エフィはその魂に、悪の華の種を持たずに生まれてしまった。
だからエフィは、至極真っ当に、“普通”に育った。真面目で、温厚で、良識があって、常識もあって……。
正に『育てたように育った』のだ。公爵令嬢として。そして、未来の王妃として。
「≪運命の記録≫には、殿下も聖女様も幸せになって、国も繁栄する――そんな未来が、書かれているのですね?」
「はい……そうです……!」
そして彼女は、至極真っ当な恋をしたのだ。
恋も愛も分らぬうちから、優しくて、穏やかで――……年頃になった今でも変わらずに、ずっと自分に一番優しい笑みを浮かべてくれる、エリックに。
「それならば――……仕方がありませんわね」
彼にも自分のことを、好きになってほしくて――少しでも綺麗になりたいのに、くせ毛とニキビと太りやすい体質に、いつだってエフィは苛まれた。優しい彼に、『エフィの巻き毛が好きだよ』と言われるまで一体どれほどの整髪料を試したことか……!
肌を荒らしてしょぼくれていれば、『病気かもしれない』と大げさに心配し、体重が増えたと茶菓子を遠慮すれば、すぐさまエフィの体を横抱きにして『まだ全然大丈夫』と言ってくれるエリックの優しさが――……泣きたくなるくらい好きだったのだ。
エリックは大人になるにつれ、どんどん素敵な男性になっていく。だから自分も、そうなりたかった。
彼の妻になれることが嬉しかった。誇らしかった。
同じように思ってほしかった。だから『せめて』と、妃になるための勉強に関しては、一切手を抜かなかった。
くせ毛は受け入れたが、肌も痩身もいまいちままならない。油断していたら、すぐにダメになる。
完璧に美しくなれないのならば、せめて完璧に支えられるような人間になりたかった。
「……――受け入れましょう。『悪役令嬢』を」
エフィは悪女でなかったが故に、ただひたむきに愛したのだ。
その身を焦がすような愛し方で、エフィはエリックを愛したのだ。愛する人の幸福を願えばこそ、エフィは黙って身を引くしかない。
つらいことではあるが――……エリックの幸福以上に大切なものなど、エフィにはないのだ。
「あ――、ありがとう! これで天空神様に叱られないで済む!」
「えっ? あ、でも……具体的には、どうしたらよいのでしょう? 生まれる以前に時を戻す、とか?」
「ちょっ!? それは時の神や運命の神の管轄! 地母神程度じゃ無理無理無理!」
――……土下座一辺倒だった女神のフランクな一面に、エフィは思わず半歩下がる。
「……――あっ、ごめんね?」
「い、いえ……」
「え――――……っと、その、出来ればこう……穏便に、というか……わたしとあなたの間で済ませたい? 的な?」
「あっ、内緒のことなのです、ね……?」
時を戻すことを『無理』と言われた瞬間、『ならばエリックにすべて話して破談にしてもらおう』とも思ったのだが――
「当たり前よ! 前にやらかした時のペナルティ、実はまだちょっと残ってるのよ! それを消化しきらないうちになんて、何を言われるか……!」
――――……顔面蒼白でうなだれる女神を前に、エフィはその案をそっと胸にしまい込んだ。
やらかした女神には皮肉なことだが――……悪女でないエフィは、真面目で良識と常識のある、心根の優しい娘であった。
困っている相手が人でも神でも、追い打ちをかけることなど出来ない。
「神様も大変なのですね……」
「本当よ! 確かに悪いとは思っているけど、百年単位で消化するペナルティってひどすぎない!? いくら神が不老不死だからって!」
「あ、あの!」
愚痴が長くなりそうだと察して、エフィは若干強引に話を切り出した。
「ではわたくしは、具体的に何をすればよろしいのでしょうか……?」
「あっ! ごめんね! そうだったわね。――……そうね。魂の形がどうであれ、≪運命の記録≫通りに事が進めばいいの」
「と、おっしゃいますと?」
「それは――――……」
***
一週間後――エフィは再び、女神エリアの庭に呼び出されていた。
「ちょっと! 全然ダメじゃないの!」
前回の土下座が嘘だったかのように、女神は怒っていた。
――『意図的に悪女らしい振る舞いをしていれば、運命は予定通りになるはずよ。まず手始めに、傲慢でイヤミったらしい言動を心がけてみて』。
悩めるエフィに、女神はそうアドバイスしたのだ。
神も人間も、堕ちていくのは一瞬。悪い言動を繰り返せば、あっという間に誰もが眉を顰めるような悪女が出来上がる――……と、女神は思っていたのだが。
『お兄様ったら正気ですか!? お義姉様へのプレゼントに、そのようなお品を選ぶなど! もう! これでお勉強なさって!』
『テオもリリーも、お手紙を書けるようになったのね! これは――ミミズさんかしら?』
『お父様ったら……ピンクのドレスでしたらもうありますわ。それに今の流行りはブルーですのよ?』
『お母様! そのような出で立ちで外を歩くのはおやめになって! 恥ずかしい!』
――――……以上が女神エリアが水晶玉で覗いた、【先週の悪役令嬢エフィ】である。
「全然イヤミになってないじゃないの! というかあなたの家族、センス悪すぎじゃない!?」
「面目次第もございませんわ……!」
そして『元はと言えばあなたのミスが原因でしょう!?』と怒ってもいいはずのエフィの方が、此度は平身低頭。自分の不甲斐なさと、家族のセンスのなさを恥じて詫びた。
なお先週エフィは、妻へのプレゼントに純金のタコの指輪を選んだ兄を叱りつけてカタログを渡し、郵便屋さんごっこがマイブームの弟妹達から『ヘビしゃん』と『トカゲちゃん』の絵葉書をプレゼントされ。
