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主3


「大丈夫、です。私が悪くて……ディノさまが謝ること、では」



 けほけほと喉を詰まらせながら健気に喋る彼女に、息が苦しくなる。手を上げるつもりなんてなかった。ただ、優しくドアから遠ざけてやるだけのつもりだった。けれど彼女が僕を裏切るようなことをするから、思ったより力が入ってしまったのだ。

 それだけでなく最初にした僕との約束を覚えていないなんて、嘘を吐くから。見え透いた嘘を吐いてまで僕を遠ざけたかったのか。胸が引き裂かれたような思いがして、一瞬だけ、彼女にも僕と同じくらい痛くなってほしいと思ってしまった。僕の奴隷なのだから多少の躾をしたって誰も咎めない、とも。最低だ。本当に。


 好いてもらえないのは仕方がない。なんせこの顔だ。彼女を買った時からそんな期待はしていなかった。どんなに僕のことが嫌だとしても奴隷にしてしまえば一緒に居てもらえるのだから、それで十分だと思っていた。

 それなのに彼女は僕が話しかけても嫌な顔ひとつせず返事をしたし、あまつさえ僕なんかのそばで幸せそうに笑うから、僕が勝手に勘違いをしてしまっただけなのだ。もしかすると嫌われてはいないのかもしれない。少しでも好きになってもらえたのかもしれない、と。一人でみっともなく舞い上がっていただけ。


 だから彼女が早朝にこっそりと家を出ようとしたことに気が付いた時は、頭を殴られたような感覚がするほどだった。血の気が引いて、目の前が揺れて、表情が固まって少しも動かなかった。

 とはいえそれが手を上げて良い理由には絶対にならないけれど。悪いのは欲張ってしまった僕だ。



「許すも何も、私はディノさまの奴隷ですから」



 許して許してと小さく呻く僕に彼女また笑いかけた。そっと両手を掴まれる。そのまま僕の身体に体重を預けるようにして彼女は座り込んだ。そんな風に振る舞うから、また僕が勘違いしてしまう。



「……痛かっただろう。すまない、もうしないから」



 彼女の肩をやんわりと押し返して言う。これ以上触れてはいられない。医者に見せようと提案すれば、彼女は必要ないと苦笑した。ならばせめて今日はゆっくり休んでほしいと促す。加害者の僕が何を言っているのか自分でも呆れたが、彼女は居心地悪そうに大丈夫だとまた微笑んだ。



「ディノさま。たった一度、それも自分の奴隷を殴ったくらいで思い詰める必要なんてないですよ」



 言い聞かせるようにゆっくりと紡がれた言葉に動揺する。自らを殴っても良い程度の奴隷だと言わせてしまうほどに、僕は彼女を蔑ろにしていたらしい。確かに僕は彼女を金で買った。主人と奴隷という身分を以て彼女をここに縛り付けている。

 けれど酷く扱っているつもりは全くなかったし、大切にしようと心掛けていたつもりですらあった。しかし“つもり”でしかなかったようだ。自分でも気が付かない、心の奥底では所詮奴隷だと思っていたのかもしれない。

 あの日市場で女主人に罵声を浴びせられる少女奴隷を見たときの、僕ならもっと大切にできるという考えすら思い上がりでしかなかったのだ。



「違う。違うんだ、すまない。君を傷つけて良いはずがない。僕の奴隷だからこそ、宝物みたいに大切にするつもりだったんだ。ただ、君が僕から逃げてしまうと思ったら、頭が真っ白になってしまって。もうしない。もう絶対にしないから、もっと大事に、優しくするから、だから」



 一旦言葉を切る。震える唇で必死に言い訳する僕を、彼女はじっと見上げた。ぽかんと可愛らしく口を開けている。今、どんなことを考えているのだろう。

 短く息を吸った。



「僕のそばにいて」



 絞り出すように小さな声は、触れるほど近くに居る彼女にすら届いたのか怪しい。それでも彼女は二三度瞬きをした後合点がいったように息を漏らして、当然だと頷いてくれた。





「朝市に、行きたかっただけなんです。すみません、紛らわしいことをして」



 僕も彼女も幾分か落ち着いた後、朝食を前にして彼女がぽつりと零した。どういう意図かと首を傾げる。

 彼女はおずおずとテーブルの端を指さした。つい、と目線を向ければ置いた覚えのないメモがある。手を伸ばして目を通す。そこにはお世辞にも上手とはいえない彼女の字が並んでいて、朝市に行ってくるという旨が書かれていた。

 思わず彼女を見つめる。あれは逃げようとしたのではなく、ただ出掛けようとしただけだったと言いたいらしい。

 信じても良いのだろうか。朝市に出掛ける振りをしたまま、帰ってこないつもりではなかったのだろうか。どうにも疑心暗鬼になってしまう。



「そうか。それなら、良いんだ。僕こそごめんね」



 問い詰めたって良いことは何もない。

 彼女の言うことが本当でも嘘でも、どちらでも良かった。とにかく勝手に出ていかず、早朝でも夜中でも僕に声をかけてから出掛けてほしいと約束させる。同じようなことがあったとき、またあんな思いをするのは嫌だった。せめて一言あれば、彼女を見送った僕が不安になるくらいで済む。本当は一緒に出られれば良いのだが、いくら彼女でも僕と一緒に外出するのは嫌だろう。



「ディノさまが眠っていても、ですか?」



 流石に叩き起こすのは、と彼女は戸惑ったが、本人がそう言っているのだからと納得させた。彼女は渋々といった様子で頷く。



「不自由をさせているのは分かってる。本当に。君の幸せを真に望むなら、あの時君を買わずにいれば良かったのも、知ってる。けど、どうしても僕だけのそばにいてくれる人が欲しくて、ずっと一緒にいてくれたら、それで……ああ、ごめんね、気持ち悪いよね。僕がこんなことを言うのは」



 弁明しようとすればするほど印象を悪くしている気がする。幸いと言って良いのか、彼女が気にした様子はない。華奢な首が少しだけ傾く。きょとんとするその表情さえ可愛らしい。尻すぼみになっていく僕の言葉を聞き終えると、彼女は控えめに口角を上げた。



「逃げるんて、考えたこともなかったです。でも、もしディノさまが不安に思うなら、首輪でも付けておきますか?」



 自身の首元を指して、ツンとこちらへ見せつけてくる。きっと本人はほとんど冗談を言ったつもりなのだろう。その証拠に彼女の目は細められ、緊張感の欠片もない。もっと心に余裕があれば、その手があったか、なんて驚いてみせることも出来ただろう。彼女だってそういう返答を期待していたはずだ。



「僕がすると思うのか! 首輪をつけるなんて、そんなことがしたいわけじゃない! 僕は君をそんな風に扱ったりしないって、どうして分からないかな」



 しかし、冷静になりきれなかった僕は反射的に声を荒げた。びくりと彼女の薄い肩が震えて、か細い謝罪が聞こえる。

 またやってしまった。流せばよかったものを、真に受けて感情的になるなんて。どうにも我慢が利かない。



「いや、僕の方こそ、すまない。言いすぎてしまった」



 怯えた様子の彼女を前にして居たたまれなくなる。とん、と顔を両手で覆って目を瞑った。これ以上一緒の空間にいるのも酷だろう。



「少し、頭を冷やしてくる。外へ出るから、君はこの家でゆっくりしていて。昼過ぎまでには戻るから……ご飯でも作っていてくれると、嬉しい」



 ぱちりと僕を見つめる彼女を出来るだけ視界に入れないようにしながら、なんとかそれだけ言ってドアを開けた。

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