奴3
閉め忘れた窓からの風で目が覚めた。日の昇りを見るに、起きるにはいつもより少し早い時間だろう。朝特有の寒さから逃げるようにして布団の中で丸まったが、どうにもまだ背のあたりが冷たい。窓を閉めればいくらか和らぐだろうか。
自分の体温が残る布団から泣く泣く這い出て、大人しく窓を閉めた。低い位置にある朝日が眩しい。二度寝をしようと再びベッドに戻る。けれど腰まで布団を引き上げたところで、随分と眠気が削がれてしまったことに気が付いた。何となく勿体ない。
朝食を作る時間までまだかなりある。ただぼんやりと空でも見て過ごすのも悪くはないが、この前青果店のおばさんに聞いた朝市にでも行ってみようか。立ち上がって伸びをした。
出かける支度を整えて一階へ降りる。ディノ様は見当たらない。まだ寝ているのだろう。一応ひと声かけてから出た方が良いだろうか。
少し迷って振り返る。今しがた降りてきた階段に片足を乗せて、脹脛に力を込めたところで思いとどまった。
そう時間もかからず帰ってこられるだろうし、わざわざ起こすのも忍びない。ディノ様は昨日遅くまで何かしていたようだから、今頃深く眠っているはずだ。それに、私だったらこんなことで一々起こされるのは嫌だ。しかし無断でお金を持ち出すわけにもいかないので、書置きだけでもしていこうとペンを握った。
朝市に行く旨のメモをテーブルの上に置く。読み書きの練習をしたとはいえ、書き慣れない文字はそう簡単に整わない。多少歪ではあるが、ディノ様であればどうにか読んでくれるだろう、と信じることにする。外套を羽織って、バッグの中にきちんと財布が入っていることを確認してから玄関へ向かった。
「誰が、外に出ても良いと言ったかな?」
ドアノブに手をかけたとき、背後から声がした。わ、と身体が跳ねる。悪いことなど何もしていないのに喉の奥が引きつった。
目覚ましに浴びた風にも劣らぬ冷え冷えとしたそれは普段のディノ様からかけ離れていて、振り返るのに躊躇う。せめて何か言わなくては。いつまでも黙っていたら無視をしていると思われてしまう。
不自然な動きでゆっくりと振り向けば、寝間着のままのディノ様がぞっとするほど暗い顔で立っていた。いつから起きていたのだろうか。悠長にもそんなことを考えて、ゆらりとディノ様がこちらへ向かってくるのを見ている。
乱暴な足音がして、迫った彼の手すらまともに認識できないまま肩を掴まれ、そのまま突き飛ばされるようにしてドアから引き離された。
ゴトン。鍵のかかる音すら荒々しい。
怒っているのだと思い至った。心当たりが何もなかったので気が付くのが遅れたが、そうだ、彼は怒っているのだ。きゅっと狭まった気道を無理矢理に開いて、謝罪の言葉を喘ぐようにして紡ぐ。
「どうして謝るの」
淡々としているようで、攻撃的な台詞だ。見上げたディノ様に睨みつけられた。にもかかわらず、こちらを向いているはずの視線は絶えず移動していて、数秒と合う気配がない。
「謝らないといけないようなことをしたの? 疚しいことでもあるのかな?」
そう言ってディノ様は口角を上げた。けれどよく見るとその唇は震えていて、泣くのを我慢しているようにも見える。困惑して返事が見つからない。そんなに顔を真っ白にされては、まるで私がディノ様を傷付けている気分になる。
「どうして何も言ってくれないの」
ディノ様が更にこちらへ近付いた。互いの爪先が十センチにも満たないほどまで来たとき、ぴたりと彼の動きが止まる。何かに躊躇しているようだった。それにしても近い。いつからそんなにパーソナルスペースが狭くなったのだろうか。
前髪の隙間から責めるような目を近距離で向けられて、初日のことを思い出す。屋敷に入るのにまごついて誤解をさせてしまった、あの時と似ている。また何かすれ違いでもしているのだろうか。しかし、自分に非があった可能性を早々に捨ててしまうのは良くない。
ええと、なんて意味のない返事で時間稼ぎをしながら言われた言葉の意味を考える。「誰が、外に出ても良いと言ったかな?」ということは、外に出てはいけなかったのだろう。それでは、どうして今まで外出を咎められなかったのか。確かに過剰なまでに心配された覚えはあるが、禁止されてはいないはずだ。