娘たちにやたらピンクの服を着せたい父に、現在の流行を教えた後で――……社交界ではなくサーカスに感化されて服を買いがちな母の奇抜な“よそ行き”に苦言を呈した。
本人的には、頑張って強い言葉を使ったつもりだったのだが……それを言われた方は、特段傷ついたりしていなかった。
むしろ幸せになっていた。侍女の選んだ無難な服に着替えた母は恥をかかずに済んだし、兄はカタログを見て選び直した指輪を妻に喜ばれ、弟妹たちはなぞなぞ遊びに勝った時のようにニコニコしていた。
「それになんであなた、『ブルーのドレスならたくさんありますから要りません』なんて言うの!? そこは『ブルーでなければ着ませんわ! 新しく買って!』でしょ!? それに結局受け取ってるし! ピンク!」
「も、申し訳ありません……!」
流行はデザインだけ抑えて、色は好きな物を着るのがエフィのスタイルなのである。ちなみにエフィはブルーもピンクも好きだ。
「……いいえ、違うわね。ごめんなさい。元はと言えばわたしが、あなたに悪の華の種を入れ忘れたのが原因だもの……悪かったわ」
「い、いえ……こちらこそ、不甲斐ない限りですわ」
「……そもそも、“イヤミを言う”ってなかなかハードルが高いことよね。エスプリは教養を磨いてこそだし」
「イヤミとエスプリは違うのでは……?」
「……とにかく! もっと簡単な、“基本のき”から始めましょ! 小さな子どもでも出来るような――――……そうだわ!」
***
「ちょっと! どういうことなのよ!?」
「す、すみませんすみません!」
更に一週間後――エフィは三度、女神エリアの庭に連行された。
『殿下、わたくしお花より宝石がほしいです。――……ひっ!? これって国宝のダイヤではありませんか! しまって! 今すぐしまって! というかどうしてこんなの持ち歩いているのですか!?』
『殿下、わたくし新しいドレスがほしいのです。……えっ? 王太子妃の衣裳部屋いっぱいある? 毎年? ちょっ、血税! 民の血税!』
『……待っている間に気が変わりましたわ。わたくし、別のケーキがいいです――……って、こんなに要りません殿下! 太りますから! やめて!』
『もう、殿下! わたくし以外の女性に視線をやらないでくださいませ! ――……な、何をにやにやしてるのですか! いじわるは嫌いです! あっちを向いて!』
――――……以上が【先週の悪役令嬢エフィ】、ダイジェスト版である。
なお前回の女神からのアドバイスは、“とにかくワガママを言ってみろ”だった。
『でも、親兄弟以外よ。あなたは聞き分けよく育っているから、下手をしたら『あのエフィがやっと子どもらしく……!』って感動されちゃうかも』
――……そんな忠告付きで。
「あなたの婚約者寛容過ぎじゃない!? 聖人!?」
「い、いえ! けしてそんなことは……!」
それどころか――……此度のことでエフィは、優しい婚約者の意地悪な部分を知ってしまった。
エフィはエリアからの助言の通り、ワガママを言う相手を家族以外――一番親しい同い年の男の子である、婚約者エリックただ一人に絞ったのだ。
宝石は、『君に最初に贈る宝石はこれに決めているんだ』という台詞と共に、エリックの懐から取り出されたが――……その場所は、公爵邸の子供部屋だったのだ。
ちょいちょい遊びにやって来る“きれいなお兄ちゃま”を、バーデン公爵家の末の弟妹はえらく気に入っている。『いっちょにあちょぶ』ことを許可されたおちびさんたちの目の前で、国宝の宝石なんて取り出した日には……。
好奇心いっぱいで『みしぇてみしぇて!』と群がる前に、必死に頼んでしまってもらった。――……エフィの可愛い天使たちは、落とし物の前科が非常に多いのである。
ドレスに関しては――……完全に計算外である。
言葉の裏で抱いた、“変動が激しい上に極秘にしている時分のサイズを、何故知っているのか?”という疑念は、『費用は僕や母上の私財で賄っているから、税金は使ってないよ?』という言葉がもたらした安心によって吹き飛ばされた。
税金大事、無駄遣いダメ、ゼッタイ。
ケーキは……今思えば、安易に予想がついたはずだった。
ありえないのだ。『なんでも美味しそうに食べるエフィが大好き』と公言して憚らないエリックが――自分とのお茶会で、ケーキを一種類しか用意していないことなど。
いつもは出された物を一つだけ、大切に大切にいただいてごちそうさまするので――……すっかり忘れていた。エフィが太ることを気にしなければ、エリックはそりゃあもうたっぷりと食べさせようとすることを。
「あなたもあなたよ! どうして引き下がるの!? 国宝だろうがなんだろうが、もらっちゃえばいいのよ!」
「む、無茶なことをおっしゃらないでくださいませ! 国宝を子どものおもちゃにするなんて恐れ多い!」
「つーか最後のなんてただのツンデレじゃないの! 相手喜ばせてどうすんのよ!」
「それは――本来のわたくしは、嫉妬深い性格になるはずだったと伺いましたので……」
「そこは問題じゃないわよ!」
――――……最後のはエフィなりに、『これ以上なく嫉妬深く、傲慢で狭量な女』を演じたつもりだった。
しかしその台詞を言った後で――……嬉しそうに、楽しそうに笑うエリックに、見つめられて、手を握られて。
でも、何も言ってくれなくて――……エフィは途端に恥ずかしくなった。
頬が燃えるように熱くなって、熱に浮かされ、目には涙が滲んできて。――……みっともなくて、恥ずかしくて、彼の視線から逃れたいのに、全然手を離してくれなくて……。
(観劇に行ったのに、お芝居の内容が全く思い出せないなんて……!)
あの時のことを思い出して、エフィの頬が再び熱を帯びる。
てのひらを当てて頬を冷やすエフィの姿に、エリアは額に手を当ててうなだれた。
「――……ごめんなさい。『元凶はわたし』、よね……」
「い、いえ……」
このうっかり者の女神は、感情豊かであるが故にどうしてもそっちが先行してしまうらしい。
ふと――エフィの脳裏に、“我が家の可愛い天使たち”の姿がちらついたが、神に対し失礼極まりないので、すぐに打ち消した。
「こちらこそ……二回もご助言いただきましたのに、面目次第もございません。重ね重ね、お詫び申し上げます」
「くっ! 丁寧な謝罪! この子、悪役の素質がなさすぎるわ……! ある種の才能なのかしら? これ……」
「女神様、どうかご助言をお与えください。わたくしは、一体どうしたらよいのでしょうか……」
「うう……! ちょ、ちょっと待って? 悪役令嬢、悪役令嬢――……うーっ! 見た目はばっちりなのに! ヘビ顔! 荒れ肌! スタイル良好で縦ロール!!」
「へっ、ヘビ!? ですか……!?」
信心深いエフィの信仰が、ほんの少し揺らいだ。
くせ毛もニキビも、太りやすいのも、昔からの悩みだったが――……デビュタント以降は、キツイ印象の顔立ちも気になり始めた。
それをよりにもよって『ヘビ』とは。おまけに『スタイル良好』だなんてイヤミまで。
太りやすい上に背が高く骨太で、柔らかく女性らしい要素は皆無。――……そんなこと、とっくに自覚しているが。
「あっ! ごめんねごめんね!? あなた悪くないのに! お願い泣かないで!?」
「だ、だいじょうぶです……」
「本当にごめんなさい! 悪口言うなんて神様失格――――……そうだわ!!」
***
「すみません……」
「…………」
「本当に……すみません……!」
「…………」
――――……女神エリアの庭での会合が、定例会となりつつある。
なお、先週の女神のアドバイスは、“とにかく悪口を言え”であった。
『あなたの場合、歪曲にすると伝わらないからストレートに! 『バカ』、『アホ』、『マヌケ』、『信じられない』! これだけ使えればオッケーよ!』
『その……ば、『バカ』と『アホ』と……お、お『マヌケ』さん、は、どのように使い分ければよろしいのでしょうか……?』
『…………分かった、『バカ』と『信じられない』。これだけで行きましょう』
こんな作戦会議が行われ――――……そして。
『やあ、エフィ。今日も可愛いね』
『ば、『バカ』! 『信じられない』!』
「……敗因、分かる?」
「……すみません、わかりません……!」
「ああもう! どうしてツンデレを発動しちゃうの!? 萌えキャラなの!? 萌え萌えキュンキュンなの!?」
「も、もえ……?」
――――――……強いて挙げるのなら、『バカ』と『信じられない』の二つに絞ったことだろうか。
しかしエリアもエフィも、そんなことには気付かない。ちなみにエフィにいたっては、『ツンデレ』が何たるかもいまいち分かっていなかったりする。まあ当然だ。異世界の文化である。
(イヤミの一つも言えず、ワガママを言って困らせることすら出来ない上に……罵倒しても、怒らせることすら出来ない……!)
エフィが渾身の勇気を振り絞って口にした『バカ』に、エリックは怒るどころか非常にいい表情を浮かべ――……以降、エフィのパーソナルスペースは侵されっぱなしだ。
あれ以来、エリックは隙あらばエフィにくっ付いてきて、『可愛い』と耳元で囁き、エフィがイヤイヤと離れようとすれば、腰を抱いて頭を撫でくりまわし……。
(……所詮わたくしは、妃の器ではなかったのだわ。神様から三度もご助言を賜ったというのに、何一つ達成することが出来ないなんて……!)
――……そうやってずーっとによによしているエリックを見て、エフィは自身の失敗を悟ったのだった。
そして――思った。いくら地母神エリアは大らかな女神だと言われていても、三度も失敗した自分を流石に見放すだろうと。
そしてこうして、エフィは呼び出され――己の不甲斐なさに、なんだか泣けてきた。
しかし無能の自分に泣く資格はないと、エフィは肺の底から息を吐き出す。ぎゅっと目をつむって、こぼれそうになった涙を無理やり引っ込め――……言った。
「……女神様は以前、『誰にも内緒で』とおっしゃいましたが――もう、正直に打ち明けた方がよいのかもしれません」
「はい?」
胸にしまい込んでも、消し去ることは出来ず――……失敗を重ねるたびに、この思いは強くなっていった。
エリアのことも、運命のことも、聖女のことも――……エリックにすべて打ち明け、破談にしてもらおうと。
「女神様からご助言をいただいたのに、不甲斐なくも何一つ叶えることが出来ず――……きっとわたくしでは、女神様のお役に立つことが出来ないのですわ」
三度も挑戦して、結果は散々――でもエフィは、いつだって真剣だった。
いつだって真剣に、“悪役令嬢”になるべく取り組んで来た。その理由は、たったひとつ。自分の身よりも大切な、愛する人の幸福のためだ。
自分の身よりも、それこそ命よりも大切な、心からの望みなのだ。愛する男を、その男が愛するものを、その理想を――ないがしろにするなんて、とてもじゃないがエフィには出来ない。
「ならばいっそ、エリック殿下に事情を打ち明け――……そうなればおのずと、聖女様と殿下のご縁が、結ばれるのではないでしょうか?」
奇跡の力を持つ聖女に敬意を払いつつ、国内に留め置く――これ以上に、効率的な方法があるだろうか?