そうすると、悪いのは外出自体ではなくて、今外出することなのかもしれない。時間を考えてみれば早朝だ。ゆっくり寝ていたかったのに物音で起きてしまった可能性もある。それで機嫌が悪いのか。いいや、それならばいくらディノ様でももっとストレートに言うだろう。
もしかすると、今日は他にしなくてはならない予定があったのかもしれない。それを放り出して外出するな、という意味だったとしたら。何かあっただろうかと記憶を探ってみるが見つからない。私が忘れているだけだとしたら非常に申し訳ないな。ディノ様は伝えたつもりだったけれど、私が生返事だけして聞いてなかったという事態もあり得る。うーん、これが一番濃い線だろうか。
ディノ様は私の言葉を待っているのか、はたまた何か考えがあるのか、じっと私を見下ろしたまま黙りだ。
身長差でそろそろ首が辛くなってきた。一旦視線を下げてそれとなく距離をとってみる。途端、もの凄い速さで二の腕を掴まれた。指が骨と肉の隙間に入って、裂かれるみたいに痛い。加減をする余裕もないほど苛立っているのか、わざとそうしているのか。
「そばにいる約束だったよね」
私が何か言う前にディノ様が焦ったように口を開く。現在進行形でそれは守っているつもりだが、やはり別の約束があったのだろう。
また失敗してしまった。ここのところは奴隷として上手く仕事ができていると思っていたが、気を抜くとすぐにこうだ。自分の不甲斐なさに少し落ち込んだ。
このまま解雇されたら、オーナーはまた面倒を見てくれるだろうか。思い浮かべたオーナーは呆れたように頬を掻いていた。そもそも店に辿り着けるかも怪しいな。
「すみません、忘れてて……約束」
後ろめたさから俯いたまま口を開く。
「忘れていた? 再三言ったはずだけどな。それで君も、きちんと返事をしたよね。本当に覚えていないのかな」
頷く。
突然お腹の柔らかいところに衝撃が飛んできて、為す術なく床に転がった。吸っていた途中の息が全て吐き出されたまま戻ってこない。
一体何が起こったのかと回らない頭で考える。床に頭をつけたままディノ様を確認すれば、茫然と自身の利き手を見つめている。ひょっとすると、殴られたのか。理解すると同時にじくじくと痛みが襲ってくる。
子供の頃、自転車とぶつかったときのことを思い出した。走馬灯みたいだ。向こうも子供用自転車で、たいしたスピードも出てなかった。相手も私も大声で泣いたっけ。あの時は一瞬息ができなくなるくらいで済んだ気がする。その後はなんともなかったし、今まで忘れていた程度の事件だ。それにしても、ああもう、死ぬほど痛い。泣くどころか、先ほどから満足に呼吸もできていない。……呼吸? そういえば吐いたまま吸っていなかった。思い出したように肺を膨らませれば、予想以上の勢いで空気が入ってくる。咳込んだ。
咳の音ではっとしたのか、ディノ様はようやく私を見た。
「そ、んなつもりじゃなくて、僕はただ」
ディノ様がこちらへ駆けるようにして近付き、そのまま膝をつく。助け起こすためだろうけれど、伸ばされた手にびくりと目を瞑った。
「違う、違うんだ、ごめん、本当に」
どちらが被害者か分からないくらいに狼狽した声が聞こえてゆっくりと目を開ける。
正直なところ、殴られたと理解した直後は彼に怯え、同時に腹が立った。約束を忘れた私に非があるとはいえ、簡単に手を上げてしまうような人だったのかと落胆もした。しかし床に這いつくばったままの私よりも悲痛な表情を浮かべているディノ様のあれが、本意だったとはとても思いたくない。
「許して、こんなことするつもりじゃなくて、許してくれ、許して」
彼は後悔しているのかもしれない。偶々虫の居所が悪くて、偶々私が粗相をして、偶々その私が奴隷だっただけのことなのだ。本来のディノ様は穏やかで優しくて、決して暴力的な人ではないはずなのだ。主人は奴隷に何をしても許される。それを知っていたから、思わず当たってしまっただけなのだろう。
私はディノ様の奴隷だ。どんな扱いを受けても文句は言えない。オーナーにだって、奴隷は待遇を選べる立場にないと言い聞かせられてきた。何をされても逃げるなと教えられた。奴隷は主人の所有物なのだと、散々言われた意味がやっと現実味を帯びてくる。
今までが特別だった、それだけだ。