だから聖女と王家の婚姻は、昔から奨励されている。エフィが未来の義父母として慕ってきた王と王妃だって、事情を知れば諸手を挙げて賛成するだろう。
その出会いだって――……もうすぐ果たされる。
エフィとエリックの通う貴族学院は、二日後に今年度の入学式が執り行われる。
壇上に登って挨拶をする新入生の名前は、アンナ・マクレガー――そう。後に聖女となる、あのアンナなのだ。
エフィは結局“悪役令嬢”にはなれなかったが――時間の許す限り、様々なことを調べていた。
まず最初に、アンナ・マクレガーのことについて。
彼女の人となりを調べ、国に尽くしてくれる聖女になってくれるかどうかを吟味したかった。
そして次に、過去の歴史における聖女誕生の法則性や、兆候について。
国の明るい未来に、アンナの協力は不可欠だ。かといって『あなたは二年後に聖女となるから、王太子殿下と結婚するための準備を整えてほしい』と言っても、不信感を抱かれるだけと思い――エフィは自分の言葉に信憑性を持たせようと、聖女誕生に関する文献をしらみつぶしに調べ、統計を出した。
その結果として――……『国の状況が深刻なほど、聖女が誕生しやすい』いう結論に至った。
ありとあらゆる天災や疫病、恐ろしい戦争や魔獣のスタンピード、大飢饉……。
それらが二年以内を目途に、国内で起ころうとしている――この仮定を導き出した時、血の気が引いた。。
グランツバーグは小国とはいえど、聖女一人が巡るには広すぎる。施政者にとって一番大切なものは、民の命である。
――アンナを説得する準備を一度脇に置き、エフィはそれらの対策を練るために動き出した。尽くせる手と時間があるのに、無駄に消費して取りこぼすわけにはいかない。そう思ったからだ。
突如として起こる天災や悪天候、疫病の発生に関しては、流石に予測はつけられない。
しかし戦争と魔獣被害と飢饉なら、エフィでも予測と対策が立てられる。
アンナが聖女となるのは二年後――もしかしたらそれは、これらの災厄が起こってしまった後になるかもしれない。
ならば――それまでに、出来ることをしなくては。こういうことはいつだって、初動の的確さとスピードがモノを言うのだ。
「エリック殿下は、まだお若くていらっしゃいますが――……国と民を思うお気持ちの強いお方です。幸い、聖女様と王族の婚礼は奨励されておりますから、わたくしから言えば殿下もきっと――」
「待て待て待て! 待って!」
――『殿下もきっと、快諾してくださると思います』。
――『聖女となるアンナ嬢は、優秀で可愛らしい方です。経緯は運命と違ってしまいましたが、きっと上手くいきますわ』。
「……あなた、本気で言ってるの?」
そう続けるつもりだったが――……さえぎられてしまった。
「え、ええ……」
「バカじゃないの!? ――あっ! これツンデレじゃないんだからね!? ガチのやつだからね!」
「は、はい……?」
激昂する女神に気圧され、エフィは半歩後ろに下がる。――……ここに第三者の介入が叶えば、間違いなくこのうっかり者の女神にこう言ってくれることだろう。『どの口でそれを言うか』と。
でも――それほどまでに、エフィには悪役令嬢としての才能がなかった。そもそもその才能を、この女神が入れ忘れているのだから、当然のことではあるのだが……。
「王太子は、あなたのことが好きなのよ!? 受け入れるわけがないでしょうよ!」
「で、ですが、殿下は心から民の幸福を――」
「バカ! 婚約者のわがままを喜んで、朝一番に愛を囁く男が、簡単に『はいそうですか』なんて言うわけないじゃない! 下手すりゃ血の海よ!」
「ち、血の海!?」
エリックが自分を憎からず思ってくれていることは、なんとなく感じ取っているが――……何やら物騒な女神の発言に怯えながらも、エフィは正直『そこまで?』と思わないでもない。
もちろんエフィは、エリックを愛しているが――でも、元を正せば政略結婚なのだ。王家と公爵家の。
愛はある。だが、血を見るほどの激しさはない。芝居や恋愛小説で繰り広げられるような、そんな激しい愛が、自分とエリックの間にあるなどとは……。
「――……分かったわ」
考えれば考えるほど――……『そうはならんやろ』と首を傾げるエフィを見て、エリアは大きなため息を吐いた。
そして――……こう言った。
「次でダメなら、わたしも腹を括るわ。天空神様のところへ行って、全部打ち明ける」
「女神様……」
「……元はと言えば、わたしのミスだもの。不眠不休でイヤミを半年聞かされようが、その後更に半年説教されようが……そう、自業自得なのよ……」
「ひえっ」
「本当は嫌だけど……でもそれさえ終われば、天空神様は何とかしてくれると思うわ。あの方、人間には甘いから。だから大丈夫。多分絶対、ペナルティあるけど。それも、すっっっっっごい、嫌だけど。――……だから、最後にこれだけ、試してみてくれないかしら?」
***
「分かってた! こうなることは分かってた!」
――『何を言っても、彼はあなたが可愛くて仕方がないのよ。――だから次は何も言わずに、徹底的に無視してみて』。
「分かってたわよ! 分かってたけどさ! ――早すぎじゃない!?」
「面目次第もございません……!」
前回の助言から、まだ三日も経っていないが――……エリアはエフィを自分の庭に呼び出していた。
「エフィ、頭なんて下げることないよ。エフィが悪かったことなんて、一度だってないんだから。ね?」
「エリック様……」
「アンタはなんでいるのよ!? ここはこの子の夢なのよ!?」
作戦は即時実行に移された――……が、即座にエリックに気付かれた。
そして――“致し方ない事情”があったとはいえ、エフィはエリックに、すべて打ち明けてしまったのだ。
「そうだけど! そうですけど!? 確かにわたしがすべて悪うございますけれど!? ――てか何で他人が入って来れてるのよ!?」
「頑張っちゃった☆」
「そんな頑張り要らない!」
そう――すべてを。
地母神エリアの“夢のお告げ”を、何一つ隠すことなく――いや、“隠すことが出来なかった”と言う方が正しい。
そしてその現場の一部始終を見ていた女神は――……今回ばかりは流石に、エフィに同情した。
「まあ、そこはそんなに頑張っていないのだけど。『父と共寝をしていた神官長の子どもが、一緒に神託を受けた』って話を聞いたことがあってね」
「はあ!? そんなことあるわけ――――……あっ」
「……事実だったみたいだね。まあそれはどうでもいいんだ。重要なのは――」
エリックは周囲を見渡す。――豊穣をもたらす女神の、美しい春の庭を。
「……――いつも笑顔で返事をしてくれるエフィが、僕を無視するなんて。おかしいと思ったよ。、まさかこんなカラクリがあったなんてね」
「ちょっと無視されたくらいで、『捨てられる』って思う方がずっとおかしいわよ! おまけに媚薬盛って既成事実とか!」
「盛ったのは自白剤で、催淫効果は副作よ」
「なお悪いわ!! 最低!!」
水晶玉どころか、口に出すことすら憚られる――そんな【先日の悪役令嬢エフィ】は、完全に“可哀想な被害者”だった。
エリアは地母神である。グランツバーグの地に生きるものすべての魂を作り出す――いわば母にも等しき存在だ。
娘の貞操を無理矢理奪われ、怒りを感じない母親などいない。エリアはエフィの腕を引き、エリックから引き離した。そしてその視線から隠すように、その背にかばった。
「あ、あの、女神様? わたくしのことでしたら――」
「やっぱり≪運命の記録≫は正しかったのよ! この娘に悪の心が芽吹けば、こんなことにはならなかった!」
「入れ忘れたのは自分でしょう? しかもその尻拭いを、よりにもよってエフィにさせるなんて……それが神の世の道理というものなのか?」
「うっ!」
「エリック様!」
エリアの背後から飛び出したエフィが、二人の間に割って入る。――……エフィは母を説得する娘のように、女神に向き直って地に膝をついた。
「女神様、どうかお怒りにならないでください。もしそのお怒りが、わたくしを慈しんでのことでしたら――……その心はどうか、グランツバーグの地と民へお与えくださいませ」
神殿で祈りを捧げる時と同じように手を組み――エフィは国のことを想った。
それはかつて、エリックがエフィに語った夢だった。幸福と安寧と、希望に満ち溢れた美しい国をつくること――……それはいつからか、エフィの夢にもなっていた。
(……殿下と聖女様が結婚すれば、国は栄える。聖女様のご加護があるうちは、疫病も魔獣被害も抑えられるし、農作物の収量も安定する。――……他国への、抑止力にもなる)
手に手を取って、成し遂げたかった。成し遂げて、並び立ちたかった。
でもそれは、“運命が定める正しい形”ではない。
その“正しい形”が、夢と同じ形をしている以上――……エフィはエリックを諦めなくてはならないのだ。
(……よかったじゃないの、エフィ。殿下がわたしを、『愛してる』とおっしゃってくれたのよ)
正直――少しだけ、ほんの少しだけ、惜しくなった。
荒っぽいし、道理からも外れていた。けして褒められることではない。でも。
(思い出は消えないし、奪われないし――どこへだって持っていける。……夢も叶う)
エリックの腕の中で――エフィは、『時間が止まればいい』と心から思った。
エリックはアンナではなく、エフィを選んだ、と。あの時間が永遠だったならば、エリックの愛を勝ち得たのはアンナではなく、エフィなのだ。
しかし――……いつだって時間は進む。止まりもしないし、戻ることもない。
エフィは組んでいた手を解き、立ち上がって膝の汚れを払う。――……女神に背を向け、愛した男に向き直った。
「殿下――お願いです。どうか、わたくしとの婚約を解消してください」
完璧なカーテシーも、完璧な発声も――……妃教育の賜物だ。
自分の不勉強が、エリックの弱みになる。だからエフィは、いつだって手を抜かずにやって来た。
でも――……もうこの役目もお終いだ。
時は止まらなかった。これはいずれ、アンナ・マクレガーの役目となる。
未来の聖女はこの役目を――立派に果たしてくれると、そう信じたい。
「非の在り処など、些細なことなのです。未来の王と未来の聖女が手に手を取り、誰もが幸福に暮らせる国をつくる。そこにわたくしはいない――これが、神様の定めた運命なのです」
そして――……その役目を降りた自分は、どうなるのか。
これからは、すべて運命の示した通りになっていくのだろうか。
そうなればエフィは、聖女に不敬を働いた罪人だ。刑死を以て、この世から消える。
今のエフィには、アンナを妬む気持ちも、聖女を怨む気持ちもないが――……二年のうちに、心は変わってしまうのだろうか。
耐えられなくなるのだろうか。もし耐えきれたら――……その時は、少しは温情を受けられるのだろうか。
その温情とは、はたして何なのか。バーデンの血筋は王家に連なる。友好関係を結ぶために、他国へ嫁がされるのだろうか。
(――……もう、結婚はいいわ。恋愛も。……よそへ行くのも、嫌だわ)
物心ついた頃から、エフィはエリックの婚約者だった。どこか遠くへ行くことなんて、考えたこともなかった。
(……それならいっそ、情け容赦なく切り捨ててもらおう。それこそ――『悪役令嬢』らしく)
思い出は、どこへだって持っていける。牢獄にも、処刑場にも、天国にも地獄にも。
そう思えば、怖くはなかった。あくまで“今は”だが。
でも――これまでは“なんとなく”の別れの予感が、確信に繋がった。
それが泣きたくなるくらいの、強烈な寂しさを連れて来て――……エフィは更に腰を折り、頭を下げた。
言うべきことは、たくさんあったはずだ。しかしエフィは終ぞ、何も言えなかった。
***
「ご機嫌よう、女神様」
地母神エリアの庭に下り立ったその人物は、神に対してあまりにもフランクだった。
それをエリアは咎めないが――……過去の因縁を含め、いい印象があまりないことも事実である。
呼び出したのは紛れもなく自分だが――女神は憎々しげな視線を彼に向けた。
「……あいっかわらずツヤツヤしてるわね、王太子殿下?」
「先週から『国王陛下』なんですよ」
「知ってる。世も末だわ」
「おや? 神のご加護は、変わらずにグランツバーグに与えられていますよ?」
「知ってるわよ! 与えてんのわたしよ!?」
――――……エリアがエフィをこの庭に呼び出してから、五年の年月が流れた。
結論から言うと、エリックは予定通り結婚した。――彼の『運命の乙女』である、最愛のエフィと。
「アンタに関しては、死後の面倒は絶対見ないからね! 地獄行きになっても擁護しないから覚悟なさいよ!」
「結構ですよ。生きている間さえ保証してくれれば。――国が平和で、エフィが隣で笑っていてくれれば、他に望むものなんてありませんから」
「ぐぬぬ……!」
五年前――
自ら身を引こうとしたエフィの決心を、エリックは一声で彼方へと追いやった。『いや、それはおかしいでしょ』と。
『エフィが何とかしようとしなくても、解決出来るんでしょう? というか、元凶が責任を取って罰を受ける以外、円満な解決方法ってあるの?』
そう言ってエリックは、嫌がるエリアの首根っこを引っ掴み――……問答無用で天空神のところへ案内させたのである。
そんなエリックの神を神とも思わないような行いに青ざめ、慌ててその後を追いかけたエフィに――……天空神はえらく同情した。
うっかり者の女神に危うく人生を壊されかけた罪なき娘のために――天空神は即、≪運命の記録≫を書き換えた。
まず天空神は、エフィの枕詞になっていた≪悪女≫の文字をすべて消した。
そして聖女の誕生は二十年後に延長し――……『それまでに起こる受難は、手に手をとって解決するように』と、エフィらにとっては非常にありがたい激励を贈ったのだった。
「いやー……綺麗だったなあ、エフィ。結婚式でも綺麗だったけど。戴冠式でも、最高に綺麗だったなあー……」
「うっさいわね! アンタのおノロケはもう聞き飽きてんのよ!」
「まあその後全部脱が」
「言わせねぇよ!?」
「おや、残念」
そして当初の予定通り、エリックとエフィは結婚し――……子宝にも恵まれ、若き王妃のお腹には三人目の命が宿っている。
自分に幸せが降るたびに、エフィは『こんなに幸せでいいのかしら?』と不安そうな顔でエリックを見上げてくる。エフィは未だに、『いつか見た夢』に囚われているのだ。
運命が書き換えられた時も、エフィは同じような表情でエリックを見上げていた。天空神と豊穣の女神が『大丈夫』と言って聞かせなければ、信用せずに黙ってエリックの前から姿を消していたかもしれない。
まあ――例え天空神にすげなくされても、豊穣神の加護を失っても、エリックはエフィを手放す気は毛頭なかったし、逃がす気も一切なかったのだが。
「じゃあ、仕事をいたしましょうか。北から北東部にかけての穀物の育成具合は? あと、先日報告したルフス地方の結界の強度は? 大神殿から神官を数名派遣したのですが、ちゃんと修復されていますか?」
「うう……! 人間に使われる神なんて、神の面目丸潰れよ……!」
――エフィは、知らなかったのだ。
エフィがエリックを『王に相応しい愛国者』だと思っていたように――エリックもまた、エフィのことを『王妃に相応しい愛国者』と、信じて疑わなかったことを。
資料を読み解き、そこから統計を出し、この先起こりうる事象を読み解く――
これはエフィが、エリックに並び立ちたくて必死に磨いてきた能力だ。恋をした男と同じ夢を見て、それを叶えたい、叶えてやりたいと――ただひたすらに、情熱を注いで、磨き上げた。
これを『愛しい』と、思わない方が無理なのだ。愛さずにはいられない。
後に聖女となるらしいアンナ・マクレガーは、確かに愛らしく、優秀であるようだが――……神から気まぐれに授けられる力に、人間のひたむきな努力が劣るだなんて、少なくともエリックには、全くそう思えなかった。
例えそれが国を滅ぼす選択だったとしても――……エリックは、エフィを選んだだろう。
しかし――エフィは悲しいくらい、悪女の才能のない娘だった。
そんな娘の幸福に、国の平和と民の幸福がある。ならばエリックは、それを全力で守る王にならなければならない。
つまり――エリックがまともな王として君臨するために、エフィは必要不可欠な存在だったのだ。
もしエリックが聖女と婚姻を結んでいたら――グランツバーグは、とっくに滅びていたのかもしれない。
エフィがたった一粒の悪意すら持たなかった故に、そのエフィにエリックは、世界の運命すら変えてしまうほどの恋をしたのだ。
「で、どうです? ペナルティ」
「見ての通りよ! どうして豊穣神が禁酒させられなきゃなんないのよ!?」
「酔っぱらって間違えたんだから当然でしょう? 悪の種と善の種を間違うくらいベロベロになるなんて……――神殿に話して、新たな神話として加えて差し上げましょうか?」
「どんな羞恥プレイよ! 反省してるんだから勘弁して!」
なお、≪運命の記録≫が書き換えられた五年前、地母神エリアは当然その責を問われた。
些か人に甘い天空神は、『まあ頑張りなさい』と若い二人を自分の庭から帰した後で――……それに乗じて自分も帰ろうとしたエリアの肩をがっちり掴み、彼女は一年ほど自分の庭に帰れなかった。
エリアは眠ることも座ることも許されず、半泣きでイヤミと説教を聞かされ続けた。
神なので死ぬことはなかった――……が、天空神と呼ばれるだけあってその庭は、空高くにある。
見通しも風通しも非常に良いその庭を、『何事か?』と覗き込む天使や精霊や他の神々の視線。『ああ、まーたエリアがやらかしたのか』という囁き声や笑い声。……エリアの心は死んだ。十回くらい死んだ。恥ずか死んだ。
そして――そもそもの元凶となったワインを向こう百年禁じられ、それで今回は手打ちとなった。
言い渡された瞬間――彼女は膝から崩れ落ちた。豊穣の女神は食べることも飲むことも大好きなのだ。
ふらふらと自分の庭に戻ったエリアは、『誰かに愚痴らなきゃやってけない!』と――……彼女の知る中で一番穏やかで優しくて、他人の失敗に誰よりも寛容な人間を呼び出した。しかし。
『エフィにはこの一年、『あれは悪い夢だった』と言い聞かせて来たんですよ? 気まぐれで呼び出すのは金輪際、やめていただきたい』
『だからどうしてアンタが来れるのよ!?』
『頑張っちゃった☆』
――……こうして再び女神と相見えたエリックは、彼の得意分野である交渉により、その加護を勝ち得たのである。
『エフィにしたように、週一で僕を呼び出しておしゃべりしてくれればいいだけですよ。各地の結界の傷み具合とか、農畜産業の状況とか。得意でしょう?』
『嫌よ! アンタには恨みしかないんだからね! というかそれ、体のいい神託じゃないの!』
『約束してくれたら、禁酒期間を半分にしてくれるよう頼んであげますよ』
『くっ……! よ、四分の一!』
『往生際の悪い地母神様ですね。欲に溺れては信仰を失いますよ? 例えば、国一つ分くらい』
『こ、この野郎ぉぉぉぉぉ!!』
――――……あくまで『交渉』である。『脅迫』などでは、けして。
なお神にとって、人々の信仰は必要不可欠なものである。人々の祈りは神の存在意義そのものなのだ。
「……――――と、以上がエフィの見立てです。相違点は?」
「……ほぼほぼ当たってるわ。でも、有効なのはこっち。ここら一体、原因は土だから」
「ありがとうございます。では、そのように」
「あと……ルフスの結界、直ってないわよ。多分神官ね。土地の穢れはないし、信仰も減った気はしないから」
「……調査と人事の見直しを、早急に大神殿に依頼します。いや、抜き打ちで視察に行くか……? ……まったく。聖女不在の間、神殿や聖域の清浄を保ち、結界を維持するのが神官の役目だというのに……」
「まあ、所詮は人間なのよ」
「まあ……神だって、この程度ですものね」
「この野郎!」
――エリックがこの庭に持ち込むのは、地母神エリアの仕事の範囲内のものだけだ。
しかもそのほとんどが、文句なしの正解付きである。よって、エリアの出番は正直言ってあまりない。
グランツバーグ王国の各地から持ち込まれる議題は、今は完全にエリックの元へと集められる。
エリックはそれらをすべて精査し、優先順位を決める。そしてエフィと二人で資料を調べ、統計を出す。
時には人員を増やし、時には有識者を招いて、在り得る事象をすべて検証し――……そうした過程を経て、この庭へと持ち込まれる。
エリアは、全知全能ではないが神である。地母神の加護さえあれば、そのような過程をすっ飛ばして解決出来る問題はごまんとある。
暗に『もっと頼っていい』と言いたくて、そういったことを漏らしたことがあったが――……この若き王は、あろうことかそれを鼻で笑った。
『やはりいけ好かない!』と女神は憤慨し、この男の治世のうちは二度と言うものかと心に誓ったのだった。
「……人智は、神を超えていくのかもね」
「ええ。四十五年後には、目を剥くくらい美味しいワインをお持ちしますよ」
「……ふん! わたしは地母神よ? 舌が肥えていることを忘れないでよね!」
エリックの治世は、この後四十年ほど続いた。
彼は在位中、誰もが褒めそやすような功績を挙げることはなかったが――……内乱も多国間との衝突も、大きな飢饉も疫病も、魔獣被害も彼の治世では起こらなかった。
それは後の世で、『当時の技術力・情勢では奇跡に近い』と語り継がれるようになる。
そのことを、本人であるエリックは知らない。
そのそばに常に並び立ち、夫を支えて来たエフィも――もちろん知らない。それほど遠い、未来のことだ。
さて――二人は後に『賢君』と呼ばれる息子夫婦に後を託した後、国内有数の葡萄の産地に屋敷を建て、そこへ移り住んだ。
そして現役生活の果てに身についた農業技術を駆使し、葡萄の品種改良とワインの醸造に心血を注ぐ余生を送った。
その技術提供と生産物の売り上げで、二人はその地の神殿を改装し――……週に一度、必ず二人は礼拝に訪れ、そして毎年必ず、作ったワインを供物として納めたという。
二人の仲睦まじさは『どんなに仲のいい新婚さんでも叶わない』と評判だった。
夫が杖をつくようになっても、妻はその反対側から夫の身体を支えた。また、妻の髪が抜け、皺が増え、腰が曲がっても、夫は変わらず、愛情に満ちた瞳で妻を見つめていた。
死が二人を別つまで、二人は変わらずにそうしていた。――その姿に、人々は確かに“永遠の愛”を見たのだった。
ちなみにそんな愛妻家の王の在位中、時の神官長は聖女誕生を告げる神託を受けた。
見出された聖女は、三十六歳の人妻であり――男爵家から裕福な商家に嫁いだというその女性は当時、夫の仕事の補佐と、五人の子どもを育てるのに大わらわだった。
その頃、世の中は概ね平和であり――……神殿も王家も議会も『なぜ今?』と小首を傾げたが、一応慣例に倣って神殿は本人へその旨を打診した。
「勘弁してくだせぇ。六人目も生まれるってのに聖女様だなんて、世間様に笑われるってもんですわ」
――……しかし彼女の夫が反対したことで、その話も立ち消えた。
こうして一人の聖女は、表舞台に立つことなく――妻として母として、その一生を全うしたという。
【登場人物】
エルファニア・“エフィ”・バーデン(17)
;バーデン公爵令嬢。エリックを愛するあまり妃教育に打ち込みすぎ、他人から見れば『アナタ大丈夫!?』と目を剥くほど自己犠牲の精神が強くなった。
;が、なかなか濃いメンツ揃いのバーデン公爵家(乙女趣味な父、センスが三百年早い母、とにかく残念な美兄、石とか虫とかでポッケをパンパンにするのが生き甲斐の弟妹(双子))の輪に入ると、途端に常識人に見えてくる。
;謙遜と自己評価の低さをはき違えている節がある。国際交流の場には通訳必須の人に『わたくしなどまだまだですわ……』※ノー通訳 とか平気で言っちゃう。そこに悪意はない。
エリック(17)
;金髪碧眼のイケメン王太子。エフィ大好き。無視された時は『急に可愛くなった(先日のツンデレ発動)と思ったら無視……まさか、浮気!?』と謎思考を展開し暴挙に出た。なお使った自白剤のカテゴリは違法薬物ではなく工/口グッズです。
;(未来の)嫁が自分のために頑張ってくれるのは嬉しいが、他人に嫁を使われるのは大嫌いなのでエリアのことも若干嫌い。しかし国教の主神だし、嫁も信仰してるから蔑ろにはしてない。
;なので、ちゃんとエリアのワイン解禁後には毎年ワインを奉納してる。でも解禁になるまでの五十年間、ボ●ョレーのキャッチコピー的なこと(例;『今年は十年に一度の逸品』、『百年に一度の出来』、『昨年を遥かに凌駕する絶品』など)を、新酒の季節になる度に目の前で言い続けた。
地母神エリア
;グランツバーグの地を預かる豊穣の女神。食べることと飲むことが大好き。人間も大好き。異世界の文化にも詳しい。誘惑に弱く、そのせいで仕事を疎かにしたり、とんでもないやらかしをしでかすことが度々ある。
;エリックに五十年間毎年『今年の新酒は~』とやられ、最後の方は中毒患者みたいになっていた。『ワイン飲みたいワインワインワインワインワイン百年に一度のワイン……』『大丈夫、来年のもどうせいい出来ですよ』。
;なお前回のペナルティは『アイスクリームパーティーがしたい!』と気候調整をかけたら、グランツバーグ全土に記録的な寒波が発生。大飢饉が起こり『この寒波も飢饉も死者も記されていない運命だ!』とお叱りを受け、三百年氷菓と冷菓を禁止にされた。
長編再会を目指して、三人称視点のリハビリを……と思ったのですが、文字数がえらく増えました。
『よっしゃ書けた!』と思って投稿したら、誤字がひどいので以来ちょこちょこ直してます……。